第二十七章 今季の曲
アイスショーから戻って数日すると、惟人の生活は完全に次のシーズンへ向かい始めた。
朝の氷上練習は少しずつ長くなり、陸上トレーニングの強度も上がった。身体そのものは世界選手権の頃から大きく落としていなかったが、試合へ出ると決めた以上、ただ維持しているだけでは足りない。ジャンプの構成も見直さなければならないし、ショートとフリーの方向性も決める必要がある。振付師との打ち合わせも始まり、スマートフォンやパソコンから音楽が流れている時間が増えていた。
晴は、その変化を特に気にしている様子もなく見ていた。
リンクではいつも通り子どもを教え、自分のトレーニングをして、必要があれば少し滑る。惟人が練習している時間に同じリンクへいることもあったが、以前のように何か思いつくたび横から口を挟んでくることは減っていた。
昔なら違った。
惟人が新しいプログラムを作る時期になると、晴は頼んでもいないのに候補曲を聞き、気に入らなければ平気な顔で「これ合わない」と言った。ジャンプの配置を考えている横から「そこ後半きついよ」と口を出し、振付の映像を見れば「その動き惟人がやると固い」と遠慮なく言った。
腹が立つことも多かったが、外れていることはあまりなかった。
今の晴は、惟人が聞かなければ言わない。
その違いを惟人は何となく感じていた。
ある夜、夕食を終えたあと、惟人はダイニングテーブルへパソコンを置き、届いていた音源を順番に聞いていた。
晴は洗い物を終えてから、自分の分の飲み物を持ってリビングへ戻ってきた。ソファへ座りかけたところで、流れている曲に気づいたらしく、少しだけ足を止める。
「それ、今季の?」
惟人は画面を見たまま答えた。
「ああ」
晴はそのまま数秒聞いてから、向かいの椅子へ座った。
「出るって決めたの?」
「ああ」
返事をすると、晴は目を細めた。
驚いたわけではないのだろう。
惟人がこの数週間どんな練習をしていたかを見ていれば、答えはある程度分かっていたはずだ。
それでも本人の口から聞くまでは、決めつけないでいたらしい。
「そっか」
晴はそれだけ言って、マグカップへ口をつけた。
惟人はちらっと晴を見た。
「何」
「別に」
「聞いたわりに反応薄いな」
「だって出ると思ってたし」
「じゃあ聞くなよ」
「本人に聞くのと、勝手にそう思うのは違うでしょう」
いかにも晴らしい答えだった。
惟人は小さく笑い、またパソコンへ視線を戻した。
少ししてから、晴が聞いた。
「何滑るの?」
惟人の手が止まった。
「……迷ってる」
「珍しいね」
「何が」
「惟人、決めるの早いじゃん」
「今回はちょっとな」
そう言いながら、惟人はいくつか開いていた音源の中から一曲目を再生した。
晴は何も言わずに聞く。
冒頭は静かだった。
弦の音が薄く重なり、そのあと徐々に厚みが増していく。
一分ほど流したところで、惟人は止めた。
「これは?」
晴はすぐには答えなかった。
頭の中で演技を想像しているのだろうということは、昔から知っている。
「ショートならあり」
「フリーは?」
「惟人にはちょっと軽いと思う」
「やっぱり?」
「うん。最初はいいけど、後半で物足りなくなる気がする」
惟人は笑った。
「同じこと言われた」
「誰に?」
「振付師」
「じゃあ外せば?」
「簡単に言うな」
「迷ってるんでしょう」
「候補から外すのと迷うのは別」
晴は少しだけ笑った。
昔なら、ここで「じゃあなんで聞いたの」と言ったはずだ。
代わりに今は、黙って続きを待っている。
惟人は二曲目を流した。
さっきとは全く違う。
低い音から始まり、リズムがはっきりしている。動きを合わせやすい分、滑り手の癖も出やすい曲だった。
晴は最初から少し考えるような顔をしていた。
惟人は一分半ほど流してから止める。
「こっちは?」
「嫌いじゃない」
「それだけ?」
「惟人が滑るなら、たぶん上手い」
「褒めてる?」
「褒めてるよ」
「でも気に入ってない顔してる」
晴はマグカップを置いた。
「惟人がこれ滑ったら、きれいにまとまりすぎる気がする」
「悪い?」
「悪くはないけど」
晴は少し考えた。
「全部ちゃんとできると思う。ジャンプも入れやすいし、ステップも作りやすい。でも、それで終わりそう」
惟人は画面を見たまま黙った。
言いたいことは分かった。
自分の強みと曲の作りが噛み合いすぎている。
だからこそ、完成度は高くなる。
その代わり、予想を超えるところが少ない。
「面白くないってこと?」
「僕はね」
「じゃあ何がいいの」
「聞いてないから言わなかったのに」
「今聞いてる」
晴は少し笑った。
その顔を見て、惟人も昔と同じ会話だと思った。
以前なら、こういうやり取りを何度もしていた。
晴は自分の演技については妙に感覚的なのに、人の演技を見るときは驚くほどよく見ている。
惟人が何を得意としていて、どこで無意識に安全な方へ逃げるのかも知っている。
だからこそ、腹の立つことを平気で言う。
惟人は三曲目を再生した。
今度は、冒頭から音の密度が高かった。
強い主旋律の下で別の音が動き、途中から大きく展開が変わる。簡単に滑れば音に負けるし、力だけで押せば重くなりすぎる。
晴の表情が少し変わった。
それを見て、惟人は何も言わずにそのまま流した。
途中で一度、曲が大きく開く。
晴が小さく息を吐く。
惟人は最後まで止めなかった。
曲が終わってから、数秒の間があった。
「これ」
晴が言った。
「やっぱり?」
「うん」
「理由は?」
晴はしばらく考えてから、言葉を選ぶように答えた。
「惟人って、正確じゃん」
「知ってる」
「自分で言う?」
「事実だろ」
晴が笑った。
「そういうところ」
「どういうところだよ」
「でも、正確だからこそ、こういう曲の方がいいと思う」
晴は画面を見る。
「音がいっぱいあるから、全部拾おうとするとたぶん駄目なんだけど、惟人ならどこを残してどこを捨てるか決められるでしょう。全部見せようとしない方が、逆に惟人の滑りが出ると思う」
惟人は少し黙った。
晴は続けた。
「あと、この曲、途中で一回すごく広がるじゃん。そこで惟人がちゃんとスピード残せたら、たぶんきれい」
「ちゃんとって何」
「後半になると少し上に逃げるときあるから」
惟人は眉を寄せた。
「お前、今それ言う?」
「聞いたでしょう」
「そうだけど」
「じゃあ言うよ」
晴は平然としていた。
惟人は少しだけ腹が立った。
それと同時に、懐かしかった。
昔の晴が戻ってきたというより、晴がまた自分へこういうことを言えるようになったのだと思う。
競技をやめた晴が、自分の競技へ踏み込むのを遠慮していたことに、惟人は何となく気づいていた。
だから、今こうして頼んでもいないところまで言い始めていることが少し嬉しかった。
「これ、フリー?」
晴が聞く。
「候補」
「ショートは?」
「まだ決まってない」
「そっちも聞く?」
「聞く」
惟人は別のフォルダを開いた。
晴が少し笑う。
「今日決める気?」
「決まるなら」
「雑だなあ」
「お前が言うな」
そこからしばらく、二人で音源を聞いた。
晴は以前ほど勝手には口を出さなかったが、惟人が聞けば答えた。これは長い。これは惟人には重すぎる。これは最初の三十秒はいいけれど、後半の展開が弱い。こっちはステップが面白くなりそうだと言う。
惟人も、全部をそのまま受け入れるわけではなかった。
「それは嫌」
「なんで」
「単純に曲が好きじゃない」
「じゃあ最初から候補に入れないでよ」
「振付師が入れたんだよ」
「惟人が滑るんでしょう」
「そうだけど」
そんなことを言い合いながら、気づけばかなり時間が経っていた。
最後にパソコンを閉じたとき、晴が聞いた。
「結局、どれにするの?」
「まだ迷う」
「さっきより減った?」
「減った」
「じゃあ役に立ったじゃん」
得意そうに言う。
惟人は少し笑った。
「まあな」
晴も笑った。
その顔を見ながら、惟人は不思議な感じがした。
晴はもう、自分と同じシーズンへ入ることはない。
同じ大会へ行くことも、隣のロッカーで靴を履くこともない。
それでも、自分が新しいプログラムを選ぶ夜に晴がいて、音を聞きながら遠慮なく文句を言う。
昔と同じではない。
けれど、なくなったわけでもない。
形が変わっただけで、まだここにあるものもある。
惟人はそれでいいと思った。
少なくとも今は、それが心地よかった。




