第三十章 愛おしい
七月の半ばには、惟人の新しいフリープログラムはかなり形になっていた。
振付は一通り入った。ジャンプの位置も決まり、スピンやステップの大枠も固まっている。ただ、形があることと、それを試合で滑れることはまったく別だった。
最初は一つずつ動きを確認し、次に前半だけ、後半だけと区切って滑る。ジャンプを抜いて流れだけを見る日もあれば、逆にジャンプを全部入れて、どこでプログラム全体の呼吸が崩れるのかを確かめる日もある。そうやって何度も分解し、また組み直しながら、惟人は少しずつ振付を自分の身体へ落とし込んでいた。
晴は勤務の合間や、自分のトレーニングを終えたあとにそれを見ていた。
最初の頃より、ずいぶん遠慮がなくなった。
以前は、惟人が聞かなければほとんど何も言わなかったのに、今では気づけば昔と同じように口を出している。
「そこ、ちょっと早い」
「今のターン、音と合ってない」
「ジャンプ降りたあと急ぎすぎ」
惟人も毎回素直に聞くわけではない。
「分かってる」
「じゃあ直して」
「今やってる」
「三回前から同じだよ」
「うるせえ」
それでも、晴が間違っていると思えば聞かないし、正しいと思えば直す。そのやり取り自体は、昔とほとんど変わらなかった。
その日は、プログラム中盤の舞踏会の場面で何度も止まっていた。
音楽はそれまでより少し柔らかくなり、王子が初めてシンデレラを一人の相手として意識し、ただ華やかな場にいるのではなく、その人と踊っている時間へ入る。
振付自体は悪くない。
大きなカーブから相手の方へ身体を開き、手を差し出し、少し距離を保ちながらターンへ入る。見えない相手がそこにいるように、視線や腕の軌道にも余白が作られている。
6月の末に晴が入った甲斐があって、そこにちゃんと人がいるように見える。
ただ、惟人が滑ると少し硬かった。
正確ではある。
むしろ正確すぎる。
そこにいるのがシンデレラに見えない。
晴は何度か黙って見たあと、とうとう言った。
「そこ、違う」
惟人が止まる。
「何が」
「綺麗すぎる」
惟人の眉が寄った。
「またそれかよ」
「前と違う」
晴はリンク際へ近づいた。
「今のところ、もっと色っぽくていいと思う」
惟人は一瞬黙った。
「……何?」
「色っぽく」
「聞こえてる」
「じゃあやって」
「どうやって」
晴は少し困ったように首を傾げた。
「普通に」
「普通が分かんねえから聞いてんだよ」
晴はそこで初めて、説明することの難しさに気づいたようだった。
自分自身は、色気を出そうと思って滑ったことなどほとんどない。音楽の中に柔らかさや親密さがあれば、身体が自然にそう動くだけだった。
「なんて言えばいいかな」
晴は少し考え、それから惟人のさっきの動きを頭の中でなぞるように言った。
「今、全部前に出てるんだよ」
「何が」
「身体も、視線も、腕も。全部すぐ次へ行ってる」
惟人は黙った。
晴は続ける。
「ここって、相手と踊ってるところでしょう」
「ああ」
「だったら、もっと相手を見る時間があっていいと思う。今の惟人、シンデレラがいるはずなのに、誰でもいい感じ。もうちょっと愛おしそうに」
その言い方で、惟人にも少し意味が分かった。
「じゃあどうすればいい」
晴はリンクを見る。
「一回やる」
惟人の眉がわずかに動く。
「お前が?」
「見た方が早いでしょう」
晴はちょうど自分の靴を履いていた。
少し前まで自分のトレーニングをしていたが、今日はもうジャンプを終えている。
そのままリンクへ入り、惟人が滑っていた位置まで行った。
「曲ここから」
スタッフが音源を戻す。
晴は立ち位置を確認した。
振付は惟人のものなので、基本的な形は変えない。足運びも腕の位置も、視線を向ける方向も同じだった。
ただし、晴は最初から少しだけ重心の置き方を変えた。
音楽が流れる。
晴が一歩踏み出し、ターンへ入る。
身体をゆっくり傾け、そこから腕を開く。
惟人は見ていた。
何が違うのか、最初はうまく言葉にできなかった。
振付そのものは同じだった。
それなのに、晴がやると動きの間に誰かが入り込める余白が生まれる。
腕を伸ばしたあと、すぐに次へ行かない。
ほんの一瞬だけ、その手を誰かが取る時間が残る。
視線も同じだった。
先に身体を動かしてから相手を見るのではなく、まずそこにいる人を見て、その人へ身体が続いていく。
首の角度がわずかに変わるだけで、ただの振付が急に誰かへ向けた動きに見えた。
晴が次のターンへ入る。
身体を正面へ戻しきる前に肩を少し残し、そこから視線だけがゆっくり上がる。
見えない相手を確かめるような動きだった。
惟人の胸が一瞬だけ強く鳴った。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
晴は別に何かをしているつもりはない。
ただ、指導のために見本を見せている。
惟人のプログラムを少しでも良くするために滑っているだけだ。
それでも、八年間好きだった相手が、目の前で「愛おしい人を見る動き」をやっている。
平気でいられるほど、惟人は枯れていなかった。
晴が最後の動きで顔を上げる。
その視線がリンクサイドへ流れ、ちょうど惟人と合った。
ほんの一瞬だった。
惟人は反射的に目を逸らした。
晴は気づかないまま動きを止める。
「こう」
リンクサイドへ戻ってくる。
「分かった?」
惟人はすぐには答えなかった。
晴が不思議そうに見る。
「惟人?」
「……分かった」
「ほんと?」
「分かったって」
晴は少し笑った。
「じゃあやってみて」
惟人はリンクへ戻った。
音楽をもう一度流す。
晴の動きをそのまま真似するつもりはなかった。
それをすれば、ただ晴のコピーになる。
必要なのは、晴が見せたものを、自分の身体へ置き換えることだった。
惟人は大きなカーブへ入り、そこから手を差し出す。
今度はすぐに次へ行かず、ほんの少しだけ待った。
そこに誰かがいると思う。
手を取る人がいる。
その人が少し遅れて自分のところへ来る。
そう考えた瞬間、身体の向きが少し変わった。
晴がすぐ言った。
「そこ」
惟人はそのまま続ける。
視線も、今までより少し遅く動かした。
相手を探すのではなく、すでに目の前にいる人を見る。
自分では少し落ち着かない感覚だった。
いつもより動きを止めているように感じる。
けれど、音楽には合っていた。
曲が止まる。
晴は少し考えたあと、頷いた。
「前よりいい」
「前より?」
「うん」
「まだ足りない?」
晴は素直に頷いた。
「ちょっと」
惟人は眉を寄せた。
「お前基準にすんなよ」
「してないよ」
「絶対してる」
「惟人の色気でいいんだよ」
その言い方に、惟人はまた少し止まった。
晴は当然気づかない。
「僕みたいにやる必要ないし」
「……そうだな」
「惟人はもっと、何ていうか」
晴は惟人を見ながら、また言葉を探した。
「余裕がある感じ」
「余裕?」
「うん。追わなくても、相手の方から来るって分かってるみたいな」
惟人は少し考えた。
「何が来るんだよ」
「シンデレラ」
「今、適当に言っただろ」
晴が笑った。
「でも、そんな感じ」
「感覚で説明すんな」
「僕、ずっとそうでしょう」
それは否定できなかった。
惟人はもう一度同じ部分を滑った。
今度は少し違った。
晴の真似ではない。
自分の身体、自分の速度、自分のエッジの使い方の中で、相手へ向ける余白を残す。
惟人の滑りはもともと、動きを曖昧にしない。
エッジも腕も視線も、どこへ行くかがはっきりしている。
だからこそ、その正確さを崩さずに一つの動きの終わりだけを少し長く残すと、それが余裕に見えた。
見えないシンデレラへ手を差し出す。
相手が来ることを信じて、急がずに待つ。
晴は見ながら少しずつ頷いた。
「それ、いい」
惟人も今度は自分で分かった。
さっきより自然だった。
「これ?」
「うん」
「色っぽい?」
晴は少し考えた。
「さっきより」
惟人は思わず笑った。
「採点厳しいな」
「大事でしょう」
「そんなに?」
晴は少しも迷わず答えた。
「曲がそう言ってる」
その言葉に、惟人は少しだけ目を細めた。
昔から晴はそうだった。
振付に「色気を出す」と書いてあるから、色っぽく滑るわけではない。
音楽の中にそういう温度があるから、身体が自然にそれへ反応する。
だから本人には、自分がどう見えているのか分かっていないことが多い。
十九歳の頃、惟人はそれに散々振り回された。
二十七歳になった今でも、どうやら完全には慣れていない。
晴はリンク際へしゃがみ、さっき撮った動画を確認していた。
「もう一回、ここから通そう」
何でもない顔で言う。
惟人はその横顔を見る。
髪は以前よりきちんと整えられパサつきも減り、身体にも少しずつ厚みが戻っている。再会した頃ほど頬の線も鋭くない。
元の晴へ戻っている。
そう思いかけて、少し違うと思った。
以前の晴へ戻っているというより、今の晴になっている。
働いて、教えて、食べて、眠って、自分の身体を少しずつ作り直している。
競技へ戻る気はないのに、滑ることそのものは好きだと言えるようになった。
その人間が今、自分のフリープログラムへ勝手に口を出し、見えないシンデレラをどう愛おしく見せるかについて真剣に考えている。
惟人はふと、可笑しくなった。
同時に、愛おしいと思った。
何度思っても、慣れるものではない。
けれど昔のように、その感情に振り回されることもなくなった。
晴がここにいて、自分の滑りを見て、自分の音楽を聞いている。
それだけで、少し嬉しい。
「惟人」
晴が顔を上げる。
「何ぼーっとしてるの」
「してない」
「次やるよ」
「俺が滑るんだけど」
「知ってる」
晴は笑った。
惟人も笑う。
それからもう一度リンクへ戻り、見えない相手へ手を差し出す。
今度は少しだけ長く待つ。
その人が来ることを知っている王子のように。




