第三十四章 遠征
惟人がフランスへ発った日の夜、晴はいつも通り家へ帰った。
玄関を開けて照明をつけ、荷物を置く。遅い時間だったので、帰る途中に買ってきたものを簡単に食べ、風呂へ入ってからソファへ座った。
前にも十日間、惟人が家を空けたことがある。
だから、一人になったこと自体は珍しくなかった。
違うのは、出ていく前の数日間だった。
惟人は最後まで普通に話していた。必要なことなら答えたし、晴の体調や練習についても、気づいたことがあれば言った。無視されたわけでも、露骨に避けられたわけでもない。
それでも、以前と同じではなかった。
惟人の方から晴へ向かっていたものが、少しだけなくなっていた。
用もないのに話しかけることも、晴の隣へ自然に座ることも、リンクで「今のどう」と聞いてくることもなかった。
晴はソファに座ったまま、何となくスマートフォンを手に取った。
連絡は来ていない。
当然だった。
まだ移動中かもしれないし、着いたとしても現地では予定がある。
晴は一度画面を消した。
それから数分もしないうちに、また手に取った。
自分でも何を確認したいのか分からなかった。
結局、その日は何も送らなかった。
翌日からも、生活そのものはほとんど変わらなかった。
物流の仕事がある日は朝から働き、午後はリンクへ行く。夜の仕事が入っている日はそのまま移動し、ない日は自宅へ帰る。
食事も取った。
以前のように、惟人がいないからといって適当に済ませることもない。疲れていれば早めに寝るし、翌日に響きそうなら練習量も自分で減らした。
自分一人でも、ちゃんと生活できている。
そのことはもう分かっていた。
ただ、リンクにいるときだけ、時々妙なことが起きた。
子どもの一人が、しばらく苦戦していたダブルアクセルを初めてきれいに降りた。
晴はすぐに褒めて、本人と一緒に動画を確認し、踏み切りで何が変わったのかを説明した。
そのあと、子どもが嬉しそうにリンクを出ていったところで、晴は無意識に顔を上げた。
視線が、いつも惟人が練習しているあたりへ向かう。
当然、そこには誰もいなかった。
晴はしばらくその場所を見てから、自分が何をしようとしたのかに気づいた。
惟人に言おうと思ったのだ。
あの子、やっとアクセル降りたよ。
ただ、それだけのことを。
急いで知らせる必要などない。
帰国してから話したっていい。
そもそも惟人が直接教えている子でもない。
それなのに、できた瞬間、真っ先に惟人へ話そうとしていた。
晴は少し不思議に思った。
別の日には、自分の3Aが妙に軽く跳べた。
本数は増やさず、一度きれいに降りたところで終わる。
以前ならそこで満足していたはずなのに、着氷から流れたあと、晴はまた反射的にリンクサイドを見た。
惟人がいない。
ああ、そうだったと思う。
その瞬間、少しだけ物足りなかった。
誰かに褒めてほしいわけではない。
3Aを一度降りた程度で、惟人が大げさに褒めることなどないのも分かっている。
せいぜい動画を見せれば、「今日は軸よかったな」とか、「でも入り少し遅い」とか、その程度のことを言うだろう。
それなのに、その一言を聞きたかった。
晴は自分でも分からなくなった。
どうして、自分は何かあるたび惟人を探しているのだろう。
以前からそうだったのかもしれない。
ただ、その頃は惟人がいつもいたから、わざわざ考える必要がなかった。
何かあれば話す。
滑れば見てもらう。
惟人が滑れば自分も見る。
それが何年も続いていた。
幼なじみだから。
親友だから。
ライバルだったから。
そう説明すれば、全部それなりに納得できた。
でも今は、もう同じ大会へ出るライバルではない。
晴は競技へ戻るつもりもない。
それでも、自分の滑りを惟人に見てほしいと思う。
子どものことまで話したいと思う。
家へ帰れば、そこにいてほしいと思う。
理由を考えようとすると、いつも同じところへ戻ってきた。
惟人だから。
晴はそこで、少し嫌な気持ちになった。
それは、あの夜に自分が言った言葉だった。
――惟人なら、いいよ。
自分では、とても特別な意味で言った。
誰でもいいわけではない。
惟人だからこそ、恋人になってもいいと思った。
それなのに惟人は、それでは嫌だと言った。
晴にはまだ、その違いが完全には分からなかった。
ただ、惟人が聞いた言葉だけは何度も思い出した。
――じゃあ、お前は俺が欲しいの?
あのときは答えられなかった。
今も、すぐに答えられる自信はなかった。
フランスグランプリが始まる頃になると、晴はいつの間にか大会の日程をかなり正確に把握していた。
惟人から聞いたわけではない。
自分で調べた。
公式練習がいつあるのか、ショートが何時からなのか、フリーが日本時間では何時になるのかまで確認していた。
そこまで調べたあとで、晴は少しだけ可笑しくなった。
結果だけなら、朝になってから見ればいい。
惟人が上位に入ればニュースにもなるし、演技動画だってあとから見られる。
それでも、晴はショートをリアルタイムで見た。
翌日に仕事があることを考えれば、あとで見た方が楽だった。
それなのに開始時間が近づくと何となく落ち着かなくなり、結局タブレットを開いた。
六分間練習から見ていた。
画面の中に惟人が映る。
それだけで、晴の意識が自然とそこへ向いた。
他の選手も滑っているのに、視線はほとんど惟人を追っていた。
ジャンプを一本確認する。
降りる。
晴は少し安心する。
次のジャンプも問題ない。
スピンを軽く確認し、惟人がリンクを出ていく。
晴はそこでようやく、自分の肩に少し力が入っていたことに気づいた。
「何で緊張してるんだろ」
小さく呟いた。
自分が滑るわけではない。
むしろ現役時代には、惟人の試合を見ていても、ここまで落ち着かなくなることはなかった気がする。
競い合っていた頃は、相手がいい演技をすれば自分もやらなければと思った。
今は違う。
ただ、惟人がうまく滑ればいいと思っている。
ショートが始まった。
惟人は大きく崩れなかった。
ジャンプを降りるたび、晴は自分でも気づかないうちに息を吐いた。
ステップへ入る頃になると、ようやく少し余裕を持って見られるようになった。
滑り終えた惟人が、最後のポーズから身体を起こす。
大きな歓声が聞こえる。
晴は画面越しにその顔を見た。
悪くない。
惟人自身もそう思っているらしく、リンクを上がるときの表情が少し緩んでいた。
そしてキス・アンド・クライで得点が出たとき、惟人が小さく笑った。
それを見た瞬間、晴の胸から力が抜けた。
よかった。
自然にそう思った。
すぐに、晴は少し戸惑った。
何が、よかったのだろう。
順位がいいから。
点数が出たから。
それもある。
でも、たぶん一番安心したのは、惟人が笑ったからだった。
晴はタブレットを見たまま、しばらく動かなかった。
何で。
その疑問が、初めてはっきりと浮かんだ。
何で、自分はこんな時間まで起きているのだろう。
何で、あとから結果を見ればいい大会を、六分間練習からリアルタイムで見ているのだろう。
何で、惟人がジャンプを降りるたび安心して、惟人が笑っただけで自分までほっとするのだろう。
何で、リンクで何かあるたびに惟人へ話したくなるのだろう。
何で、自分がうまく滑れたとき、一番に惟人に見てほしいのだろう。
考えれば考えるほど、これまで「惟人だから」で済ませていたものが一つずつ浮かんできた。
帰ってくる日を数えていた。
二人分の夕食を作って待っていた。
十日ぶりに顔を見たとき、胸の奥にあった違和感が消えた。
好きだと言われたとき、嫌ではなかった。
むしろ驚いたあと、少し嬉しかった。
だから「惟人ならいい」と答えた。
惟人なら受け入れられるからだと思っていた。
でも、本当にそれだけだったのだろうか。
惟人が怒ったあと、あんなに痛かったのはなぜだろう。
付き合わないと言われたわけではない。
好きではないと言われたわけでもない。
それなのに、自分から距離を取られただけで、あんなに落ち着かなかった。
晴はソファの背へ身体を預けた。
そこまで考えたところで、ふと以前の惟人の言葉が浮かんだ。
――俺は晴が好きだから、晴と付き合いたい。
晴はその言葉を、今度は自分の側へ置いてみた。
自分はどうなのだろう。
惟人だから、付き合ってもいい。
それではなく。
惟人と付き合いたいのか。
惟人に帰ってきてほしい。
惟人に見てほしい。
惟人と話したい。
惟人が笑っていると安心する。
惟人から離れられると嫌だ。
好きだと言われたことを、何度も思い出している。
そこまで並べて、晴はようやく一つの可能性に行き着いた。
それはあまりにも単純で、今までどうして考えなかったのか不思議なくらいだった。
「あ」
小さな声が出た。
晴はしばらく瞬きもしなかった。
恋なんだ。
言葉にしてみると、驚くほどすんなり収まった。
今まで惟人へ向けていた感情が別のものに変わったわけではない。
幼なじみで、大切な友人で、長く競い合ってきた相手で、自分にとって誰より特別な人であることは何も変わらない。
その全部の中に、最初から恋が混ざっていたのか、それともいつからか変わったのかは分からなかった。
でも、今、自分が惟人へ向けているものには、その名前が一番近かった。
晴は少しだけ顔を覆った。
今さらだった。
惟人は十九歳の頃から八年間も、自分を好きだったと言った。
それに対して自分は、「惟人ならいい」と答えた。
晴はしばらくその言葉を思い出し、それから小さく息を吐いた。
違った。
惟人ならいい、ではない。
自分が欲しいのは、誰かと付き合うことではなかった。
惟人が好きだと言ってくれたから、その希望を受け入れてもいいということでもない。
ほかの誰かではなく、惟人に帰ってきてほしい。
惟人に見てほしい。
惟人と一緒にいたい。
だったら答えは、もっと単純だった。
惟人ならいい、ではなく。
惟人がいい。
晴はしばらくタブレットの画面を見つめていた。
試合配信はもう次の選手へ移っている。
それでも晴の頭の中には、さっきキス・アンド・クライで笑っていた惟人の顔が残っていた。
好きだと伝えなければいけない。
そう思った。
けれど、その次に浮かんだのは、あの夜の惟人の顔だった。
――お前が自分で欲しいって思ったものじゃないなら要らない。
晴は少しだけ眉を寄せた。
今なら、自分は欲しいと言える。
けれど、一度「惟人ならいい」と答えたあとで、突然「やっぱり好きだった」と言って、惟人は信じるだろうか。
晴はしばらく考えた。
そして、まだこのときは、その疑いに対する答えが、翌日から自分が始めることへつながるとは思っていなかった。




