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春待氷  作者: りん
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第三十五章 四回転


翌日、(はる)は四回転の練習を始めた。


前の夜に、自分が惟人(いと)を好きなのだと気づいた。


それなら普通は、どう伝えるかを考えるものなのかもしれない。


けれど晴は、朝起きてからずっと別のことを考えていた。


惟人に好きだと言いたい。


今度は、「惟人ならいい」ではなく、自分が惟人を好きだから一緒にいたいのだと伝えたい。


そこまでは分かっていた。


問題は、その言葉を自分自身がどこまで信じられるかだった。


惟人に好きだと言われたから、意識するようになっただけではないのか。惟人が自分から距離を取ったことで、失いたくないという気持ちを恋だと思い込んでいるだけではないのか。


そんな疑いが、残っていた。


晴は一度、自分が欲しいものを選ぶことに失敗している。


少なくとも惟人には、そう見えたから、怒らせた。


自分がどうしたいのかを考えず、相手が望むならそれでいいとする。それを惟人にまでやるなと言われた。


なら今度は、自分でもはっきり分かる形で何かを選べばいい。


誰にも求められていないものを、自分から選ぶ。


必要だからではなく、役に立つからでもなく、誰かに期待されたからでもなく、ただ自分がやりたいからやる。


そこで晴の頭に浮かんだのが、四回転だった。


競技へ戻るつもりはない。


教えるためにも必要ない。


今の生活に四回転がなくても、何も困らない。


むしろ身体への負担を考えれば、やらない方が合理的なくらいだった。


だからこそ、晴にはちょうどよかった。


自分がもう一度四回転を跳びたいと思ったなら、それは誰かのためではない。


自分が欲しいからだ。


そして最後に、もう一度4Lzを跳ぶ。


そこまで自分で選んで、自分の身体で取り戻せたら、そのとき惟人にも好きだと言おう。


そう決めた。


客観的に見れば、四回転と告白には何の関係もない。


晴自身は、かなり真面目だった。


その日のリンクでは、勤務を終えてから自分の靴を履いた。


いつものように身体を温め、三回転まで確認してから、久しぶりに四回転を跳ぶための助走へ入った。


最初から四回転ルッツへ行くつもりはなかった。


今の身体でいきなり一番得意だったジャンプへ戻ろうとするほど、晴も無謀ではない。


まずは四回転トウループからだった。


三回転と四回転では、必要な高さも回転速度も違う。


頭では覚えている。


身体にも記憶は残っている。


それでも、実際に跳ぼうとすると簡単にはいかなかった。


最初の一本は、踏み切った瞬間に高さが足りないと分かった。


回転を途中でほどき、三回転で降りる。


晴はそのまま流れてから、一度リンクサイドへ戻った。


怖いわけではない。


むしろ感覚は知っている。


ただ、昔と同じつもりで跳ぶと身体がついてこない。


三回転までなら技術で補える部分も、四回転になると誤魔化しが利かなかった。


晴は少し考えてから、もう一度助走へ入った。


二本目は回転をかけた。


しかし着氷まで持たず、途中で身体が開く。


三本目はさらに高さを意識したが、今度は踏み切りが強すぎて軸が外れた。


晴は一度リンクを上がった。


そこで終わるつもりではない。


ただし、闇雲に本数を増やすつもりもなかった。


動画を見て、どこで回転が遅れているのかを確認する。以前なら勢いだけでもう一本行っていたかもしれないが、今は違う。


やると決めたからこそ、壊さずに戻す必要がある。


その日、晴は4Tを一本も成功させなかった。


それでも、不思議と苛立ちはなかった。


できないこと自体が少し面白かった。


昔は、四回転を跳ぶことが仕事だった。


跳べなければ困る。


構成に入らなければ勝てない。


だから失敗は、そのまま焦りにつながった。


今は違う。


誰にも急かされていない。


何日かかってもいい。


自分でやると決めただけなのだから、自分の身体が追いつくまで待てばいい。


その感覚が、晴には新鮮だった。


翌日も、その次の日も、晴は4Tを練習した。


もちろん毎日無制限に跳ぶわけではない。


身体の状態を見ながら本数を決め、跳ばない日も作る。陸上で回転の感覚を確認し、脚力を戻すトレーニングも増やした。


それでも、三回転までしか跳んでいなかった頃と比べれば、練習の内容は明らかに変わった。


リンクのスタッフにも気づかれた。


「晴先生、四回転戻すんですか?」


聞かれて、晴は普通に頷いた。


「うん」


「試合出るんですか?」


「出ないよ」


「じゃあ何で?」


晴は少し考えてから答えた。


「跳びたいから」


それ以上でも、それ以下でもなかった。


その日、惟人はフランスグランプリで優勝した。


プロコフィエフのシンデレラは今までの惟人のイメージと違ったこともあり、大いに驚きをもって受け入れられた。だが、想いを自覚してしまった晴にはひどく心臓に悪いプログラムになった。


翌日、4Tを初めて一本降りた。


着氷は完全ではなかった。


軸も少し傾いたし、降りたあとに流れもほとんど残らなかった。


それでも四回転だった。


晴は少しだけ笑った。


誰かに見せたいと思った。


その瞬間、真っ先に浮かんだ顔が惟人だった。


そこで晴は、困った。


今すぐ送ってもいい。


動画を撮っている。


けれど、それではまだ早い気がした。


4Tは途中にすぎない。


最終的に戻したいのは4Lzだった。


だから晴は、動画を送らなかった。


代わりに、別の二人へ連絡した。


梁俊熙とレオ・ウォーカーだった。


二人とは再会してから、以前ほど頻繁ではないにせよ連絡を取るようになっていた。


晴は夜、自宅のソファに座りながら三人の通話をつないだ。


最初に出たのは梁だった。


「どうした?」


「別に何もないよ」


「お前が何もなくてこうやって電話してくるわけないだろ」


少し遅れてレオも入ってきた。


「What happened?(何があった?)」


何があったかを言葉にするのは、思ったより恥ずかしかった。


それでも二人ならいいと思った。


「僕、惟人のこと好きだった」


数秒、完全に沈黙した。


それから梁とレオがほぼ同時に声を上げた。


「「Finally!(やっとか!)」」


晴が眉を寄せる。


「何その反応」


梁は笑いを堪える気すらなさそうだった。


「何って何だよ。やっとだよ、晴」


レオも笑っている。


「I thought you'd figure it out when you were thirty.(三十になる頃には気づくかと思ってた)」


「そんなに?」


「「Yes.(そんなに)」」


二人とも即答した。


晴は少し納得がいかない顔をした。


「僕、そんな分かりやすかった?」


「No. Ito was.(お前じゃない。惟人がな)」


それを言われると、晴は黙った。


十九歳から好きだったと本人に言われている。


確かに、二人には何か見えていたのかもしれない。


梁が聞いた。


「それで? 惟人には言ったのか?」


「まだ」


「なぜ?」


晴は少し間を置いた。


「四回転跳べたら言おうと思ってる」


また沈黙した。


今度の沈黙は、さっきより長かった。


レオが先に口を開いた。


「What?(何?)」


梁も続く。


「それと何の関係があるんだ?」


「あるよ」


二人の表情が明らかに「ない」と言っていた。


晴は真面目に説明した。


「一回、惟人に好きって言われたとき、惟人なら付き合ってもいいって答えたんだよ」


「Oh no.(うわ)」


レオが顔を覆った。


梁は額に手を当てている。


晴は少しむっとした。


「僕はちゃんと特別な意味で言ったの」


「I know. Ito probably didn't.(それは分かる。でも惟人にはそう聞こえなかっただろうな)」


「うん。怒られた」


「それは想像できる」


晴はそこで、あの夜のことを簡単に話した。


自分が欲しいのかと聞かれたこと。


分からないと答えたこと。


惟人が、自分で欲しいと思ったものじゃないなら要らないと言ったこと。


そこまで聞くと、二人とも笑うのをやめた。


晴は続けた。


「だから今度は、自分で決めたって分かるものが欲しいんだよ」


梁が少し首を傾げた。


「それが四回転なのか?」


「うん」


レオはまた笑い始めた。


「Haru, that's not how dating works.(晴、恋愛ってそういうものじゃないから)」


「知ってるよ」


「You clearly don't.(絶対分かってないだろ)」


「でも僕には必要なの」


晴がそう言うと、二人はやれやれという顔で黙った。


晴は言葉を探しながら続けた。


「試合には出ないし、誰も四回転戻せって言ってない。教えるのにも必要ないし、たぶん惟人は止めると思う」


「最後のは間違いないな」


梁が笑う。


晴も笑った。


「だからいいんだよ。誰にも言われてないのに、僕がやりたいからやるっていうのが」


二人の表情が少し変わった。


「それで、最後にルッツ跳べたら、惟人に言う」


梁はしばらく晴を見てから、深く息を吐いた。


「本当に意味分かんないな、お前」


「ひどい」


「でも、言いたいことは分かる」


レオも頷いた。


「It's very you.(すごく晴らしい)」


「褒めてる?」


「Mostly.(だいたいは)」


褒められてるのかなと眉間にしわを寄せる晴に梁が最後に言った。


「恋してる証明のために身体壊すなよ」


「壊さないよ」


「昔もそう言ってた」


「みんなそれ言うね」


「Because you were insane.(お前が無茶苦茶だったからだ)」


また二人が笑った。


通話を切ったあと、晴は少しだけ気持ちが軽くなっていた。


自分でも変なことをしているとは分かっている。

それでも晴の中では、もう順番が決まっていた。


最後は、4Lz。

それを跳べたら、惟人へ言う。


惟人が欲しい。

惟人と一緒にいたい。


それを誰かに言われたからではなく、自分で選んだのだと思いたかった。


そのために、自分がもう一つ欲しいものを選ぶ。


四回転。

最後は、4Lz。


晴の中では、それで筋が通っていた。


電話の翌日、フランスグランプリを終えた惟人が帰国した。


空港からそのまま家へ戻ると思っていたが、惟人は一度荷物を置いただけでリンクへ顔を出した。


大会後の身体を軽く動かしたかったらしい。


リンクへ入ってきた惟人は、最初はスタッフと話しながら晴の姿を探した。


見つけたのは、リンクの奥だった。


晴は助走へ入っていた。


惟人は一瞬、何をしているのか分からなかった。


いつもの3Aとは軌道が違う。


踏み切る。


回転する。


着氷で身体が大きく崩れ、晴が手をついた。


惟人の足が止まった。


少しして、晴は立ち上がる。


そのままリンクサイドへ戻り、動画を確認する。


そして、もう一度助走へ入ろうとした。


「晴」


声が飛んだ。


晴が振り返る。


惟人がいた。


一瞬、晴の表情が変わった。


帰ってきた。


そう思った。


本当なら、もっと別のことを言いたかった。


試合を見たことも、フリーがよかったことも、優勝おめでとうという言葉も、本当なら伝えたかった。


それより何より、好きだと気づいたことを伝えたかった。


でも、まだ4Lzを跳んでいない。


晴の中で作ったルールは、妙なところで頑固だった。


だから出てきたのは、別の言葉だった。


「おかえり」


惟人は返事をするより先に、リンクへ近づいてきた。


「お前、今何してた?」


「四回転」


「見れば分かる」


惟人の声が低くなる。


「何でやってんだよ」


「ルッツ跳ぶから」


惟人の顔が止まった。


「……は?」


晴は何でもないことのように答えた。


「最終的には4Lz戻す」


「何のために?」


「僕が跳びたいから」


惟人はしばらく何も言わなかった。


晴が試合へ戻る気になったのかと思った。


でも、それならまず相談するはずだ。


少なくとも身体の状態を考えれば、いきなり一人で四回転の練習を始めるような話ではない。


「試合出る気になったの?」


「ならないよ」


「誰かに言われた?」


「誰にも」


「じゃあ何で」


晴はゆっくりと首を振った。


「僕がやるって決めたから」


その答えは、惟人がずっと晴に求めてきたものだった。


誰かのためではなく、自分が欲しいものを選ぶ。


本来なら、喜ぶべき言葉だった。


ただし、その対象が四回転でなければ。


「そういう意味じゃねえんだよ」


惟人が額を押さえた。


晴は不思議そうに見る。


「何が?」


「お前、身体どこまで戻ってると思ってるんだよ」


「分かってるよ」


「分かってるやつが大会も出ないのに四回転戻そうとするか?」


「するよ。跳びたいから」


「だから何で跳びたいんだって聞いてんの」


晴は答えなかった。


本当の理由を言えば、全部話すことになる。


それはまだできない。


4Lzを跳んでから言うと決めた。


惟人は晴の沈黙を見て、さらに苛立った。


「晴」


「何」


「理由言え」


「嫌」


「何で」


「まだ言わない」


「いい加減にしろよ」


惟人の声が強くなる。


周囲にいたスタッフがちらっとこちらを見る。


晴も眉を寄せた。


「ちゃんと本数決めてやってるよ」


「そこだけの話してねえだろ」


「じゃあ何」


「急に四回転始めて、何聞いても答えねえから言ってんだよ」


晴は黙った。


惟人はその顔を見て、なんだか嫌な予感がした。


晴がこういう顔をするときは、何を言っても簡単には動かない。


昔からそうだった。


「やめろって言ったら?」


「やめない」


即答だった。


「医者には?」


「今度相談する」


「先にしろよ!」


「でももう始めたし」


「それが駄目だって言ってんだよ!」


惟人はとうとう声を荒げたが、晴は引かなかった。


「無茶はしないよ」


「お前の無茶しないは信用ねえんだよ」


「今は違う」


「だったら説明しろ」


晴はまた黙った。


好きだから。


好きだとちゃんと言いたいから。


その前に、自分で選んだものを一つ取り戻したいから。


全部言えば簡単だった。


でも晴は、まだ言えなかった。


「……言わない」


惟人の眉間に深く皺が寄った。


「ほんと頑固だな、お前」


「知ってるでしょう」


「知ってるよ。二十年以上」


晴は思わず笑いそうになった。


惟人は笑わなかった。


「俺、止めるからな」


「止めてもやるよ」


「そういうところが腹立つんだよ」


「でも惟人が、自分で欲しいもの選べって言った」


その一言で、惟人が完全に黙った。


晴は真面目な顔で続ける。


「だから選んだ」


惟人は数秒、何も言えなかった。


確かに言った。


自分が欲しいものを、自分で選べと。


晴が今やっているのは、その通りだった。


ただし、どうしてその答えが四回転になるのかだけが、本当に理解できない。


「……お前、ほんと意味分かんねえ」


「よく言われる」


「誰に」


「梁とレオ」


惟人の目が細くなった。


「何であいつら知ってんの」


晴は一瞬だけ止まった。


「……四回転のこと」


嘘ではない。


全部でもない。


惟人は明らかに怪しんでいた。


それでも晴はそれ以上言わなかった。


リンクの中央へ戻る。


もう一度助走を確認する。


惟人がリンクサイドから低い声で言った。


「今日はもうやめろ」


晴は少し考えた。


それから素直に戻ってきた。


「分かった」


惟人が逆に驚いた顔をする。


晴はブレードカバーをつけながら言った。


「今日の本数終わったから」


「……そういうところだけ成長してんの腹立つな」


晴は少し笑った。


惟人はまだ納得していない。


晴も、本当のことはまだ言えない。


それでも、数日前まであった距離は少しだけ薄れていた。


惟人が自分に怒っている。


止めようとしている。


理由を知ろうとしている。


それが少し嬉しいと思ってしまう自分に、晴はもう驚かなかった。


好きなのだから、仕方がない。


あとは4Lzを跳ぶだけだった。


晴の中では、それが告白より先に片づけなければならないこととして、妙にきちんと順番づけられていた。


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