第二十六章 晴の過去
大阪へ着いてから、惟人は自分が何のために来たのか分からなくなりかけていた。
もちろん、アイスショーに出るためである。
前日に会場入りし、照明や音響を合わせながらリハーサルをして、翌日に昼と夜の二公演を滑る。終演後には関係者との打ち上げがあり、翌日東京へ戻る。それだけならいつもの仕事だったし、惟人自身もそのつもりで荷物をまとめてきた。
ところが会場に着いた途端、その予定とはまるで関係のないところで捕まった。
「ねえ、あれ晴でしょう?」
最初に声をかけてきたのは、昔からよく知っている振付師だった。
惟人は一瞬だけ何のことか分からないふりをしたが、相手はスマートフォンを突き出してくる。画面には、以前、惟人自身が投稿した動画が止まっていた。
あの、世界が晴にお帰り、と言った動画だった。
顔はほとんど映っていない。
それでも、もう意味はなかった。
「……そうだけど」
答えた瞬間、振付師の表情が変わった。
「やっぱり!」
その声を聞きつけて、近くにいた別の出演者まで寄ってくる。
「本当に晴なの?」
「どこにいたの?」
「元気なの?」
「今滑ってるの?」
「競技戻るの?」
一気に質問が飛んできた。
惟人は眉間を押さえた。
「だから、競技に戻るとかじゃないって」
「じゃあ何してるの?」
「仕事」
「何の?」
「うちのリンクでも働いてるし、ほかにも仕事してる」
「え、榊のリンクにいるの?」
「いる」
「いつから?」
「ちょっと前から」
「ちょっと前っていつ?」
「……もういいだろ」
よくなかったらしい。
それからも、惟人は行く先々で捕まった。
控室へ荷物を置きに行けば、別の選手に呼び止められる。衣装合わせをしていればスタッフに聞かれる。氷へ出ようとすれば、昔晴と同じ大会へ出ていたスケーターが寄ってくる。
誰も彼も、聞くことはだいたい同じだった。
晴はどこにいたのか。
どうして惟人と一緒にいるのか。
今は何をしているのか。
本当に滑っているのか。
また試合へ戻るのか。
惟人は同じ説明を、何度したか分からなくなった。
「だから、世界選手権が終わって帰ってきたあと、街でたまたま会ったんだよ」
「たまたま?」
「本当にたまたま。配達してた」
「配達?」
「そう」
「晴が?」
「そうだって」
そこまで言うと、たいてい相手は一度黙った。
そのあと、もっと詳しく聞きたがる。
「それで?」
「それでって」
「どうなったの?」
惟人はだんだん投げやりになっていた。
「ひどい生活してたから、そのまま放っておけなくて保護した」
「保護って何」
「そのまんまだよ。一緒に暮らして、飯食わせて、病院連れてって、少しずつ戻してる」
「戻してるって?」
「身体。痩せすぎてたし、筋肉も落ちてた。今は仕事もしてるし、リンクにも来てる。子どもも見てるし、ちょっとは滑ってる」
そこまで言うと、今度は決まって相手の目が輝いた。
「滑ってるの?」
「だから、ちょっとだけ」
「何跳んでる?」
「そういう話じゃないんだって」
惟人は何度目か分からない説明を繰り返した。
「今は病院とも相談しながら、身体見て少しずつやらせてる。競技復帰とかじゃないし、本人もその気ないから」
それでも、聞かれる。
その日だけで何度「だから」と言ったか分からなかった。
リハーサルの合間、リンクサイドで水を飲んでいたところをまた捕まったときには、さすがに惟人も疲れていた。
「榊、晴って今どれくらい滑れるの?」
「だから」
言いながら、惟人は自分でも嫌になった。
相手が笑う。
「またそれ言ってる」
「今日ずっと同じ説明してんだよ」
「だって気になるでしょう」
「俺、何しに大阪来たんだっけ」
本気でそういう顔をしたせいか、周囲が笑った。
惟人も分かっていた。
みんな晴を心配していたのだ。
二年前、あまりに突然消えた。
世界選手権で銀メダルを取ったあと、そのまま表舞台からいなくなり、連絡もつかなくなった。関係者の多くが何かしら晴を探していたし、昔一緒に滑っていた選手ほど、その不在を重く感じていた。
だから責める気にはならない。
ただ、同じことを何度も聞かれるのが面倒なだけだった。
ようやく少し一人になれそうだと思ったところで、今度は離れた場所から手招きされた。
惟人はその方向を見る。
連盟の関係者が、にこにこと笑いながらこちらを見ていた。
指先を軽く曲げ、ちょいちょいと呼んでいる。
惟人は露骨に嫌な顔をした。
相手は笑顔を崩さない。
もう一度、手招きする。
逃げられないらしい。
惟人はため息をついて歩き出した。
「俺、本当にショーしに来たんですけど」
「分かってるよ」
「今日ほとんど晴の話しかしてない」
「みんな聞きたいんだから仕方ないでしょう」
「俺に聞かないで本人に聞けばいいじゃないですか」
「連絡先知らないんだよ」
「教えませんよ」
即答すると、相手は笑った。
それからまた、同じ話になった。
元気なのか。
どれくらい滑っているのか。
今は本当にリンクにいるのか。
惟人は途中から説明するのを諦めた。
「もうこれ見てください」
スマートフォンを取り出した。
少し迷ってから、数日前にリンクで撮った動画を開く。
八年前の世界選手権のプログラムを子どもたちに頼まれて、晴がステップシークエンスからコレオシークエンスまでを滑ったときのものだった。
全部ではない。
身体もまだ戻り切っていない。
それでも、そこには確かに晴がいた。
惟人は動画を送った。
「これでしばらく俺を解放してください」
「何これ」
「この前、うちのリンクの生徒に頼まれて昔のプログラムちょっと滑ったときの」
言い終わる前に再生が始まった。
最初は数人だった。
それが、画面を覗き込んでいる人の表情を見て、さらに人が集まってくる。
誰かが「待って」と言った。
別の誰かが音量を上げた。
晴がステップへ入ったところで、その場の空気が変わった。
画面を囲んでいた人間の多くは、九条晴がどういう選手だったかを知っている。一緒に大会へ出た者もいれば、振付を担当したことのある者もいる。同じアイスショーに立った者も、世界選手権やオリンピックをリンクサイドや客席から見ていた者もいた。
だから、すぐに分かった。
今の晴は、かつて世界の頂点で滑っていた頃と同じ身体ではない。速度も、筋力も、あの頃ほどではない。それでも、その滑りは誰が見ても晴のものだった。
「……晴だ」
誰かが小さく呟いた。
その一言をきっかけにしたように、周囲から一気に声が上がった。
「うわ、晴だ!」
「本当に滑ってる!」
「これ最近?」
「今これなの?」
驚いた声と笑い声が重なり、その中には、画面を見たまま黙って目元を押さえている人間もいた。
惟人は少し離れたところから、その様子を見ていた。
数日前、SNSへ最初の短い動画を上げたときも同じだった。顔がはっきり映っていなくても、二年も表舞台から消えていても、晴を知っている人間は滑りを見れば分かった。
そのことが、惟人には少し嬉しかった。
そうだろう、と心の中で思う。
忘れるわけがない。
晴の滑りは、そういうものだった。
画面へ人が集まり始めたのを確認して、惟人はその隙にそっとその場を離れた。
本当に餌になった。
これなら少なくともしばらくは捕まらずに済むだろう。
そう思って控室へ戻ったところで、今度は別の人間が待っていた。
副会長だった。
惟人は足を止めた。
「……まだあるんですか」
「そんな嫌そうな顔しなくてもいいでしょう」
「今日ずっと晴の話しかしてないんですけど」
「じゃあ、少しだけ」
その言い方が、さっきまで周囲から投げられていた質問とは少し違っていた。
惟人は何となく察して、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「晴のお父さんのこと、どこまで聞いてる?」
唐突な問いだった。
惟人は少し眉を寄せる。
「亡くなったことと、借金があったことくらいです」
「借金の中身は?」
「詳しくは聞いてません」
晴はそこをほとんど話さなかった。
父親が自分のために作った借金だから、自分で返すと決めた。
惟人が聞いていたのは、それくらいだった。
再会したばかりの頃の晴に、それ以上話させる必要があるとも思わなかったし、本人が言いたくないなら無理に聞くつもりもなかった。残りの金額も三百万円ほどだと聞いていたから、少なくとも今すぐどうにもならないような状態ではないと思っていた。
ただ、一つだけ、ずっと引っかかっていたことがある。
晴に金がなかったはずがない。
九条晴は十代半ばから世界のトップで滑り続けていた。世界選手権も勝った。グランプリファイナルも取った。二十歳ではオリンピックを制し、その後も長く第一線にいた。
スポンサーも複数ついていたし、賞金や出演料もある。
晴は金に無頓着なところがあり、必要だと思えばスケートにはためらいなく使う人間だったが、浪費家ではなかった。高価な服や時計を集める趣味もなければ、派手な生活をするタイプでもない。
しかも、オリンピックで金メダルを取ったあとは、競技にかかる主要な費用のほとんどをスポンサー側が負担していた。晴本人の持ち出しは、それ以前とは比べものにならないほど減っていたはずだ。
だから当然、かなりの貯金もあったはずだった。
それなのに再会した晴は、残った数百万円のために身体を壊すほど働いていた。
惟人は、その理由をずっと完全には理解できずにいた。
副会長は少し考えてから口を開いた。
「元はね、家のローンと、晴の競技費。それにお母さんの治療費が重なったものだったんだよ」
惟人は黙って聞いた。
「晴がまだ子どもの頃は、当然スポンサーなんてほとんどないでしょう。あの子、四歳から滑ってて、十代前半にはもう海外へ行ってたから」
言われてみれば、分かる話ではあった。
フィギュアスケートには金がかかる。
晴が世界ジュニアを取ったのは十二歳だった。
その頃にはもう、一般家庭の習い事と呼べるような金額ではなかったはずだ。
「お父さん、収入はかなりあったんでしょう?」
「一千万は超えてたよ。だから、最初から破綻してたわけじゃない。ただ、住宅ローンを返しながら晴の競技費がどんどん増えて、お母さんの治療も長くなった。晴の大会へ行くために仕事を休むことも増えたし、足りない分を借りて、また借り換えてってやってるうちに、利息もかなり膨らんだらしい」
惟人は少し顔をしかめた。
「どのくらい?」
「一番多いときで、四千万前後」
さすがに惟人も黙った。
「……そんなに」
「でも、ずっとそのままだったわけじゃないよ」
副会長は続けた。
晴がシニアへ上がり、世界選手権で勝つようになり、スポンサーがついてから状況は大きく変わった。
二十歳でオリンピックを取ったあとは、競技費のほとんどを家庭が負担する必要もなくなった。
そのぶん父親は返済に回せるようになり、借金は順調に減っていったらしい。
「亡くなったときで、残り二千七百万くらいだったと思う」
惟人はしばらく黙った。
決して少ない額ではない。
それでも、年収があり、返済も進んでいて、晴の競技費負担までほぼなくなっていたのなら、返せない金額ではない。
「そのまま生きてたら?」
「たぶん、普通に返してたよ。十年もかからなかっただろう」
副会長はそう言った。
「少なくとも、家が潰れるような状態ではなかった。晴も稼いでたし」
そこで惟人は、ようやく少し分かった。
晴の父親は、返済できなくなって借金を息子へ押しつけたわけではない。
晴を支えるために長い間積み重なってきた負担を、自分で返し続けていた。
ただ、その途中で亡くなった。
そして晴は、その残った数字を見てしまった。
「晴、自分の金もかなり入れたんですよね」
惟人が言うと、副会長は少し驚いたように目を上げた。
「知ってる?」
「いや。でも、そうじゃないとおかしいから」
晴がお金を残していたならあんな生活はしていないだろう。ほとんどを失ったと考えるのが正しかった。
副会長はゆっくり頷いた。
「かなり入れたよ。貯金も使ったし、競技をやめるときの精算も色々あった。それでも残った分は、自分で働いて返すって言った」
「なんで止めなかったんですか」
思ったより強い声が出た。
副会長は苦く笑った。
「止めたよ」
答えは早かった。
「みんな止めた。弁護士もスポンサーもマネージャーも、もちろん連盟も」
「でも晴は」
「聞かなかった」
その言葉を聞いて、惟人は目を伏せた。
簡単に想像できる気がした。
あの頃の晴なら。
そう考えてから、惟人は自分で少し違うと思った。
あの頃の晴を、自分は本当には知らない。
全日本を棄権したあと世界選手権に来た晴に、当然惟人も声をかけた。
けれど晴は何も言わなかった。
いつもと同じとは言えなかったが、それでも自分の中で何かを決めているような顔をしていた。
そして最後の世界選手権を滑り切り、銀メダルを取ったあと、そのまま消えた。
「世界選手権だけは滑るって言ったんだよ」
副会長が静かに続けた。
「それで終わりにするって」
惟人は何も答えなかった。
「晴のお父さんが最後に見た大会がグランプリファイナルだったからね。そのあと亡くなって、全日本は出られなくて、それでも世界選手権だけは代表として滑るって言った」
そのあとのことは惟人も知っている。
晴は滑った。
最後まで。
そして消えた。
「相当、傷ついてたんだと思う」
副会長の声は静かだった。
「父親が自分のために使った金だって知って、あの子の中で全部つながっちゃったんだろうね。自分が滑ってきたことと、お父さんが働いてきたことと、借金と」
惟人は手を組んだまま、しばらく黙っていた。
いかにも晴らしいと思う。
肝心なところほど言わない。
自分がどれほど苦しかったのか。
何を考えていたのか。
どうして全部の連絡を切ったのか。
そういうことほど、簡単には言葉にしない。
惟人は、再会した日の晴を思い出した。
このまま死ぬんじゃないかと思うほどやせ細っていた。
それでも本人は普通に笑っていて、働いているから大丈夫だ、生活できているから問題ないという顔をしていた。
あれが二年間の結果だった。
誰にも頼らず、自分だけで返そうとして、食べることも寝ることも削って、それでも何も言わなかった。
そのことを考えると、惟人の胸の奥に重いものが広がった。
怒りとは少し違った。
ただ悲しいというのとも違う。
まして、可哀想だから何とかしてやりたいという単純なものでもなかった。
晴が自分で選んだことなのは分かっている。
当時の晴には、それ以外の方法を自分に許せなかったのだろうということも、今なら少し分かる。
それでも、一人で辛かっただろう晴を抱きしめたいと思った。
その気持ちが浮かんだとき、惟人は少しだけ目を閉じた。
三日離れれば、自分も少し落ち着くだろうと思って大阪へ来たはずだった。
あのプログラムを見てから、晴を意識しすぎている自覚があったからだ。
けれど実際には、離れたところで晴の話ばかり聞かれ、そのうえ自分の知らなかった過去まで知ってしまった。
来る前より、ずっと会いたくなっている。
惟人は小さく息を吐いた。
本当に、何をしに大阪へ来たのか分からない。
そのあと二公演を滑り、打ち上げまで出た。
仕事は仕事として、きちんとやった。
ただ、東京へ戻る頃には、ショーが終わったことより晴のいる家へ帰れることの方が楽しみになっていた。
四日目の夜、惟人が自宅の鍵を開けると、リビングから物音がした。
「ただいま」
声をかけながら中へ入ると、ソファにいた晴が顔を上げた。
惟人を見た瞬間、ほんの少し表情が緩む。
「おかえり」
何のためらいもなく、晴は自然にそう言って笑った。
その顔を見た途端、大阪で聞いた話が一度に戻ってきた。
惟人はバッグを置き、そのまま晴のところへ歩いた。
「何?」
晴が少し不思議そうに見上げる。
惟人は何も言わず、その頭へ手を置いた。
ゆっくり一度、髪を撫でる。
晴が目を瞬かせた。
「何」
「別に」
「何それ」
晴は笑った。
惟人はもう一度だけ頭を撫でてから、手を離した。
聞きたいことはあった。
言いたいこともあった。
けれど、今ここで全部聞く必要はない。
晴が話したくなったときに話せばいい。
少なくとも今はここにいる。
帰ってきて、飯を食って、仕事をして、リンクで滑って、笑っている。
それでいい。
「ちゃんと食った?」
結局、惟人の口から出たのはいつもの言葉だった。
晴が露骨に呆れた顔をする。
「帰ってきて最初それ?」
「大事だろ」
「食べたよ」
「毎日?」
「食べた」
「仕事増やしてない?」
「増やしてない」
「ちゃんと寝た?」
「惟人」
晴が笑った。
「全部ちゃんとしたよ」
「ならいい」
惟人も少し笑った。
晴はそんな惟人を見ながら、三日間静かだった部屋のことを思い出した。
一人でも困らなかった。
食事もしたし、仕事にも行った。
普通に生活できた。
それでも惟人が帰ってきて、玄関に靴が増え、声がして、いつものようにうるさく生活を確認されると、部屋そのものが元に戻ったような気がした。
やっぱり、惟人がいる方がいい。
晴はそう思った。
その理由については、それ以上考えなかった。




