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春待氷  作者: りん
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第二十九章 少しだけ


翌日も、惟人のコーチは朝からリンクにいた。


来日したばかりだというのに時差をほとんど感じさせず、惟人のジャンプを確認し、前日にかなり手を入れたはずのフリープログラムを何度も止めては滑らせていた。夜のうちに考え直したところでもあったのか、翌朝になるとまた別の違和感が見つかるらしく、リンクへ入って一時間もしないうちに、惟人は何度目か分からないため息をついていた。


晴は午後から勤務だった。


リンクへ着いたとき、惟人はちょうどフリーの前半を通しているところだった。荷物を置き、スタッフへ挨拶をしながら少し離れた場所から見ていると、前日に三人で直した部分がきちんと残っている。


相手のために一拍残すところも、ジャンプ前の入りも、ステップの方向も、まだ完全に身体へ馴染んではいない。それでも昨日よりはずっと自然で、《シンデレラ》というプログラムの中にもう一人いるはずの相手の存在も、少しずつ見えるようになっていた。


曲が止まると、コーチがすぐに何かを指摘した。


惟人はリンクサイドへ戻りかけ、そこでようやく晴に気づいた。


「遅い」


「勤務時間これからだよ」


「昨日あれだけ口出したくせに」


「仕事じゃないもん」


晴は笑いながらそう返し、そのままスタッフの方へ向かった。


その声を聞いたコーチも振り返った。


「Haru.(晴)」


「おはよう」


「Are you skating today?(今日は滑るのか?)」


晴は少しだけ考えた。


「Maybe.(たぶん)」


コーチの眉が上がる。


「Maybe?(たぶん?)」


「仕事終わって、身体大丈夫だったら」


「Yesterday you said ‘a little.’(昨日、お前は『少しだけ滑ってる』って言ったよな)」


「うん」


実際、昨日は惟人の滑りをサポートするために一緒に滑ったのをコーチも見ているだろう、と思いながら頷く。


「How little?(その『少し』って、どのくらいなんだ?)」


晴は少し首を傾げた。


「ほんとに少しだよ」


その答えを聞いた惟人が、横で何とも言えない顔をした。


コーチはまだ気づいていない。


「Show me later.(あとで見せろ)」


晴は軽く手を振った。


「時間あったらね」


その程度のやり取りで話は終わり、午後の教室が始まれば、晴はいつもの仕事へ戻った。


子どものジャンプを見て、必要なら担当コーチと話し、スピンの入りやステップの使い方を説明する。言葉だけでは伝わりにくければ自分で少し滑って見せる。それはもう、このところの晴にとってごく普通の仕事になっていた。


ただ、その日は惟人のコーチが何度もこちらを見ていた。


晴が子どもに声をかけるときも、リンクサイドへしゃがみ込んで足元を確認するときも、スピンの入りを一緒に考えているときも、何となく視線がこちらへ向いている。


とうとう休憩時間になって、コーチの方から晴のところへ来た。


「Do you like coaching?(教えるの、好きか?)」


晴は少し驚いた。


「うん。思ったより」


「I thought you’d hate it.(嫌がると思ってた)」


晴は笑った。


「僕も」


昔の晴を知っている人間なら、そう思っても不思議ではない。


選手だった頃の晴は、自分が滑ることには誰より貪欲だったが、人を教えたいと口にしたことはほとんどなかった。自分の感覚を言葉へ変換することも得意ではなく、「曲を聞いて滑ればいい」と本気で言うようなところがあった。


それが今は、一人の子どものダブルアクセルを十分以上見ながら、踏み切りの癖や身体の開き方を一つずつ言葉にしている。


コーチは少し感慨深そうに晴を見た。


「You’ve changed.(変わったな)」


晴はすぐには否定しなかった。


「そうかも」


以前なら、変わったと言われること自体に少し抵抗があったかもしれない。


今はそうでもなかった。


変わったところもあるし、変わっていないところもある。そのどちらも今の自分なのだと思えるようになってきていた。


その日の勤務が終わる頃、晴は少しだけ自分の身体を確認した。


疲労は強くない。午前の仕事も入っていなかったし、脚も軽い。


だから、自分の競技用の靴を出した。


それを見たコーチがすぐ近づいてくる。


「Now?(今から?)」


「ちょっとだけ」


「Finally.(やっとか)」


晴は笑いながら靴紐を締め、そのままリンクへ入った。


最初はただ滑った。


一周して、もう一周する。


ブレードへ体重を乗せ、エッジの感触を確かめながら身体を少しずつ深く傾けていく。


コーチは腕を組んだまま見ていたが、最初の数十秒で表情が変わった。


昨日は惟人がメインだった。だからちゃんと見ていなかった。


だが、気づくべきだった。惟人と滑って違和感がないことに違和感を持つべきだった。


もちろん、昔とは違う。


速度はまだ足りないし、深いエッジを長く保とうとすれば、以前より少し早く身体が起きる。筋力も持久力も、世界の頂点で戦っていた頃には到底及ばない。


それでも、二年間まともに滑っていなかった人間の動きには見えなかった。


晴は一度ブレードへ体重を預けると、そこから先の身体の線に自然と流れが生まれる。


実際には音楽など流れていない。


教室の片づけをするスタッフの声や、遠くで誰かが話している音があるだけだった。


それなのに、晴が滑ると、そこに何か別の音があるように見える。


コーチは少し目を細めた。


昔から知っている。


晴は、音楽がない場所でも音楽を連れてくる。


ただ滑っているだけで、なぜかそう見える。


晴は少し速度を上げ、いくつか簡単なターンをつなぎ、ツイズルから短いステップへ入った。そのまま流れを止めずにもう一度エッジへ乗ってから、ようやくコーチの方へ戻ってきた。


「どう?」


コーチは少し笑った。


「You call this ‘a little’?(これを『少し』って言うのか?)」


晴が首を傾げる。


「まだ何もしてないよ」


「That’s the problem.(それが問題なんだ)」


横で聞いていた惟人が笑った。


「だから言っただろ」


「何を」


「晴の『少し』は信用すんなって」


晴は不満そうに惟人を見る。


「大げさ」


そのあと、晴はトリプルトウループを一本跳んだ。


軽く降りる。


続けてサルコウ、さらにループ。


どれも昔ほど高さはないし、着氷後の流れにも余裕は少ない。それでも、技術そのものは崩れていなかった。


コーチの顔つきが少しずつ変わっていく。


「Wait.(待て)」


晴が止まる。


「What?(何?)」


「You have triples?(三回転、戻ってるのか?)」


晴は少し考えた。


「普通のは」


「All of them?(全部?)」


「ルッツも」


コーチは惟人を見る。


「You said ‘a little.(お前、『少し』って言ってただろ)」


惟人は肩をすくめた。


「俺は言ってない」


晴が笑う。


「まだ昔みたいじゃないよ」


コーチはもう一度晴を見た。


今度は、完全に競技者の身体を見る目だった。


体格だけではない。


脚の張り方、背中の使い方、肩の位置、着氷後の呼吸、ジャンプ一本のあとにどれくらい余裕が残っているかまで細かく見ている。


「Again.(もう一回)」


「何を?」


「Lutz.(ルッツ)」


晴は一瞬だけ惟人を見る。


惟人もコーチを見た。


「一本だけ」


惟人が言う。


コーチも頷いた。


晴は助走へ入った。


左足のアウトサイドエッジへ乗り、いつもの軌道からトウをついて跳ぶ。


三回転。


着氷は少し前に詰まったが、きちんと立ち、そのままエッジを流した。


昔ならもっと高く、もっと余裕を持って降りていただろう。


それでも十分きれいだった。


晴が戻ってくる。


「どう?」


コーチは少し間を置いてから言った。


「Your technique remembers.(技術は覚えてる)」


晴は少し笑った。


「僕もそう思う」


「Your body doesn’t. Not yet.(でも身体はまだ追いついてない。今はまだな)」


その言葉に、晴の表情が少し変わった。


惟人も横から晴を見る。


否定されているわけではないことは、晴自身が一番よく分かっている。


技術は残っている。


身体も少しずつ戻っている。


ただし、その技術を昔と同じ高さや速度、安定性で何度も使い続けられる身体にはまだなっていない。


晴は素直に頷いた。


「うん。分かってる」


「Good.(それならいい)」


コーチは少し安心したようだった。


昔の晴なら、自分で分かっていてもその先へ行った。


一度できると思えば試し、身体に余裕がなくてもさらに難しいものを取りに行った。


今の晴には、以前とは少し違う慎重さがある。


コーチはそこまで見ていた。


ところが、数分後。


コーチが何気なく聞いた。


「What about Axel?(アクセルは?)」


晴が少し黙った。


惟人が横で、笑いを堪えるような顔をした。


コーチはそれを見逃さなかった。


「What?(何だ?)」


「何でもない」


晴が答える。


「Haru.(晴)」


「……跳べるよ」


成功させたのは、ほんの数日前だった。


コーチの眉が上がった。


「Double?(二回転?)」


晴はさらに黙る。


横で惟人がもう完全に笑っている。


「惟人、笑わないでよ」


「俺、何も言ってない」


コーチが二人を交互に見る。


「Triple?(三回転?)」


晴は少しだけ気まずそうに頷いた。


「最近ね」


「Recently?(最近?)」


「一昨日」


コーチはしばらく動かなかった。


それから、ゆっくり惟人を見る。


「And you let him?(それをお前はやらせてるのか?)」


「本数管理してる」


「You let him?(やらせてるのか?)」


「医者にも通ってる」


「That is not an answer.(それは答えになってない)」


晴が間に入った。


「僕がやりたいって言ったから」


コーチが晴を見る。


「You disappear for two years, come back thin, say you skate ‘a little,’ and now you have a triple Axel?

(二年間消えて、痩せて戻ってきて、『少しだけ滑ってる』って言ってたと思ったら、今度はトリプルアクセルまで跳べるのか?)」


晴は少し笑った。


「言い方」


「Is any part wrong?(どこか間違ってるか?)」


「……ない」


コーチは額を押さえた。


惟人がとうとう声を上げて笑った。


「だから晴の『少し』は信用すんなって」


「惟人まで」


晴は少し不満そうだったが、コーチがまだかなり真剣な顔をしていたため、それ以上ふざけるのはやめた。


「今日は跳ばないよ」


先にそう言う。


「Yesterday?(昨日は?)」


「昨日も跳んでない」


「When was the last time?(最後に跳んだのはいつだ?)」


「三日前」


その答えを聞いて、コーチの表情が少しだけ緩んだ。


「How many?(何本?)」


「一本」


「One?(一本だけ?)」


「成功しても一本で終わり」


コーチが惟人を見る。


惟人も頷いた。


「今はそうしてる」


「Good.(それならいい)」


そこでようやく、コーチは納得したようだった。


晴は少し笑う。


「信用ないなあ」


「You were insane at seventeen.(十七歳の頃のお前は無茶苦茶だったからな)」


「それは昔」


「At twenty-two too.(二十二歳の頃もだ)」


晴は一瞬だけ黙ったあと、苦笑した。


「……それは否定できない」


三人で少しだけ笑った。


そのあと晴はジャンプをやめ、ステップとスピンだけを確認した。


コーチはその間もずっと見ていた。


スピンの軸はかなり戻っているし、姿勢も安定してきた。回転速度も以前より上がっている。それでも現役時代と比べれば、まだ明確に遅い。


ステップも同じだった。


晴が持っていた技術そのものが消えたわけではない。


エッジの感覚も、ターンの精度も、身体を音へ合わせる感覚も残っている。


ただ、それらを四分間、一つのプログラムとして高い密度のまま維持することはできない。


コーチは、その違いをかなり冷静に見ていた。


リンクを上がり、晴がベンチで靴を脱いでいると、コーチが隣へ座った。


「Competition?(競技復帰は?)」


晴はすぐに首を振った。


「No.(ないよ)」


迷いはなかった。


「Really?(本当に?)」


「うん」


「Then why skate?(じゃあ、なんで滑る?)」


晴は少し考えた。


少し前なら、すぐには答えられなかったかもしれない。


教えるため。


身体を戻すため。


できないことが気持ち悪かったから。


どれも間違いではない。


ただ、今はそれだけではなかった。


「好きだからかな」


言ってから、晴自身が少しだけ驚いた。


「滑るの」


競技をしていた頃だって、嫌いだったわけではない。

むしろ好きだった。


勝ちたかったし、昨日よりいい演技をしたかった。

点数が出れば嬉しかったし、負ければ悔しかった。

四回転だって、もっと高く、もっときれいに跳びたかった。


ただ、父がいなくなってから、その全部を好きだった自分を否定してきた。


今は、競技へ戻るつもりはない。

現実的に戻れるわけもない。

だが、こうして滑っているくらいはしてもいいのかなと思った。


「楽しいんだよね」


コーチはその横顔をしばらく見てから、穏やかに頷いた。


「That’s good.(それならいい)」


「何が?」


「That you still love it.(まだ好きだってことが)」


晴は少しだけ目を細めた。


それから、静かに笑った。


「そうかも」


少し離れたところにいた惟人は、そのやり取りを聞いていた。


何も言わなかった。


ただ、晴が自分から「滑るのが好きだ」と口にしたことだけを、静かに覚えていた。


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