第三十一章 待つ
八月の終わりには、惟人の新しいフリープログラムはもう「作っている途中のもの」ではなくなっていた。
七月の初めには、振付を覚え、ジャンプの位置を決め、音楽と動きを合わせていくだけで一日が終わっていた。それが七月を越え、八月に入る頃には、《シンデレラ》というプログラムそのものが少しずつ惟人の身体へ移り始めていた。
途中で曲を止めて確認する回数は減り、代わりに最初から最後まで通して滑る時間が増えた。前半だけを繰り返す日もあれば、後半だけを集中的に確認する日もある。ジャンプを抜いて振付の流れを見ることもあれば、すべての要素を入れて、疲労が溜まった状態でどこまで精度を保てるかを試すこともあった。
単体なら何の問題もなく降りるジャンプでも、四分近く滑ったあとの後半になれば、ほんのわずかに軸がずれることがある。ターンの入りが数センチ外へ流れたり、着氷後のエッジがいつもより早く起きたりする。
惟人はそういう小さな崩れを一つずつ拾い、どこまで疲れても榊惟人の滑りを保てるかを詰めていた。
春先にはまだ薄かった競技者特有の緊張が、リンクに立つ惟人の身体へ完全に戻っていた。
晴の身体も、その同じ数か月の中で少しずつ変わっていた。
再会した頃のように、骨格そのものまで細く見える身体ではなくなった。肩や背中にはわずかながら厚みが戻り、脚にも以前とは比べものにならない程度には筋肉がついている。
三回転ジャンプも、もう一度跳べたこと自体を喜ぶ段階ではなくなった。
状態が悪くなければ普通に跳ぶ。
3Aも、「跳べるかどうか」を確かめるものではなく、身体の調子がいい日に本数を決めて確認するものへ変わっていた。
単発でスピンやステップを見せたり、ジャンプの見本を見せたりする程度なら、指導中に困ることもほとんどなくなっている。
生活も、春ほど危うくはなかった。
朝の物流の仕事は週に三度。午後はリンクへ入り、夜の黒服も回数を減らしながら続けている。以前なら少しでも空き時間があれば、さらに配達を入れていたが、今はほとんどしなくなった。
食事を抜くことも減った。
仕事の合間におにぎりを買い、足りなければたんぱく質を足す。帰宅が遅くなる日は、先に何か食べておく。
晴にとって、それは「健康的な生活をしよう」という立派な決意から始まったものではなかった。
もっと単純だった。
食べなければ翌日身体が動かない。
眠らなければジャンプの感覚が悪くなる。
身体を使うことが少しずつ楽しくなるにつれて、身体を壊さない方が結果的に都合がいいと分かるようになっただけだった。
だから、八月の終わりに惟人が十日間日本を離れると聞いたときも、晴は自分の生活について困るとは思わなかった。
海外にあるコーチの拠点での短期合宿だった。シーズン前の調整としては珍しくない。
ジャンプの最終確認をし、プログラムを何度も通し、氷上だけではなく陸上トレーニングも組み合わせて身体を仕上げていく。
惟人にとっては毎年のように繰り返してきた予定だったし、晴自身も現役だった頃には同じ時期に海外へ出ていた。
十日という期間も、競技者の感覚なら長いとは思わない。
それなのに、出発の日付を聞いたあと、晴はなぜか帰国日まで確認した。
「十日?」
冷蔵庫からヨーグルトを取り出しながら聞くと、惟人は荷物を確認したまま頷いた。
「十日」
「いつ帰るの?」
惟人が日付を答える。
晴は何となく自分の予定を頭の中で照らし合わせ、その日に夜勤が入っていることへ気づいた。
「その日、僕いないかも」
「別に待ってなくていいぞ」
惟人は本当に何でもないことのように言った。
晴もすぐに返した。
「待たないよ」
そのときは、本当にそう思っていた。
十日くらい、一人で暮らせる。
むしろ二年間ずっと一人だった。
惟人と暮らし始めてからまだ数か月しか経っていないのだから、一人で生活していた時間の方が圧倒的に長い。
出発の朝も、特別なことはなかった。
晴はまだ少し眠そうな顔で水を飲み、惟人は玄関で荷物を確認していた。
「仕事増やすなよ」
「分かってる」
「ちゃんと食え」
「分かってるって」
「夜遅くても食ってから寝ろ」
「はいはい」
「睡眠削るな」
晴はそこで露骨に嫌な顔をした。
「十日間、毎日電話する?」
「お前がちゃんとするならしない」
「ちゃんとするよ」
「信用してる」
「絶対嘘」
惟人が少し笑った。
最後に玄関へ向かう背中へ、晴はいつも通り声をかけた。
「いってらっしゃい」
惟人は振り返った。
「行ってくる」
それだけだった。
最初の二、三日は、本当に何も変わらなかった。
朝は仕事へ行き、午後はリンクへ向かい、必要なら夜も働く。帰れば食事をして、風呂へ入り、眠る。
惟人がいないからといって、できなくなることは何もない。
食事も自分で用意できるし、洗濯もできる。朝も起きられるし、仕事へ行くのに誰かから声をかけてもらう必要もない。
それでも三日目の夜、遅い時間に玄関を開けたとき、晴は一瞬だけ足を止めた。
部屋が暗かった。
もちろん当然だった。
自分が出ているのだから、誰も電気をつける人はいない。
晴は照明をつけ、鞄を置いた。
冷蔵庫には、惟人が出発前に作っていたものが少し残っている。それを温めてテーブルへ運び、一人で食べた。
テレビはつけなかった。
食器の音だけが部屋の中に響く。
その静けさを、晴は妙に意識した。
二年間一人で暮らしていた頃には、こんなことを考えた記憶はほとんどない。
帰っても誰もいない。
話す相手もいない。
それが当たり前だった。
疲れていれば、むしろ誰にも気を使わずに済むことを楽だと思う日さえあった。
なのに今は、同じように一人でいるだけなのに、部屋の中から何か一つ欠けているような感じがした。
何がないのかと考えれば、答えは簡単だった。
惟人がいない。
それ以上の意味までは、まだ考えなかった。
四日目には、惟人から短いメッセージが届いた。
《練習終わった》
晴は休憩中にそれを見て、《おつかれ》と返した。
少しすると、《そっちは》と来た。
《今休憩。今日は夜も仕事》
そう送ると、そのあとしばらく返事はなかった。
おそらく惟人も次の予定へ移ったのだろう。
晴もそのまま仕事へ戻った。
たったそれだけのやり取りだった。
それなのに、その日の午後は少し気分が軽かった。
五日目には動画が送られてきた。
《シンデレラ》の後半だった。
晴は帰宅してからソファへ座り、送られてきた部分を三度見た。
疲れがあるのか、最後のターンから次のエッジへ入るところが少し急いでいる。
《最後急いでる》
すぐに送ると、しばらくして《分かってる》と返ってきた。
晴は思わず笑った。
《分かってるなら直して》
《うるせえ》
それだけだった。
けれど、その短いやり取りをしただけで、さっきまで妙に静かだった部屋が少しだけ普通に戻ったような気がした。
晴はその感覚を、自分でも少し不思議に思った。
惟人の存在が必要になったのだろうか。
そう考えてみたが、「必要」という言葉には少し違和感があった。
惟人がいなければ生活できないわけではない。
実際、七日目の朝には、それをかなりはっきり確認した。
目が覚めても、家の中は静かだった。
惟人がいる日は、自分より早く起きていることも多い。キッチンでコーヒーを淹れる音や、食器を置く音、冷蔵庫を開ける音が聞こえてくる。
今は何も聞こえない。
晴は少しだけ布団の中に残ったあと、自分で起きた。
朝食を用意し、ちゃんと食べた。
以前なら、面倒ならそのまま仕事へ出ていたかもしれない。
今はしない。
誰かに言われなくても食べる。
そこまで考えて、晴は少し安心した。
惟人がいなくても、自分は大丈夫だった。
誰かに面倒を見てもらわなければ生活できない状態ではない。
惟人が十日間家を空けても、食べることも眠ることも働くこともできる。
そこまで考えてから、晴は少しだけ箸を止めた。
大丈夫であることと、いない方がいいことは、同じではない。
惟人がいなくても暮らせる。
それでも、惟人がいる方がいい。
仕事から帰ったときに、その日のことを話せる方がいい。
リンクで何か面白いことがあれば、あとで同じ話をもう一度できる方がいい。
冷蔵庫を開けたときに、隣から「それ俺の」と言われる方がいい。
夜遅く帰ってきたとき、部屋のどこかに誰かがいる気配がある方がいい。
六月に三日間離れたときも、似たことを思った。
あのときは、ただ「惟人がいる方がいい」と感じただけだった。
今は、その理由が少しずつ具体的になっている。
晴はそこで、ふと一つの言葉を思った。
帰ってきてほしい。
自分の中にそんな感情があることが分かって、少しだけ困った。
八日目の夜、惟人から電話が来た。
晴はちょうど帰宅したところで、キッチンで夕食を用意しながら電話を耳に当てた。
「何してる」
「今帰った」
「飯は?」
「これから」
「何食う」
「鶏肉と野菜。ごはんもあるよ」
そこまで答えると、惟人はようやく安心したように言った。
「ならいい」
晴は笑った。
相変わらず、そればかり気にする。
けれど以前ほど鬱陶しいとは感じなくなっていた。
少しだけ話した。
惟人の練習や晴の仕事、リンクの子どものことを少し話した。特別な話題は何もない。
それでも会話が途切れたあと、晴は電話を切らずにいた。
向こうからも切ろうとする気配はなかった。
遠くで誰かが話している声がする。
ホテルなのか、リンクなのかは分からない。
話すことはないのに、それでも切りたくない。
その感覚には、昔も覚えがあった。
海外遠征で同じホテルに泊まっていても、部屋が別だった夜。わざわざ電話をかけて、ほとんど何も話さないままつないでいたことがある。
当時は、それに意味があるなど考えもしなかった。
ただ、そうしたかったからそうしていた。
「惟人」
晴は何となく呼んだ。
「何」
「あと二日だね」
口に出してから、自分でも気づいた。
惟人が少し黙った。
やがて、わずかに笑いを含んだ声が返ってくる。
「数えてんの?」
「数えてないよ」
晴はすぐに否定した。
「日付知ってるだけ」
「そう」
「何」
「別に」
声だけなのに、妙に楽しそうなのが分かる。
晴は少しむっとした。
電話を切ったあと、何となくカレンダーを見る。
帰国の日まで、本当にあと二日だった。
やっぱり数えていたらしい。
そう自覚すると、少し可笑しかった。
十日目。
本来なら、晴は夜の仕事へ行く予定だった。
惟人が帰国する時間には家にいないはずだったので、朝からその日は会わないつもりでいた。
ところが午後になって店から連絡が入り、急な調整で晴の出勤がなくなった。
メッセージを見た瞬間、最初に浮かんだのは「休みになった」ではなかった。
今日、惟人が帰ってくる。
そのことだった。
晴はしばらくスマートフォンの画面を見た。
空港まで迎えに行こうとは思わなかった。
惟人は自分で帰ってこられる。
だから予定通りリンクの仕事を終え、帰りにスーパーへ寄った。
夕食の材料を買い、家へ戻って料理を始める。
途中で、作っている量がいつもより多いことに気づいた。
二人分だった。
晴は鍋の中を見た。
少しだけ考えたが、結局そのまま続けた。
帰ってくるのだから、別にいい。
そういうことにした。
玄関の鍵が回ったのは、九時を少し過ぎた頃だった。
晴はリビングにいた。
扉が開き、キャリーケースの車輪が床を転がる音がする。
その瞬間、考えるより先に立ち上がっていた。
玄関へ向かう。
そこに惟人がいた。
十日ぶりだった。
現役だった頃なら、十日程度の遠征など珍しくもない。
それなのに顔を見た瞬間、ここ数日ずっと胸の奥に残っていた小さな違和感が、すっと消えた。
部屋の中に欠けていたものが戻ってきたような気がした。
「おかえり」
晴は自然に言った。
惟人が少し目を細める。
「ただいま」
その声を聞いて、晴はようやく、自分が本当に帰りを待っていたのだと分かった。
抱きつきたいわけではない。
触れたいと思ったわけでもない。
胸が大きく高鳴るような感覚とも違う。
ただ、帰ってきてよかったと思った。
「ごはんあるよ」
晴が言うと、惟人が少し驚いた顔をした。
「作ったの?」
「うん」
「俺の分も?」
晴は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……帰ってくるって知ってたから」
惟人は何も言わなかった。
ただ、少し笑った。
その笑い方を見た瞬間、なぜか晴は少しだけ目を逸らしたくなった。
理由は分からない。
まだ、分からなくてもいいような気がした。
ただ一つだけ、もう誤魔化せないことがある。
惟人がいなくても、自分はちゃんと暮らせる。
食べられるし、眠れるし、働ける。
それでも、惟人が帰ってくる日を待っていた。
そして実際に帰ってきた顔を見たら、思っていたよりずっと嬉しかった。




