第二十五章 いない夜
惟人が大阪へ出た初日の夜、晴は仕事を終えて一人で家へ戻った。
玄関を開けた瞬間、最初に思ったのは、静かだということだった。
もちろん誰もいないのだから当たり前なのだが、普段なら何かしら生活の音がある。キッチンで水を使う音、テレビの音、シャワー、パソコンのキーを叩く音。たとえ何の音もしていなくても、誰かがいるという気配だけはあった。
今日は、それがない。
晴は照明をつけ、靴を脱いで、いつも通りバッグを置いた。
冷蔵庫を開けると、惟人が作り置きしていったものがいくつか並んでいる。
「ほんとに作ってるし」
誰もいないのに、思わず声が出た。
一つ取り出して温め、テーブルへ運ぶ。
味はいつもと同じだった。
それだけのことなのに、食べている途中で晴は少し箸を止めた。
三月に惟人と再会するまでの二年間、自分はこういう食事をほとんど取っていなかった。
食べられなかったわけではない。
食べることより、返すことを優先していた。
父が亡くなったあと、晴は葬儀や手続きの中で、それまで知らなかった金のことを一度に知った。借金が残っていることも、その中に自分の競技生活のために使われたものが含まれていることも、そのとき初めて知った。
相続放棄はできた。
連盟付きの弁護士にも、今すぐすべてを背負う必要はないと言われた。スポンサーも待つと言い、マネージャーも一度休めと言った。競技を続けながら整理する方法だってあるのだと、周囲は何度も説明してくれた。
それでも当時の晴には、その言葉を受け入れることができなかった。
父はずっと、自分が滑ることを支えてくれていた。
世界選手権で勝てば泣き、オリンピックで金を取ったときには、晴本人より泣いていた。
その父がいなくなり、残された借金の中に自分の競技のための金があると知った瞬間、それまで取ってきたメダルまで違って見えた。
自分が父を削って滑ってきたように思えた。
父は、自分を滑らせるために働いた。
金が足りなくなった。
さらに働いた。
そして倒れた。
晴の中では、その順番があまりにも簡単につながってしまった。
――自分が滑らなければ、父は死ななかったのではないか。
もちろん、今なら少し違う見方もできる。
父は晴が滑ることを本当に喜んでいた。
そんなことは、ずっと分かっていたはずだった。
けれど二十二歳だった晴には、父の愛情と、父が背負った負担とを切り離して考えることができなかった。
父が自分のために払ったものなら、自分が返す。
それだけが、当時の晴には正しいことのように思えた。
ただ、その一方で、父が何より見たがっていたのも自分が滑る姿だった。
だから世界選手権だけは出た。
最後にもう一度、きちんと滑って、それで終わろうと思った。
そして大会を終えたあと、晴は本当に競技の世界とのつながりを切った。
電話番号を変え、連絡先も整理し、仕事で使っていたものも手放した。
誰かと話せば止められると分かっていたからだ。
だから、誰にも届かない場所へ行った。
安い部屋を借り、仕事を探し、一日働けばその分だけ返済が進む生活を始めた。
それが、一番分かりやすかった。
働いた分だけ数字が減る。
そのことだけを見ていれば、父のことも、スケートのことも、自分が何を失ったのかも、考えずに済んだ。
今思えば、かなり無茶をしていたと思う。
身体が動くなら働き、自分に使う金はできる限り削った。
食事も睡眠も、後回しにした。
自分の身体を残しておくことに、ほとんど意味を感じていなかった。
それでも、あの二年間を後悔しているかと聞かれれば、晴はきっと簡単には頷けない。
あのときの自分には、それ以外のやり方を許せなかった。
そこまで追い詰められていたのだということだけは、今でも分かる。
晴は温かい食事を最後まで食べた。
片づけをして、風呂へ入り、ソファベッドを広げる。
横になってみると、やはり部屋は静かだった。
昔住んでいた四畳半も静かだった。
けれど、あの部屋ではそれが普通だった。
帰ってくる人はいない。
自分が帰り、自分が寝れば、それで一日が終わる。
今の家は違う。
普段は、ここに惟人がいる。
たったそれだけの違いなのに、晴が思っていたよりずっと大きかった。
スマートフォンを見ると、惟人から短いメッセージが届いていた。
《着いた》
晴は少し笑い、《おつかれ》と返した。
返事はすぐには来なかった。
たぶん忙しいのだろう。
惟人は今も世界のトップ選手で、今季のオリンピック金メダリストでもある。今回のショーでも中心になる選手だ。
二年前までは、自分も同じような生活の中にいた。
晴はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。
それでも、なかなか眠れなかった。
二日目も、晴は普通に過ごした。
朝起きて食事を取り、仕事へ行く。
リンクでは子どもたちを見て、自分でも少し滑った。
何も困らなかった。
惟人がいなくても、生活はできる。
それは当然だった。
二年間、ずっと一人だった。
だからこそ、夜になって玄関を開けた瞬間、また静かだと思ったことが少しおかしかった。
たった数か月で、惟人がいる方が普通になっている。
晴はソファへ座り、いつも惟人が座っている場所を何となく見た。
そこで、ふと父のことを思い出した。
自分が遠征へ出るたび、父もこんなふうに一人の家へ帰っていたのだろうか。
シーズン中は海外へ行くことも多く、何週間も家を空けた。
晴はそれを当たり前のこととして出ていき、父も同じように送り出した。
「気をつけてな」
いつも、それくらいだった。
父が一人でいる家を、晴はほとんど想像したことがなかった。
今になって、少しだけ分かるような気がした。
誰かがいることに慣れる。
その人がいなくなると、同じ部屋なのに少し違って見える。
父も、そうだったのだろうか。
そうして、あの部屋で一人――。
そう考えると、胸の奥が少し痛んだ。
けれど、以前のように、それをそのまま罪悪感へ変えることはしなかった。
父は、晴が滑ることを喜んでいた。
それもまた、本当だった。
勝つたびに泣いた。
オリンピックでも、世界選手権でも、グランプリファイナルでも。
「父さん、泣きすぎ」
そう言うと、父は笑いながらまだ泣いていた。
その首に、いつも晴はもらったばかりの金メダルをかけた。
二年前の晴には、自分が父を削って滑っていたとしか思えなかった。
だが本当にそれだけだったのか。
父は、自分で選んで晴を滑らせた。
晴が滑ることを、自分の喜びにもしていた。
そのことまで全部否定してしまうのは、違うのかもしれない。
まだ、そう言い切れるほど整理できているわけではない。
それでも、以前よりは少しだけ、そう考えられるようになった。
今、自分がまた滑っていることについても同じだった。
競技へ戻る気はない。
借金を返すこともやめない。
けれど、子どもへ教えながら自分も滑るのは悪くない。
自分の靴を履くのは楽しい。
昔のプログラムを少し滑ってみることも、思っていたほど苦しくはなかった。
どうせ滑るなら、エッジが浅いのは気持ちが悪い。
音と身体がずれるのも嫌だ。
自分がこう滑りたいと思うように滑りたい。
それくらいは、自分に許してもいいのかもしれない。
そこまで考えたとき、晴は自然に惟人のことを思い浮かべた。
再会してからずっと、惟人は近くにいた。
飯を食え、寝ろ、仕事を減らせ、病院へ行け、無理をするな、自分の身体をもう少し大事にしろと、うるさいくらい何度も言った。
けれど、晴を昔へ戻そうとはしなかった。
競技へ戻れとも言わなかったし、四回転を跳べとも言わなかった。
晴が何をするのかは、最後には晴自身に決めさせた。
そのことに、晴はずいぶん甘えている。
温かい部屋も、食事も、仕事も、病院も、リンクも。
再会してからの生活のかなり大きな部分を、惟人につないでもらった。
本当なら、もう少し遠慮するものなのかもしれない。
けれど惟人相手だと、不思議なくらいその感覚が薄くなる。
昔からそうだった。
惟人ならいい。
そう思ってしまう。
頼っても、弱いところを見せても、少しくらい勝手を言っても、惟人なら最後には晴の意思を無視しないと知っている。
それは四歳の頃から、長い時間をかけて積み上げてきた信頼だった。
惟人を何と呼べばいいのかは、昔からよく分からなかった。
どの言葉を当てはめても、少し足りない。
誰より信頼している。
誰より大事だと思う。
いなくなってほしくないし、失いたくない。
そこまで考えて、晴は少しだけ笑った。
宝物、という言葉が頭に浮かんだからだ。
自分で思っておいて、少し気恥ずかしい。
それでも、たぶん一番近い。
ずっとそばにありすぎて、普段はわざわざ意識しない。
でも、なくなったら困る。
惟人は、そういう人だった。
晴は、その感情にそれ以上名前をつけようとはしなかった。
まだ、その必要がなかった。
惟人は惟人だから。
今の晴には、それで全部説明できると思っていた。




