第二十三章 あの演技
六月に入る頃には、リンクの子どもたちのほとんどが、晴が九条晴であることを知っていた。
きっかけは、もちろん惟人が投稿したあの動画だった。
最初に気づいたのは上のクラスの子どもたちだった。フィギュアスケートを続けていれば、過去の世界選手権やオリンピックの映像を見る機会はいくらでもある。まして九条晴は、ほんの数年前まで競技の中心にいた選手だ。名前だけではなく、実際の演技を知っている子も多かった。
動画が広がった翌日から、リンクでは明らかに視線が増えた。
晴がいつものようにリンクサイドへ立っていると、子どもたちが妙にこちらを見る。目が合えば逸らすくせに、また少しすると見ている。友達同士で何かを話し、声をかけようとしてはやめる。
晴は最初のうち、気づかないふりをしていた。
わざわざ自分から説明するほどのことでもないと思ったし、聞かれれば答えればいい。それくらいに考えていた。
そして何日かした頃、小学生の男の子がとうとう真正面から聞いた。
「先生って、九条晴なの?」
晴は少しだけ目を丸くした。
周りにいた子どもたちまで一斉にこちらを見る。さすがにこれは誤魔化せない。
「そうだよ」
晴は普通に答えた。
あまりにもあっさりしていたので、聞いた本人の方が困ったような顔をした。
「ほんとに?」
「うん」
「オリンピックの?」
「たぶん、その九条晴」
「金メダルの?」
「そうだね」
そこでようやく、周囲が一気にざわついた。
「やっぱり!」
「動画そうだった!」
「先生すごい人じゃん!」
晴は少し困ったように笑った。
「今は先生だから」
「でも九条晴でしょう?」
「それは変わらないけど」
子どもたちにとって、過去と現在は晴が考えているほどきれいに分かれていないらしい。
競技をやめたこと。
二年間滑らなかったこと。
今はリンクで子どもを教えていること。
晴の中では、それぞれが違う時間だった。
けれど彼らからすれば、目の前でエッジの使い方を教えている先生と、動画の中で世界選手権を滑っている九条晴は、最初から同じ一人の人間だった。
その日から質問は増えた。
四回転ルッツは本当に難しいのか。
オリンピックは緊張したのか。
榊先生とは昔から仲がいいのか。
どの大会が一番好きだったのか。
晴は答えられるものには普通に答えた。
「ルッツは難しいよ」
「オリンピックは普通に緊張する」
「惟人とは子どもの頃から」
それ以上は、自分から積極的に話そうとはしなかった。
それでも子どもというのは慣れるのが早い。
数日もすれば、九条晴が世界王者だったことよりも、今目の前にいる晴がどんな先生なのかの方が重要になった。
ジャンプの踏み切りが悪ければ止められる。
スピンの軸がずれればすぐに気づかれる。
ステップなら、足だけではなく首や腕まで見られる。
昼を食べ忘れれば惟人に怒られている。
本人は世界王者らしい態度などほとんど取らない。
だからリンクの日常は、すぐに元へ戻った。
ただ一つ。
子どもたちが、晴の昔の演技をよく見るようになった。
休憩時間に何人かでスマートフォンを囲んでいることがある。
晴が近づくと、慌てて画面を伏せる子もいた。
ある日、とうとう晴の方から言った。
「別に隠さなくていいよ」
中学生の女の子が少し気まずそうに笑った。
「本人の前で見るの恥ずかしい」
「なんで?」
「なんか」
晴にはよく分からなかった。
昔の自分の映像を見ることに、以前ほど強い抵抗はなくなっていた。
最初は避けていた。
世界選手権も。
オリンピックも。
父が最後に見たシーズンも。
映像を開けば、その頃の時間へ一気に引き戻されるようで、触れることすら嫌だった。
今は少し違う。
見れば、そういう時期もあったと思える。
胸の奥が全く痛まないわけではないし、父のことを思い出す映像なら、今でも見たくない日もある。
それでも。
逃げるほどではなくなった。
その日の夕方、レッスンの合間に一人の子が晴のところへスマートフォンを持ってきた。
「先生」
「何?」
差し出された画面を見て、晴は少し目を細めた。
映っているのは昔の自分だった。
十七歳。
世界選手権。
「ああ」
もちろん覚えている。
そのシーズンのフリープログラムだった。
晴が初めて世界選手権を獲った演技でもある。
「これ滑って」
晴はすぐ笑った。
「全部は無理だよ」
「全部じゃなくていい」
「どこ?」
子どもが動画を少し進める。
選んだのは後半だった。
ステップシークエンスから、そのままプログラムの終盤へ入っていくところ。途中に一つジャンプがあり、その先にコレオシークエンスが続く。
ジャンプそのものより、晴の滑りをよく見ている子が選んだ区間らしかった。
「ここから」
「長くない?」
「ここまで」
さらに先を指される。
晴は少し笑った。
「結構あるじゃん」
「見たい」
「ステップだけじゃ駄目?」
「コレオも」
周りにいた子どもまで集まり始める。
「先生、スパイラルのところもやって」
「それもコレオだよ」
「じゃあそこまで」
「注文多いなあ」
晴は笑いながらも、断る気はなさそうだった。
画面をもう一度見る。
何度も滑ったプログラムだ。
八年前。
それでも映像を見れば、どこで足を替えたか、どの音で身体の向きを変えたか、思った以上に覚えている。
「この辺ならいいよ」
その一言で、子どもたちが一斉に喜んだ。
いつの間にかスタッフまで少し離れたところから見ている。
惟人がリンクへ戻ってきたのは、ちょうどその頃だった。
自分のトレーニングを終えたばかりだった。
次のシーズンをどうするのか、まだ外へ正式には発表していない。
けれど身体はもう、次を見据えて動き始めていた。
トレーニング量も増え、新しいプログラムの候補曲もいくつか届いている。振付師との連絡も始まり、アイスショーの予定もある。
晴と暮らしている時間は変わらない。
それでも。
惟人には惟人の競技の時間が戻り始めていた。
晴も、それについて細かく聞くことはなかった。
昔からそうだった。
惟人は自分の競技について自分で決める。
晴は、そのことを知っている。
だから近くにいながら。
互いに別のものを持っている。
その距離は、二人にとってむしろ自然だった。
惟人がリンクサイドへ戻ると、晴がちょうど靴紐を締め直していた。
もうレンタル靴ではない。
二年間しまわれていた、自分の競技用の靴。
「何すんの」
惟人が聞く。
晴が顔を上げた。
「昔のプログラム、ちょっとだけ」
その言葉に、惟人の足が一瞬止まった。
「どれ」
晴が子どもから借りたスマートフォンを見せる。
惟人は画面を見た。
十七歳の晴。
世界選手権。
それだけで。
胸の奥に、八年前の空気がかすかに戻った。
「ああ、これ」
晴は何でもないように言う。
「見たいんだって」
惟人はもう一度画面を見てから、晴へ戻した。
「そう」
それ以上は何も言わなかった。
晴も気づかない。
音源はすぐに見つかった。
最初からではない。
頼まれたステップシークエンスへ入る少し前から流してもらう。
晴がリンクの中央へ向かう。
子どもたちが自然に静かになった。
普段の見本とは少し違う。
先生が技術を教えるために滑るのではない。
彼らが映像で見た、世界王者だった九条晴のプログラムを。
その本人が滑る。
そのことを。
子どもなりに感じ取っているのだろう。
惟人はリンクサイドへ立った。
曲が始まった。
今の晴は二十五歳で、十七歳だった頃とはもちろん違う。身体はまだ完全には戻っていないし、筋力も持久力も、世界選手権を戦っていた頃の方がずっと強かった。
それでも、最初のターンへ入った瞬間、惟人の中で目の前の晴と八年前の晴がふいに重なった。
深くエッジへ乗り、身体を傾け、そこから足を入れ替えて次のターンへつなぐ。ただステップを踏んでいるだけではない。一つ一つのエッジに音の重さがあり、強い音では深く氷を捉え、軽い音では足元が少し浮くように見える。それでも決して氷との接触が失われることはなく、身体のどこかが常に旋律とつながっている。
晴が顔を上げる。視線が動き、それに少し遅れるように腕が伸び、最後に指先が開いた。その指先にまで曲が続いているように見えた。
惟人は、その感覚を知っていた。
だからこそ、八年前も同じところで目を奪われた。
十九歳だった惟人は、その世界選手権ですでに自分の演技を終えていた。晴は十七歳。最終滑走を残していて、自分の順位がどうなるのか、晴がどれほどの点を出すのか、惟人は当然考えていた。
その頃にはもう、晴は惟人にとってずっと特別な人間だった。
いつからそうだったのかと聞かれても、はっきりとは答えられない。もっと小さい頃からだったのかもしれない。
四歳の晴が、小さなスケート靴で惟人のあとを追いかけてきた頃。
「惟人くん、これどうやるの?」
「先生に聞けよ」
「惟人くんに聞く」
何でも自分に聞きたがった。
面倒だと思うこともあったし、同時に可愛くもあった。一度教えればすぐにできるようになり、翌日にはさらに上手くなっている。そのうち晴は自分の後ろを追いかけるのではなく、横を滑るようになり、さらに少し経てば先へ出るようになった。
あれほど腹の立つ相手はいなかった。
晴に負ければ本気で悔しかったし、自分の演技に文句を言われれば言い返した。晴の滑りが悪ければ惟人も容赦なく指摘した。喧嘩をして、口を利かないまま大会へ入ったことさえある。
それでも、互いの身体の変化には誰より早く気づいた。
惟人が右足をほんの少しかばっただけで、晴は練習が終わるなり聞いた。
「痛い?」
「別に」
「嘘」
そういう人間だった。
近かった。
ずっと、あまりにも近かった。
だから、その関係をわざわざ何と呼ぶのか考えたことがなかった。
幼なじみで、親友で、ライバルで、家族に近い何かでもある。どの言葉も間違ってはいないのに、どれか一つだけでは足りなかった。
それでも十九歳の惟人は、特に困っていなかった。
晴は晴だった。
それで十分だった。
――その世界選手権までは。
最終滑走で晴がリンクへ出た。
音楽が始まり、最初のジャンプを跳ぶ。高く上がり、回り、降りる。続くジャンプも難しい構成だった。
惟人は最初、いつものように技術を見ていた。
エッジがどう入ったか。回転は足りているか。高さはどうか。着氷は流れたか。次に何を入れるのか。どの程度の点数が出るのか。
普段なら、そうやって晴の演技をかなり冷静に分析できた。
ところが、その日は途中からできなくなった。
気がつけば、ただ晴を見ていた。
音楽が晴を動かしているのか、それとも晴が音楽を作っているのか、分からなくなった。
世界選手権の最終滑走という、普通なら身体が強張ってもおかしくない重圧の中で、晴だけがそのことを忘れているように曲の中にいた。
終盤のステップシークエンスへ入る。
深く身体を倒し、片足でターンをつなぎ、切り返してまたエッジへ乗る。足元では複雑なことをしているはずなのに、上半身だけが別に動いているようには見えなかった。すべてが一つの流れの中にあった。
そのあたりから、惟人はもう何も分析していなかった。
晴がコレオシークエンスへ入る。
大きなカーブを描き、そこから片腕をゆっくりと伸ばした。
難しい技ではない。
派手なポーズでもない。
ただ音が長く伸び、その先へ晴の腕も自然に伸びていった。
それだけだった。
けれど、その瞬間に会場が静かになった。
ほんの一瞬、何千人もの観客が次の動きを待つように息を止めた。
惟人も同じだった。
子どもの頃から、何百回、何千回と晴が滑る姿を見てきたはずなのに、そのときだけはまるで初めて見る人間のように晴を見ていた。
綺麗だな。
そう思った。
ジャンプでも、点数でも、順位でもない。
ただ、晴が綺麗だった。
そして、その次に浮かんだ感情は、驚くほど自然だった。
――ああ。
俺、こいつが好きなんだ。
そこだけは、考える必要がなかった。
気づいてしまえば、どうして今まで分からなかったのかと思うほど単純だった。
晴が大事だった。ずっと。
負ければ腹が立つ。勝てば悔しいのに嬉しい。不調なら気になるし、いなければ探す。隣にいることを、ずっと当たり前だと思っていた。
それら全部に、初めて名前がついた。
好きだった。
晴はその日、世界王者になった。
そして惟人は十九歳で、自分が幼なじみに恋をしていることを初めて知った。
その記憶の中の晴と、今目の前を滑っている晴が、同じターンを踏んだ。
それだけで、八年前のリンクがゆっくり現在へ戻ってくる。
今の晴は十七歳ではない。筋力も速度も、当時と同じではない。それでも、音の中へ身体が入っていく瞬間だけは何も変わらなかった。
ステップの終盤で深く身体を傾け、そこから一つジャンプへ向かう。
跳んだのは三回転だった。
昔ほど高くはない。それでも着氷したところで演技は切れず、降りた足のエッジにそのまま次の音が乗る。身体が流れ、その勢いのままコレオシークエンスへ入っていく。
晴は昔と同じ場所で脚を上げた。
スパイラル。
背中から脚へ伸びる線が長く氷の上を横切る。
そこから脚を下ろし、大きなカーブへ入り、エッジを深く倒す。肩が開き、片腕がゆっくりと伸びる。
八年前、惟人が自分の気持ちを知った動きだった。
もちろん完全に同じではない。
身体も違う。
時間も違う。
それでも惟人には、同じに見えた。
リンクサイドに集まっていた子どもたちも、いつの間にか静かになっていた。普段ならすぐに声を上げる子まで何も言わず、晴が最後の音を滑り切るまで見ていた。
やがて曲が終わる。
晴が速度を落としたあと、ほんの少し遅れて子どもたちの声が一斉に上がった。
「すごい!」
「先生、全部やって!」
「無理だって」
晴は息を弾ませながら笑った。
「全部やったら倒れるよ」
「でもジャンプも入れて!」
「今できるのしか無理」
「四回転!」
「やらないよ」
即答した晴に、子どもたちが笑った。晴も一緒になって笑いながらリンクサイドへ戻ってくる。
惟人の前で止まる頃には、頬が少し赤くなっていた。
「どうだった?」
昔と同じように聞く。
晴は昔から、惟人の感想を聞きたがった。
練習でも試合でも、自分が何か滑ればすぐに「どうだった」「どこ変だった」と聞いてくる。それも八年前から変わらない。
惟人はまだ少しだけ昔の記憶を引きずったまま、目の前の晴を見た。
「ステップ後半、脚上がってない」
晴の眉が寄る。
「そこ?」
「そこ」
「八年ぶりなんだけど」
「だから?」
「惟人ってほんと嫌」
露骨に不満そうな顔をする晴を見て、惟人は少し笑った。
「ジャンプも低い」
「今と昔比べないでよ」
「体力もまだ足りない。コレオの最後も少し急いだ」
晴は一瞬黙った。
「……それは、自分でも思った」
「だろ」
「でも久しぶりなんだから、ちょっとくらい褒めてよ」
惟人は晴を見た。
八年前、十九歳だった自分が同じ人間を見ながら、初めて好きだと知った。
あれから八年。
晴は世界王者になり、五輪も取った。何度も勝ち、何度も負け、それから突然消えた。二年間、どこにもいなかった。
それでも今、目の前で同じように曲の中へ入っている。
結局、自分が好きになったものはずっとここにあるのだと思った。
四回転ではない。
世界王者だからでも、オリンピックの金メダリストだからでもない。
身体が一番強かった時期にだけ存在したものでもない。
二年間滑らなくても、痩せても、筋肉を失っても、レンタル靴からやり直しても、最後まで残っていたもの。
晴が晴である部分。
惟人は八年前からずっと、それを見ていた。
そして今も見ている。
「でも」
惟人が言う。
晴が顔を上げた。
「何」
惟人は一瞬だけ言葉を選んだ。
八年前と同じだとは言わなかった。
好きだとも、もちろん言わない。
ただ。
「晴だった」
そう言った。
晴は少しだけ目を丸くし、それから意味が分からないという顔で笑った。
「何それ」
「そのまんま」
惟人は答えた。
晴はまだ笑っている。
十九歳の惟人が、あの世界選手権で何に気づいたのかも知らない。
八年経った今も、それが何一つ変わっていないことも知らない。
惟人は、それでいいと思った。
今はまだ。




