第二十四章 六月の距離
晴がリンクを上がったあとも、惟人の中にはしばらく八年前の音楽が残っていた。
実際には、曲などとうに止まっている。子どもたちは次の練習へ戻り、さっきまでリンクサイドに集まっていたスタッフもそれぞれの仕事へ散っていった。晴もベンチへ腰を下ろし、何事もなかったように靴紐をほどいている。少し前まで、十七歳で世界王者になったときのプログラムを滑っていた人間とは思えないほど普段通りで、水を飲みながら近くの子どもに何か聞かれれば笑って答えていた。
惟人は少し離れたところから、その姿をぼんやりと見ていた。
十九歳の頃なら、こんなふうにじっと見ていることはできなかったかもしれない。
あの世界選手権で自分の気持ちに気づいてからしばらくの間、晴を見ることそのものが妙に難しくなった。それまで何年も隣にいて、肩が触れることも、移動中に寄りかかられることも、同じホテルのベッドで晴が隣に転がっていることも何とも思っていなかったはずなのに、好きだと分かった途端、全部が急に意味を持ってしまった。
近い、と思う。
少し離れてほしいとも思う。
なのに実際に離れられると、それはそれで腹が立つ。
十九歳の惟人には、そんな自分の感情をどう扱えばいいのか分からなかった。だから何も知らずいつも通りに距離を詰めてくる晴へ、理由もなく苛立つことが何度もあった。
もちろん、晴には何の心当たりもない。
「惟人、何怒ってるの」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん」
そんな会話をして、さらに腹が立つ。
今思えば、ずいぶん子どもだった。
それから八年が経った。
世界選手権にも何度も出た。オリンピックも三度出場し、三度目で金メダリストになった。身体を壊しかけた時期もあったし、競技を続けることそのものについて考えたことも一度や二度ではない。
そして、晴がいなくなった。
探しても見つからず、どこで何をしているのかも分からないまま二年が過ぎた。
その時間を通ったあとの自分は、十九歳だった頃とはさすがに少し違う。
晴が近くにいるだけで慌てることはなくなった。平気になったわけではない。むしろ二年間会えなかったせいで、以前より厄介になった部分さえある。
それでも、自分の中で処理することは覚えた。
触れたいと思ったからといって、触れる必要はない。抱き寄せたいと思っても、晴がそれを求めていないならしなければいい。好きだという感情があることと、それを相手へ渡すことは別の話だ。
何より、再会したばかりの晴は、それどころではなかった。
あまりにも痩せていた。
まともに食べていなかった。
働きすぎていた。
身体は、かつて世界の頂点で戦っていた選手のものとはまるで違っていた。
そんな晴を目の前にして、恋がどうだなどと考える余裕は惟人にもなかった。
とにかく食わせて、寝かせて、病院へ連れていき、働き方をどうにかする。リンクへ来るなら無茶をさせない。
気づけば数か月、そんなことばかり考えていた。
それでよかった。
むしろ、その方が楽だった。
晴が生きている。ここにいる。それだけを見ていれば済んだからだ。
ところが今日。
八年前のプログラムを滑る晴を見てしまった。
しかも、あのコレオのパートだった。
あの日、自分が初めて晴を綺麗だと思い、恋をしているのだと知ったステップとコレオシークエンスを、二十五歳になった晴が目の前で滑った。
身体は違う。
速度も違う。
昔ほど脚も上がらないし、後半には少し疲れも見えた。
それでも、晴だった。
音へ入る瞬間も、エッジへ身体を預ける角度も、最後に指先へ音が残るところも。
八年間ずっと好きだったものが、何一つなくなっていない。
それを見てしまったせいで、ここ数か月、心配事の下へ押し込まれていた感情が、急に息を吹き返したようだった。
惟人は小さく息を吐いた。
正直。
少し困っていた。
晴は、何も知らない。
そのくせ昔と同じように無防備だった。
風呂から上がれば髪をろくに乾かさないまま出てきて、冷蔵庫を覗き込みながら「惟人、これ食べていい?」と聞く。ソファで動画を見ている惟人の肩越しに何かを覗き込むときは、近いという感覚そのものが抜けているらしく、顔がすぐ横まで来る。
この前など、惟人がスマートフォンで新しいプログラム候補を見ていると、晴が背後からそのまま肩へ顎を乗せてきた。
「何見てるの」
「……近い」
「見えないもん」
「横から見ろ」
「面倒」
昔と同じだった。
晴にとっては、ただの距離だった。
惟人にとっては、そうではない。
それでも今までは、何とか流せていた。
今日までは。
八年前の演技を見たあとでは、急に全部が近く感じる。
晴がベンチから立ち上がり、タオルで髪を拭きながらこちらへ歩いてくるだけで、惟人は少し構えてしまった。
まずいな、と思う。
十九歳に戻ったわけではない。
あの頃のように、自分の感情へ振り回されるつもりもない。
けれど。
ずっと恋をしていた。
晴がいなかった二年間も、心配しながら、探しながら、それでもどこかでずっと恋焦がれていた。
その相手が今、何も知らない顔で自分のところへ戻ってきている。
それを平然と受け止め続けられるほど、惟人もできた人間ではなかった。
「何?」
気づけば、晴がすぐ目の前にいた。
惟人は少しだけ身体を引いた。
「……何が」
「さっきから見てる」
「見てない」
「見てたよ」
晴は昔から、こういうところだけ妙に鋭い。
惟人は誤魔化すように少し笑った。
「懐かしいなと思って」
「プログラム?」
「それも」
晴はタオルで額を拭きながら、少し考えた。
「八年前か」
「そう」
「若いね」
「お前、十七だぞ」
「惟人十九?」
「うん」
「子どもじゃん」
惟人は思わず笑った。
「今だから言えるんだよ」
「僕は今でもそんな変わってない気するけど」
「変わってるよ」
晴がこちらを見る。
「どこが?」
聞かれて、惟人は少しだけ迷った。
変わったところなど、いくらでもある。
身体も、顔つきも、話し方も。
二年間で晴の中に残ったものもある。
以前より慎重になったところ。
何でも自分一人で片づけようとする癖。
逆に、少しずつ人へ頼れるようになってきたところ。
そして。
何も変わっていないところもある。
近くから、そんなふうにまっすぐ覗き込んでくるところとか。
惟人はそこまで考えて、視線を外した。
「前よりちゃんと人に教えられる」
晴は少し眉を寄せた。
「そこ?」
「そこ」
「もっとあるかと思った」
「何期待してんだよ」
「別に」
晴は笑った。
その拍子に、まだ少し湿っている髪が頬へ落ちた。
惟人は反射的に手を伸ばしかけた。
昔なら、何も考えずに払っていたと思う。
けれど今は、その途中で止められる。
「髪、邪魔じゃない?」
結局そう言った。
晴は自分で髪を耳へかける。
「そろそろ切ろうかな」
「切れ」
「惟人が切ってよ」
「なんで俺が」
「昔やったことあるじゃん」
「一回だけな」
「結構上手かった」
「もうやらねえよ」
晴が笑う。
惟人もつられて笑った。
こういう時間が、どうしようもなく愛おしいと思う。
恋人ではない。
晴は何も知らない。
それでも、同じ家へ帰り、同じリンクに立ち、昔の話をしながら笑える。
十九歳の頃なら、それでは足りないと思ったかもしれない。
今はむしろ、すでに十分すぎるほど多くのものを受け取っていると思えた。
だから急がなくていい。
晴は今、ようやく自分の生活を取り戻している途中だった。
食べることも、眠ることも、働くことも、滑ることも。
そして、自分がどうしたいのかを、少しずつ選び直している。
試合へ戻るつもりはない。
父親の借金は自分で返す。
それでも子どもを教えながら滑るのは悪くない。
どうせ滑るなら、気持ちよく滑りたい。
晴の中では、今はそれくらいでいいのだと思う。
そこへ自分の恋心まで持ち込んで、答えを求める必要はない。
晴が自分の足で立って、その先でいつか惟人の方を見ることがあるなら、そのとき考えればいい。
惟人はそう思った。
夕食を食べている途中で、惟人がふと思い出したように言った。
「そういえば、来週三日いないから」
晴が箸を止める。
「どこ行くの?」
「大阪。ショー」
「ああ」
「前の日に入って練習して、その次の日が本番。マチネとソワレの二回やって、打ち上げしてから戻る」
晴は頭の中で予定を並べているようだった。
「じゃあ三日?」
「三日」
惟人はそれだけ言って、また食事へ戻ろうとした。
ところが数秒もしないうちに、何かを思い出したように顔を上げる。
「お前、その間ちゃんと飯食えよ」
晴が嫌そうな顔をした。
始まった。
というのが、あまりにも分かりやすく表情に出た。
惟人は気にしない。
「仕事も増やすなよ」
「はいはい」
「夜勤終わったあと変な時間に追加で配送とか入れるな」
「入れないよ」
「本当に?」
「本当」
「寝ろよ」
晴はとうとう両手で耳を塞いだ。
「聞こえない」
「聞け」
「もう聞いた」
「三日くらいだからって生活崩すなよ。俺いないからって朝飯抜いたりするな」
「しないって」
「冷凍してあるのもあるし、足りなかったら買え。変に節約して炭水化物だけとかやめろ」
晴は耳を塞いだまま、惟人を見た。
「惟人、今お母さんみたい」
「誰がお母さんだ」
「じゃあお父さん」
「どっちでもねえよ」
晴が笑った。
その顔を見て、惟人も少しだけ笑う。
こういうところはもう完全に癖になっていた。
再会したばかりの頃、放っておけばまともに食べないし、眠らないし、身体がきつくても働きに行く晴を見ていたせいで、今では少し予定が変わるだけでも確認せずにはいられない。
晴もそれを分かっているから、本気で怒りはしない。
しばらく耳を塞いだまま惟人の小言をやり過ごしてから、ようやく手を下ろした。
「ちゃんとするよ」
「本当に?」
「本当に。ご飯食べるし、仕事も増やさないし、寝る」
「ならいい」
惟人はようやく納得した。
晴は呆れたように笑い、また食事へ戻る。
それで会話は終わった。
少なくとも、惟人の中では。
惟人にとって三日間の大阪行きは、ただの仕事だった。
むしろ少しだけ、ちょうどいいかもしれないとさえ思っていた。
八年前のプログラムを見てから、自分でも呆れるほど晴を意識している。
家でもリンクでも、晴が無防備に近づいてくるたびに余計なことを考える。少し離れれば、そのうちまた落ち着くだろう。
三日なら長すぎないし、少し離れるにはちょうどいい。惟人はそう思っていた。
一方で晴は、食事を続けながら、さっき聞いた予定を頭の中でもう一度なぞっていた。
前日に大阪へ入り、練習をして、その翌日は昼と夜の二公演。終演後は打ち上げがあり、そのあと戻ってくる。
つまり、三日。
そのあいだ、惟人はいない。
もちろん、それ自体は大したことではないはずだった。三日間一人で生活できないわけでもないし、むしろ二年前までずっと一人で暮らしていた。食事もできる。仕事にも行ける。洗濯だって、自分のことくらい自分でできる。惟人がいなければ何もできないような生活をしているつもりはなかった。
ただ、今いる場所は惟人の家だった。
最近では晴自身もすっかり生活の一部として使っている。服も置いてあるし、仕事道具もある。冷蔵庫を開ければどこに何が入っているのかも分かるし、朝起きて洗面所へ行くまでの動線だって、もう考える必要もない。
それなのに、惟人だけがそこから三日間いなくなるのだと思うと、急に部屋の景色まで少し違って見える気がした。
朝起きても、惟人はいない。
仕事から帰ってきても、玄関に惟人の靴はない。
リビングにもいない。
たったそれだけのことなのに、いつもよりずっと静かになるような気がした。
晴は箸を動かしながら、何となく部屋の中を見回した。
自分でも、なぜそんなことをしているのか分からない。
三日くらい、どうということはない。
そう思っているのに。
「何」
向かいから声がして、晴は視線を戻した。
惟人が普通に食事をしながらこちらを見ていた。
「別に」
「またそれか」
「ほんとに別に」
晴は少し笑って、もう一度ご飯を口に入れた。
たぶん、何も困らない。
いつも通り仕事へ行って、リンクへ行って、帰ってきて、寝ればいい。
それだけなのに。
惟人のいない惟人の家で三日間一人になることを考えると、ほんの少しだけ落ち着かなかった。




