第三十二章 違う
惟人が海外合宿から帰ってきて数日もすると、二人の生活は何事もなかったように元へ戻った。
朝になれば、どちらかが先に起きる。晴が物流の仕事へ出る日は、惟人がまだ寝室にいることもあれば、逆に惟人が早朝練習へ向かう日は、晴がソファベッドの中で玄関の開閉する音を聞いていることもある。
夜も同じだった。
先に帰った方が冷蔵庫を開け、あるもので適当に食べることもあれば、時間が合えば二人で夕食を取る。リンクではそれぞれ別の仕事をしていても、ふと顔を上げればどこかに相手がいる。
十日間空いていた場所へ惟人が戻ったからといって、特別な出来事が起きたわけではなかった。
ただ、晴は以前より少しだけ惟人の存在を意識するようになっていた。
帰ってくればいる。
何か言えば返事が返ってくる。
リンクで子どもを見ていて、ふと顔を上げれば惟人が練習している。
そういうものが当たり前になっていたことを、一度離れたことで改めて知ったのかもしれない。
晴自身は、それ以上深く考えなかった。
惟人は昔から特別だった。
誰より信頼していて、誰より大事で、いなくなれば困る。
それで十分だと思っていた。
一方で惟人は、秋が近づくにつれて、何度ももう言ってしまおうかと考えるようになっていた。
きっかけになるような大きな出来事があったわけではない。
むしろ、何も起きない毎日が積み重なった結果だった。
晴が朝、普通に起きてくる。
一緒に食事をする。
リンクへ行けば子どもを教えていて、空いた時間には自分でも滑る。
惟人の練習を見て、何か気になれば昔と同じように遠慮なく口を出す。
仕事が終われば同じ家へ帰ってくる。
そういう日が、何週間も続いた。
惟人にとっては、それこそずっと欲しかった時間だった。
晴が元気で、近くにいて、笑っている。それだけで十分だと思っていたはずなのに、実際に手に入ってしまうと、人間は欲が出るらしい。
もっと近くにいたいと思う。
何かあったとき、一番に話す相手でいたいと思う。
嬉しいことがあれば、自分を見てほしい。
晴が誰かに笑いかけるたび嫉妬するような幼い感情ではない。それでも、晴の人生の中で自分が特別な位置にいたいという気持ちは、もう誤魔化せなかった。
十九歳の頃から八年も抱えてきたものを、今さら何もなかったようにしまっておく方が難しかった。
それでも惟人は、かなり長い間我慢した。
再会したばかりの晴には絶対に言えなかった。
あの頃の晴は、恋愛どころではなかった。
まず食べなければならなかったし、眠らなければならなかった。働き方をどうにかして、身体を戻して、自分の生活そのものを立て直す必要があった。
そんな相手へ、自分が八年間好きだったからといって答えを求める気にはなれなかった。
けれど今は違う。
晴は自分で食べる。
疲れていれば休む。
仕事の量も、自分で考えるようになった。
滑るかどうかも、自分で決める。
誰かに管理されなければ生活できない状態ではない。
ようやく、自分の意思で日々を選べるところまで戻ってきた。
それならもう、「今は言うべきではない」という理由もないのではないか。
惟人はそう思うようになっていた。
その日は、二人とも夜の仕事がなかった。
夕食を食べて片づけまで終えると、晴はソファに座り、タブレットで子どもの練習動画を見始めた。惟人は少し離れたところで翌日の予定を確認していた。
部屋は静かだった。
けれど、晴が一人だった十日間の静けさとは違う。
誰かが同じ場所にいて、それぞれ別のことをしている静けさだった。
晴はその空気を心地よく感じていた。
惟人はしばらくスマートフォンを見ていたが、やがて画面を伏せた。
「晴」
呼ばれて、晴が顔を上げる。
「何?」
惟人の顔を見て、晴は少しだけ姿勢を直した。
いつもとは違う。
機嫌が悪いわけではない。
仕事の話をするときとも、競技の話をするときとも違う。
何か大事なことを言おうとしている顔だった。
惟人はそんな晴を見て、少しだけ笑った。
「そんな構えなくていい」
「だって、なんか真面目な顔してる」
「まあ、真面目ではある」
晴はタブレットを膝へ置き、待った。
惟人は一度だけ息を吐いた。
八年間抱えてきたものを口にするのに、もっと大げさな覚悟が必要なのかと思っていた。
実際には、言葉は驚くほど簡単だった。
「俺、お前が好きだよ」
晴の表情が止まった。
一瞬、何を言われたのか分からないように惟人を見る。
それから少しずつ意味を理解したらしく、目がわずかに大きくなった。
「……え」
惟人はそれ以上説明しなかった。
どういう意味の「好き」なのかは、晴にも分かったはずだった。
しばらく沈黙が続いた。
晴は冗談だと思っている様子ではなかった。
ただ、本当に考えていた。
やがて小さく聞く。
「いつから?」
「かなり前」
「かなりって?」
「十九くらい」
晴の眉が上がった。
「そんな前?」
「うん」
「全然分からなかった」
「だろうな」
惟人は少し笑った。
晴はまだ驚いたまま、頭の中で過去を並べ直しているようだった。
十代の頃の遠征。
試合。
ホテル。
同じ部屋で過ごした夜。
移動中に肩へ寄りかかったこと。
何も考えずに惟人のすぐ隣へ座っていたこと。
自分にとっては昔から当たり前だった距離を、惟人はずっと別の感情を抱えながら受け入れていたのかもしれない。
そう思うと、晴は少し申し訳ない気がした。
「ごめん」
反射的に口から出た。
惟人の眉がすぐに寄った。
「何で謝るんだよ」
「だって、僕全然気づいてなかったし」
「気づかなかったことに謝られても困る」
「……そっか」
晴はまた黙った。
惟人も急かさなかった。
今すぐ答えが欲しくて言ったわけではない。
自分が晴を好きだという事実を、もう隠さなくてもいいと思っただけだった。
だから、晴が少し考えてから顔を上げたときも、何を言われるのか静かに待っていた。
「……惟人なら、いいよ」
晴は少し照れたように笑った。
惟人には、一瞬意味が分からなかった。
「何が」
晴が戸惑う。
「え?」
「俺ならいいって、何だ」
「だから……付き合うとか、そういうことでしょう?」
「そうだけど」
「惟人ならいいって言ってる」
晴には、本当に何が悪いのか分かっていなかった。
そのことが分かった瞬間、惟人の中にあった柔らかい気持ちが、一気に別のものへ変わった。
「そんな理由で俺と付き合うな」
晴の目が大きくなる。
「何で怒ってるの」
「怒るだろ」
「だって、嫌だって言ってない」
「そこじゃねえよ」
惟人は立ち上がった。
怒鳴りたいわけではない。
けれど、座ったまま穏やかに話せるほど冷静でもなかった。
晴もつられるように惟人を見上げる。
「俺ならいいって何だよ。俺が好きだって言ったから、じゃあ惟人なら付き合ってもいいってこと?」
「……違う」
「何が違う」
晴は言葉に詰まった。
惟人は止まれなかった。
「お前、またそれやってるだろ」
「何を?」
「自分がどうしたいか考えないで、相手が望むならそれでいいってやつ」
晴の表情が変わった。
今度は、はっきり傷ついたのが分かった。
「惟人にはしてないよ」
「してるだろ」
「してない。惟人だからいいって言ってる」
「だから、それが嫌なんだよ」
惟人の声が強くなる。
晴にとって、その言葉が軽くないことくらい分かっていた。
誰にでも同じ返事をするわけではない。
晴が惟人を特別に信頼していることも、誰より近くに置いていることも知っている。
それでも、それでは足りなかった。
「俺が好きだから俺と付き合いたいって言えないなら、要らない」
晴が黙った。
惟人は一度深く息を吸った。
「俺は、お前なら誰でもいいなんて思ってない。晴がいいから言ってる」
晴は惟人を見たまま動かない。
「なのにお前は、俺が望んでるなら受け入れてやるって言ってるだけじゃん」
「そんなつもりじゃない」
「じゃあ、お前は俺が欲しいの?」
晴は答えられなかった。
その沈黙を見て、惟人は少しだけ目を伏せた。
「ほら」
「……分かんない」
晴が小さく言った。
その答え自体を責めたいわけではなかった。
分からないなら、それでいい。
晴が自分を恋愛の意味で好きではないなら、それも受け入れるしかない。
ただ、分からないまま「惟人ならいい」と差し出されることだけは、どうしても嫌だった。
「だったら付き合うって言うな」
晴が少し身を乗り出す。
「惟人」
「俺にまでそれやるなよ」
「それって何」
「自分が欲しいかどうかも分かんないのに、相手が欲しがってるから渡すの」
晴が息を詰めた。
惟人は、自分でも言いながら思い出していた。
再会したばかりの頃にも、似たことを言った。
何でもかんでも、自分が欲しいものから先に捨てるな。
食事も、休むことも、滑ることも、自分のために選べ。
あのとき晴は、生活の話だと思っていただろう。
でも今は、その問題が自分自身へ返ってきている。
「晴、お前、自分が欲しいかどうか一回も言ってないだろ」
晴はしばらく黙ったあと、少し苦しそうに言った。
「でも、僕、惟人と一緒にいるの好きだよ」
「知ってる」
「惟人がいないと寂しいし、帰ってきてほしいって思った」
「それも分かってる」
「じゃあ何が違うの」
惟人は少しだけ声を落とした。
「それが恋なのかって聞いてる」
晴は答えられなかった。
惟人と一緒にいるのは好きだった。
いないと寂しい。
帰ってくる日を数えていた。
誰より信頼しているし、誰より大切だと思う。
でも、それが恋だと言われると、途端に分からなくなる。
今まで惟人をそういう相手として見たことがなかった。
触れたいのか。
恋人として近づきたいのか。
キスをしたいと思うのか。
そう考えようとした瞬間、晴は困ってしまった。
惟人はその顔を見て、少しだけ苦しくなった。
晴を追い詰めたかったわけではない。
自分を好きになれと強制したいわけでもない。
「分かんないなら、分かんないままでいい」
惟人は言った。
「今すぐ俺を好きになれって言ってるわけじゃない」
晴が顔を上げる。
「でも俺は、お前が自分で欲しいって思ったものじゃないなら要らない」
その言葉だけは、はっきり言った。
「俺は晴が好きだから、晴と付き合いたい。でもお前は、俺が好きだから俺と付き合いたいって思えないなら、今は付き合わなくていい」
晴は何も言えなかった。
自分の中では「惟人ならいい」は、最大限に特別な答えだった。
誰でもいいわけではない。
惟人だから信頼できる。
惟人だから近くに置ける。
惟人なら恋人になっても嫌ではない。
そこまで許せる相手など、ほかにはいない。
それなのに、惟人には要らないと言われた。
そのことが、思っていた以上に痛かった。
「……ごめん」
また口から出た。
惟人は少し疲れたように笑った。
「だから謝んなって」
「でも」
「俺が勝手に好きだっただけだ」
言い方はきつかったのに、その言葉だけは妙に優しかった。
晴はそれ以上何も言えなくなった。
その夜、二人はいつも通りそれぞれの場所で寝た。
惟人は寝室へ入り、晴はリビングのソファベッドへ横になる。
距離にすれば、いつもと何も変わらない。
ドア一枚を隔てているだけだった。
それなのに晴には、惟人がいつもよりずっと遠くにいるように感じられた。
眠れないほどではなかった。
それでも何度か寝返りを打ったあと、晴は暗い天井を見た。
自分は「惟人ならいい」と答えた。
晴にとっては、本当に特別な言葉だった。
それでは駄目だと言われた。
何が違うのかは、まだ分からない。
ただ、惟人に拒まれたことだけが、思っていたよりずっと痛かった。




