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春待氷  作者: りん
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第二十八章 誰かと


惟人の新しいフリープログラムの振付が本格的に始まったのは、六月の終わりだった。


今季のフリーに選んだのは、プロコフィエフの《シンデレラ》だった。


もちろん、バレエ音楽をそのまま使うわけではない。競技用に四分ほどへ編曲し、物語の流れが一つのプログラムとして成立するように曲を組み直している。


冒頭は静かだった。


まだ誰にも出会っていない時間。


そこから舞踏会へ入り、音楽が少しずつ華やかになっていく。


誰かと出会う。


一緒に踊る。


けれど真夜中が来て、その人はいなくなる。


そこから音楽は急に追い立てるような色を帯び、探す時間へ入る。


最後にもう一度その人を見つけ、終盤は最初とは違う静けさへ戻る。


振付師が最初に出してきたイメージを、惟人は気に入っていた。


単純に王子を演じるというより、見えない誰かとの関係が一本の線として残るようなプログラムだった。


一人で滑るのに、誰かと踊っているように見える。


誰もいない場所へ手を差し出し、少し待つ。


相手がそこへ来たように身体を開き、視線を動かす。


そして次の瞬間には、その人と一緒にターンへ入ったように見える。


惟人がこれまで滑ってきたプログラムには、あまりなかった種類の振付だった。


惟人の強みは、昔から明確だった。


エッジが正確で、速度が落ちにくい。


ジャンプへ入るまでの軌道も無駄がなく、ステップでも身体の位置が崩れない。


プログラムそのものを精密に組み立て、四分を一つの完成品として見せることに長けている。


だからこそ今回は、いつものように最初から最後まで自分一人で空間を支配してしまうと、この曲の意味が薄くなる。


誰か一人分を、空けておかなければならない。


それが難しかった。


「ここ、早くない?」


晴が言った。


その日のリンクは一般のレッスンが終わったあとで、惟人と振付師が作った仮の構成を確認するために貸し切っていた。


晴はすでに勤務を終えていたが、そのまま残っていた。


惟人の新しいプログラムを見るのが久しぶりだったからだ。


リンクサイドへ座り、タブレットを膝に置いて、振付動画と音源を何度も行き来している。


惟人も氷から上がるたび、そこへ戻って一緒に画面を覗いていた。


「どこ」


「ここ」


晴が動画を少し戻す。


舞踏会の中盤だった。


惟人が大きなカーブを描いてから身体を開き、そのまま腕を差し出す部分。


「これ」


「振付通りだろ」


「振付が早いって言ってる」


「お前、振付師に喧嘩売ってんの?」


「別に。惟人が滑るなら一拍残した方がいいと思う」


「また一拍かよ」


晴は少し笑った。


「惟人、すぐ全部埋めるから」


「悪い?」


「この曲ではね」


晴はタブレットの画面を指で止めた。


「ここって、相手に手を出すところでしょう?」


「そういう設定」


「だったら、出してすぐ次へ行ったら相手が入るところないじゃん」


惟人は一瞬黙った。


言われてみれば、その通りだった。


自分一人の動きとして考えれば、今の方が流れはいい。


けれど、ここには本来もう一人いる。


見えない相手が手を取る時間まで含めて振付なのだと考えれば、少し待った方が自然だった。


「じゃあ、こう?」


惟人が立ったまま簡単に動きをなぞる。


晴もタブレットを見ながらタイミングを取った。


「もう少し」


「長くない?」


「長くない。曲聞いて」


晴が音源を少し戻す。


二人で同じところを聞く。


「ここで出して、ここまで待つ」


「そのあとターン間に合わないだろ」


「じゃあ入り変えればいいじゃん」


「簡単に言うな」


「惟人ならできるでしょう」


昔と同じ言い方だった。


惟人は少しだけ晴を見る。


晴自身は何も気にしていない。


タブレットの画面を見ながら、頭の中で動きを組み替えている。


「その前のエッジから変えたら?」


「どっち」


晴が指で軌道をなぞる。


「ここから内側に入るんじゃなくて、そのまま外へ流してから切り返す。そしたら待っても速度残ると思う」


惟人は少し考えた。


「一回やる」


氷へ戻る。


音を流す。


晴が言った通りに、入りのエッジを変えた。


大きく外へ流し、一度深く身体を傾けてから切り返す。


そこで腕を差し出す。


ほんの一拍、待つ。


そのあとターンへ入る。


さっきより、ずっと自然だった。


晴がすぐに顔を上げた。


「そっち」


惟人も自分で分かった。


「……ほんとだな」


「でしょう」


晴が少し得意そうに笑う。


「でもここ、もう少し距離欲しいかも」


「何の」


「相手との」


「いないけど」


「いる前提で作ってるんでしょう」


「そうだけど」


「だったら、そこにいるように滑らないと」


惟人は少し眉を寄せた。


晴は画面を見ながら続ける。


「今の惟人、手を出してるだけに見える」


「じゃあどうしろっていうんだよ」


「相手を見れば?」


「いないんだから見えないだろ」


「そういうことじゃなくて」


晴が何か言いかけたところで、リンクの入口から大きな声が響いた。


「ITO!(惟人!)」


惟人が振り返る。


晴も顔を上げた。


スタッフへキャリーケースを預けながら、長身の男がこちらへ歩いてくる。


惟人の長年のコーチだった。


ジュニアの頃から何度も合宿や大会をともにし、ジャンプの癖も、疲労が出たときに崩れるポイントも、惟人本人以上に知っていることがある。


今季の本格的な振付調整に合わせて、海外から来日したばかりだった。


「Finally.(やっと会えたな)」


「昨日着いたんじゃなかったのか」


「Last night. And you’re already complaining.(昨夜だよ。会って早々もう文句か)」


「文句じゃない」


コーチは笑いながら近づいてきた。


その途中で、視線が惟人の横へ動いた。


晴を見た。


足が止まる。


晴はその反応を見た瞬間、少しだけ嫌な予感がしたらしい。


控えめに片手を上げる。


「……Hi.(……久しぶり)」


数秒、コーチは動かなかった。


晴の顔を見る。


身体を見る。


もう一度、顔を見る。


そして突然、リンク中に響くような声を上げた。


「Haru!?(晴!?)」


晴が少し肩をすくめた。


「やっぱりこうなるよね」


惟人が笑う。


次の瞬間、コーチはほとんど駆けるように晴のところまで来た。


「Haru Kujo? Really?(九条晴? 本当に?)」


晴も少し笑う。


「Yes. Really.(うん。本物)」


その瞬間、思い切り抱きしめられた。


かなり勢いがあって、晴の身体が少し後ろへ持っていかれる。


「ちょ、待って」


「Where have you been!?(どこにいたんだ!?)」


「苦しい」


「Two years! You disappeared for two years!(二年だぞ! 二年間も消えてたんだぞ!)」


「分かった、分かったから」


惟人は横で笑っていた。


晴が助けを求めるように見る。


「惟人、笑ってないで何とかして」


「俺も最初それくらいやりたかった」


「やらなくてよかった」


ようやくコーチが晴を離した。


それでもすぐには距離を取らず、信じられないものを確認するように晴の顔をじっと見る。


「You’re too thin.(痩せすぎだ)」


晴は苦笑した。


「みんなそれ言う」


「Because it’s true.(本当だからだ)」


「戻してる途中」


晴が日本語で答えると、コーチは惟人を見る。


惟人が補足した。


「病院にも行ってる。今はちゃんと食ってるし、体重も少し戻った」


“Good.”


(それならいい)


コーチの表情がようやく少し和らいだ。


それから、すぐに聞いた。


「Are you skating?(滑ってるのか?)」


晴は少しだけ笑った。


「A little.(少しだけ)」


「I saw the video.(動画は見た)」


その言葉と同時に、コーチが惟人を見る。


「This idiot posted it.(この馬鹿が上げたやつ)」


晴が頷いた。


「僕も同じこと思った」


「お前ら意気投合すんな」


二人が笑う。


ほんの少し前まで、コーチは晴を抱きしめたまま本気で泣きそうな顔をしていた。


けれど数分もすると、仕事のために来た人間らしく表情が変わった。


リンクを見る。


タブレットを見る。


それから惟人を見る。


「So. Cinderella.(それで。《シンデレラ》だな)」


「ああ」


「Show me.(見せろ。)」


「着いたばっかりだろ」


「I flew here for your program.(お前のプログラムを見るために来たんだ)」


「分かったよ」


惟人は小さく息を吐き、リンクへ戻った。


晴も再びリンクサイドへ座る。


コーチは腕を組み、その横へ立った。


音楽が始まる。


まだ完成には程遠い。


ジャンプの位置も仮で、ステップも振付を置いただけの場所がある。


それでも、今季のプログラムが何をしようとしているのかは見え始めていた。


冒頭の惟人は、まだ一人だった。


自分の世界を正確に滑っている。


曲が舞踏会へ移り、身体が少しずつ開く。


そこから、誰かがいる。


実際には誰もいない。


けれど振付の中には、明らかに相手の場所が用意されている。


惟人が差し出した手の先。


振り返った視線の先。


大きなカーブを描いたあと、少しだけ身体を空ける場所。


一人で滑っているのに、そこだけもう一人分の空間がある。


一度目を滑り終えるまで、コーチは何も言わなかった。


惟人が戻る。


「何」


コーチは少し考えてから答えた。


「You’re dancing alone.(一人で踊ってる)」


「一人なんだけど」


「That’s the problem.(それが問題なんだ)」


惟人が露骨に嫌そうな顔をした。


晴が横で少し笑う。


コーチはリンクを指した。


「This is not just a prince dancing. There’s someone with him.

(これは王子が一人で踊るプログラムじゃない。そこに誰かいるんだ)」


「分かってる」


「No. You understand it. You don’t feel it.

(いや。頭では分かってる。でも身体では分かってない)」


惟人が黙る。


晴は少しだけ真剣な顔でリンクを見た。


コーチはさらに続ける。


「You need to know exactly where she is. How close. How fast. When she turns. When she takes your hand.

(相手がどこにいるのか、身体で分からないと駄目だ。どれくらい近いのか、どれくらい速いのか、いつターンして、いつお前の手を取るのか)」


「いない相手でそれやれって?」


「Yes.」


「無茶言うな」


コーチは少し考えた。


それから、リンクサイドへ視線を向ける。


晴を見る。


嫌な予感がしたらしく、晴の表情が少し固まった。


「Haru.(晴)」


「何」


「Get in.(入れ)」


晴が目を瞬かせる。


「……僕?」


「Yes.(そう)」


コーチは何でもないように言った。


「Be Cinderella.(シンデレラ役やれ)」


晴は数秒黙った。


「なんで僕が」


惟人もすぐ言った。


「俺も聞きたい」


コーチは二人を交互に見る。


「Because I need him to feel a partner, and you’re right here.

(惟人に相手の位置を身体で覚えさせたい。それで、お前がここにいる)」


「誰でもいいじゃん」


「No.(駄目だ)」


「なんで」


「You know how he moves.(お前は惟人がどう動くか知ってる)」


その一言で、晴は少し黙った。


確かに、それはそうだった。


惟人の速度も、癖も、ターンへ入るタイミングも知っている。


コーチは晴の顔を見て、少し笑った。


「And he knows you.(それに、惟人もお前を知ってる)」


惟人が一瞬だけコーチを見る。


コーチは何も気づいていないような顔をしていた。


あるいは。


気づいていて言ったのかもしれない。


晴は諦めたように立ち上がった。


「靴履いてくる」


惟人が顔をしかめる。


「本当にやるの?」


「惟人が相手の位置分かんないんでしょう」


「言い方」


晴は少し笑った。


数分後、競技用の靴を履いた晴がリンクへ入った。


コーチが簡単に位置を指示する。


本格的なペアの振付をするわけではない。


必要なのは、相手がいる場合の距離だった。


晴が惟人の少し前へ立つ。


二人の間には、一人分には少し近く、手を伸ばせば届く程度の距離がある。


「Start from the waltz.(ワルツのところから)」


音が流れる。


惟人が動く。


晴もそれに合わせた。


最初は互いに少しぎこちなかった。


二人ともシングルの選手で、ペアやアイスダンスのように相手へ合わせて滑ることには慣れていない。


それでも、数歩で変わった。


子どもの頃から何千時間も同じリンクで滑ってきた。


晴がどれくらいの速度でカーブへ入るのか、惟人は知っている。


惟人がターンする前にどれくらい身体を倒すのか、晴も知っている。


だから合わせようとしなくても、妙に合った。


惟人が手を差し出す。


晴がその手を見る。


少し近づく。


確認のため、実際に手を取った。


ほんの一瞬だった。


触れたのは指先だけに近い。


それでも惟人の意識が一度そこへ集まった。


晴の体温がある。


手を取ったあと、晴が身体を開く。


惟人もその動きへ合わせて向きを変える。


二人で大きなカーブを描く。


そこでコーチが声を上げた。


「Good. Keep the distance.(いい。その距離を覚えろ)」


晴が少し先へ出る。


惟人が追う。


晴が振り返る。


その視線を惟人が受ける。


ただそれだけなのに、さっきまでとは全く違って見えた。


コーチが止めた。


「That.(それだ)」


晴が息を整えながら見る。


「何が?」


「You see it now?(分かるか?)」


晴は少し考えた。


それから惟人を見る。


「……うん」


「何」


「さっきより、相手いる」


惟人が眉を寄せた。


「お前いるからだろ」


「そうじゃなくて」


晴は少し言葉を探した。


「惟人が、一人で完結しなくなった」


その言葉に、コーチが頷いた。


「Exactly.(その通り)」


惟人はあまり納得していない顔をした。


コーチは晴へ言う。


「Now get out.(よし。晴、抜けろ)」


「もう?」


「Yes. He has to keep you there without you.

(そう。今度はお前がいなくても、そこに残さないといけない)」


晴はリンクサイドへ戻った。


惟人は一人になる。


もう一度、同じところから音を流す。


最初のカーブ。


腕を差し出す。


今度は、さっき晴がいた場所を見る。


一拍待つ。


そこに誰かが手を伸ばしてくる時間を残す。


身体を開く。


その先にも、相手の位置がある。


晴はリンクサイドから見ていた。


自分はもうそこにいない。


それなのに。


さっき自分が滑っていた場所へ、惟人の視線が残っている。


手を伸ばす。


少し待つ。


そして、誰かと一緒に動くようにターンへ入る。


晴が小さく息を吐いた。


「……いるみたい」


コーチが笑った。


「You see it.(見えるだろ)」


晴は頷いた。


惟人はそのまま曲を進める。


舞踏会の音楽が終わりへ近づく。


そして、真夜中。


音の色が変わる。


それまで隣にいたはずの相手がいなくなる。


惟人の身体が一度止まり、振り返る。


誰もいない。


そこから速度が上がる。


探す。


追う。


また振り返る。


それでもいない。


惟人は、そこで一度動きを止めた。


「ここ難しい」


コーチがすぐ答えた。


「Because you’re acting.(演技しようとしてるからだ)」


「演技だろ」


「No.(違う)」


コーチは少しだけ声を落とした。


「Don’t act like you lost someone.(誰かを失ったふりをするな)」


惟人が顔を上げる。


「Remember what it feels like when someone is actually gone.

(本当に誰かがいなくなったとき、どうだったか思い出せ)」


その瞬間だけ、惟人は何も言わなかった。


リンクサイドの晴は、コーチを見て少し眉を寄せている。


「厳しいな」


小さく呟く。


惟人には聞こえていた。


けれど返さなかった。


二年間。


晴がいなかった。


どこにいるのか分からなかった。


大会へ行ってもいない。


リンクへ戻ってもいない。


連絡しても届かない。


誰かに聞いても分からない。


それでも探した。


惟人は、もう一度最初の位置へ戻った。


曲を流す。


今度は、相手を失ったふりをしなかった。


さっきまで確かにそこにいた晴がいない。


ただ、その感覚だけを残した。


振り返る。


いない。


もう一度探す。


いない。


それでも滑る。


リンクサイドで見ていた晴が、途中から何も言わなくなった。


コーチも止めなかった。


曲は最後の部分へ入る。


探していた相手を、もう一度見つける。


今度は晴を入れなかった。


前半で一度覚えた距離だけを、惟人の身体が残している。


手を差し出す。


そこへ誰かが来る。


身体が少し柔らかく開く。


その瞬間、惟人の表情がほんのわずかに変わった。


晴が気づいた。


「……惟人、今ちょっと笑った」


曲が終わる。


惟人が振り返る。


「笑ってない」


「笑ってたよ」


「振付」


「顔まで?」


「うるさい」


晴が笑った。


コーチも笑っている。


「He was smiling.(笑ってたぞ)」


「お前まで言うな」


晴はタブレットを見ながら、まだ楽しそうだった。


「でも、今年珍しいね」


「何が」


「惟人がこういうの滑るの」


「こういうのって」


晴は少し考える。


「愛おしい人がいる感じ」


惟人の動きが、一瞬だけ止まった。


晴は気づいていない。


タブレットへ視線を落としたまま続ける。


「一人で滑ってるのに、ずっと誰かいるでしょう。前半なんか特に。惟人が誰かを見てる感じがする」


コーチがゆっくり惟人を見る。


惟人は嫌な予感がした。


案の定、コーチが聞いた。


「Who are you dancing with?(誰と踊ってる?)」


「誰とも」


「That’s a lie.(嘘だな)」


「曲の設定だろ」


コーチは笑った。


晴は二人を見比べる。


「何?」


「何でもない」


惟人はすぐ答えた。


それ以上、その話を続けるつもりはなかった。


少なくとも今は。


ただ、もう一度リンクへ戻るとき、さっき晴がいた場所が妙にはっきりと分かった。


どれくらい離れていたか。


どのタイミングで振り返ったか。


どこで手を取ったか。


全部、身体に残っている。


惟人はそこへ視線を置いた。


もう誰もいないはずなのに。


不思議なくらい、そこに誰かいるような気がした。


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