第三十三章 すれ違い
翌朝、目が覚めたとき、晴はしばらく昨夜のことを思い出さなかった。
いつもの天井が見えて、カーテンの隙間から朝の光が入っている。身体を起こしながら今日の仕事の時間を考え、そこでようやく、昨夜惟人から告白されたことを思い出した。
同時に、自分が何と答えたのかも思い出す。
――惟人なら、いいよ。
晴にとっては、今でもそれほどおかしな答えには思えなかった。
誰でもよかったわけではない。
惟人だからいいと思った。
誰より長く知っていて、誰より信頼していて、自分の一番近くにいる。十日離れただけで帰ってきてほしいと思い、実際に帰ってきた顔を見たときには嬉しかった。
そんな相手に好きだと言われたのだから、付き合うことに嫌な理由などなかった。
それなのに、惟人は怒った。
自分が欲しいかどうか考えていないと言われ、「俺にまでそれをやるな」とまで言われた。
晴はソファベッドの上でしばらく考えてみたが、昨夜と同じところで止まった。
惟人の言っていることは、たぶん分かる。
でも、自分が何を間違えたのかは、まだよく分からなかった。
寝室の扉が開いた。
晴が顔を上げると、惟人が出てきた。
一瞬だけ目が合った。
「おはよう」
先に言ったのは惟人だった。
晴も少し遅れて返す。
「……おはよう」
それだけだった。
惟人はいつものようにキッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。
コーヒーを淹れ、朝食を用意する。
晴の分もあった。
「食う?」
聞かれて、晴は少しだけ驚いた。
「うん」
惟人はそれ以上何も言わず、晴の分もテーブルへ置いた。
二人で食べた。
昨日までとほとんど同じ朝だった。
ただ、会話だけが少なかった。
晴が物流の仕事へ行く時間になると、惟人はいつもと同じように言った。
「今日、夜は?」
「ないよ。リンク終わったら帰る」
「分かった」
晴は玄関で靴を履きながら、何となく次の言葉を待った。
普段なら、無理するなとか、ちゃんと昼を食えとか、何か一つくらい余計なことを言う。
何もなかった。
晴は振り返った。
惟人はキッチンで自分のカップを片づけている。
「行ってきます」
「ああ。いってらっしゃい」
ちゃんと返ってくる。
それなのに、玄関を出たあと、どことなく胸の奥が落ち着かなかった。
その日のリンクでも、惟人の態度は変わらなかった。
練習中は練習をする。
スタッフとは普通に話すし、晴に必要なことがあれば声もかける。
晴が子どもの指導を終えて、自分のトレーニングへ入ったときには、3Aを一本降りたところで近くを通りながら、
「今日はそれで終わりにしとけ」
とまで言った。
晴は思わず惟人を見る。
「分かってるよ」
「ならいい」
惟人はそのまま自分の練習へ戻った。
昨日までなら、たぶんもう一言あった。
着氷が少し詰まったとか、今日は軸がよかったとか、何かしら見たことを言ったはずだった。
晴はしばらくその背中を見てから、黙ってリンクを上がった。
無視されているわけではない。
怒鳴られているわけでもない。
仕事に支障が出るような態度を取られているわけでもない。
むしろ惟人は、いつも以上にきちんとしていた。
だからこそ、晴にはどうしていいのか分からなかった。
次の日も、ほとんど同じだった。
朝になれば挨拶をする。
予定を確認する。
食事の時間が合えば一緒に食べる。
リンクでは必要なことを話し、家へ帰れば風呂を使う順番や翌日の時間について話す。
日常を回すために必要な会話は、何一つ失われていなかった。
その代わり、それまで二人の間に無数にあった、なくても困らない言葉だけが消えていた。
惟人が練習動画を見ながら「これどう思う」と聞いてこない。
晴がリンクの子どもの話をしても、以前のようにそこから話を広げない。
冷蔵庫を開けたときに「それ俺の」と言って取り合いになることもなければ、ソファで並んだまま何となく動画を見ることもない。
会話が終われば、本当にそこで終わる。
晴はそのことを、思っていた以上に意識した。
十日間、惟人が海外へ行っていたときとは違った。
あのときは、いないだけだった。
連絡すれば返事が来たし、送られてきた動画へ好き勝手なことを言えば「うるせえ」と返ってきた。
今はすぐ近くにいる。
同じ家に帰って、数メートルしか離れていない場所で生活している。
それなのに、前より遠い。
さらにその翌日の夜、晴はそのことに耐えきれなくなって、自分から惟人へ話しかけた。
惟人はリビングで、フランスグランプリへ持っていくものを確認していた。
大会用の書類や衣装、練習着を一つずつ整理し、忘れ物がないようリストと照らし合わせている。
晴は少し離れたところからしばらく見ていたが、やがて聞いた。
「準備、終わりそう?」
「だいたい」
「衣装も?」
「ああ」
「靴は手荷物?」
「当たり前だろ」
いつも通りの答えだった。
晴は少しだけ笑おうとしたが、うまく続かなかった。
「……そっか」
そこで会話が終わる。
惟人はまた荷物へ視線を戻した。
晴はしばらくその場にいた。
何か話したかった。
昨日のことでも、今日のリンクのことでもよかった。
あるいは、あの夜の話でもよかったのかもしれない。
でも、何を言えばいいのか分からない。
「惟人ならいい」という言葉を撤回したいわけではなかった。
今でも、惟人だからこそ言ったのだと思っている。
けれど、それでは駄目だと惟人は言った。
なら、自分は何と言えばよかったのか。
その答えが出ないまま話を始めれば、また同じことになる気がした。
結局、晴は何も言わずに風呂へ行った。
4日もたつと、出発が翌日に迫っていた。
惟人はリンクでもほとんど通し練習をせず、ジャンプとプログラムの気になる部分を軽く確認するだけで終えた。身体を追い込む時期はもう過ぎていて、あとは現地へ入り、時差と氷に合わせながら状態を整えるだけだった。
晴はその練習を見ていた。
フリーの《シンデレラ》も、最初に振付を作っていた頃とは比べものにならないほど惟人のものになっている。
見えないシンデレラへ手を差し出すところも、もう不自然さはない。
夏に、晴自身が一度その相手役として入ったときに作った距離が、今も振付の中に残っていた。
惟人が手を伸ばし、ほんの少し待つ。
そこに誰かがいるように見える。
晴はリンクサイドからそれを見ながら、以前なら終わったあとすぐに何か言っていただろうと思った。
今日は何も言わなかった。
惟人も聞かなかった。
そのことが、妙に寂しかった。
夜、家へ戻ってから、晴はようやく聞いた。
「明日、何時に出るの?」
惟人は荷物の最終確認をしながら答えた。
「七時前。空港まで送ってもらう」
「そっか」
「お前、朝仕事だろ」
「うん」
「じゃあ普通に行けよ」
「分かってる」
晴は少し黙った。
惟人もそれ以上は何も言わない。
「……現地、十八日だよね」
「ああ」
「二十二日から?」
「そう」
そこまで確認して、晴は自分でも何をしているのだろうと思った。
日程は知っている。
グランプリシリーズの初戦がフランスなのも、競技がいつ始まるのかも、惟人のショートとフリーがいつになるのかも分かっている。
それなのに、口に出して確認したかった。
惟人が少しだけ晴を見る。
「見るの?」
「何を?」
「試合」
晴は一瞬だけ戸惑った。
「見るよ」
それは考えるまでもない答えだった。
惟人は少し目を細めたが、それ以上何も言わなかった。
「そう」
その一言だけで終わる。
晴はまた胸の奥に小さな痛みを感じた。
以前なら、たぶん「じゃあちゃんと見とけ」とでも言った。
フリーのここがどうとか、現地で変えるかもしれないところがあるとか、そんな話にもなっただろう。
今は違う。
晴はそれが嫌だった。
けれど、嫌だと思う自分が何を望んでいるのかは、まだ分からなかった。
十八日の朝、惟人が家を出る頃には、まだ外は完全に明るくなっていなかった。
晴も物流の仕事があるため、普段より少し早く起きていた。
キッチンで簡単な朝食を取り、惟人は最後にパスポートや財布を確認していた。
前回の海外合宿へ行く朝には、働きすぎるな、飯を食え、ちゃんと寝ろと、晴が嫌になるほど言われた。
今回は、惟人は何も言わなかった。
それが寂しくて、晴は自分でも少し驚いた。
言われれば面倒だと思っていたはずなのに、言われないと落ち着かない。
惟人がキャリーケースを持って玄関へ向かう。
晴もその後ろへついていった。
靴を履き終えた惟人が立ち上がる。
そこで、一瞬だけ二人の目が合った。
何か言わなければいけない気がした。
このまま送り出したら、しばらく会えない。
大会が終わるまで帰ってこない。
晴は口を開きかけた。
けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
好きなのかと聞かれて答えられなかった自分が、ここで何を言えるのだろうと思った。
結局、出てきたのはいつもの言葉だった。
「……いってらっしゃい」
惟人は少しだけ晴を見た。
「行ってくる」
それだけだった。
扉が閉まる。
キャリーケースの音が廊下を遠ざかっていく。
晴はすぐにはリビングへ戻らなかった。
玄関に立ったまま、音が完全に聞こえなくなるまでそこにいた。
十日間の海外合宿へ送り出したときとは、まったく違った。
あのときは、帰ってくる日を知っていればそれでよかった。
今は、惟人がいつ帰ってくるかよりも、その前に言えなかったことの方が気になった。
何を言いたかったのかは、自分でも分からない。
ただ、このまま行かせたくなかったような気がする。
晴はその感覚をうまく言葉にできないまま、玄関の扉を見た。
惟人がいなくなった家は、また静かになった。
けれど、前回とは違う。
今回は、ただいないのではなかった。
自分から少し離れたまま、行ってしまった。
その違いだけが、はっきりと分かった。




