第三十六章 帰国
フランスグランプリから帰国した翌日から、惟人は思っていた以上に忙しかった。
グランプリシリーズ初戦で優勝した以上、帰国してそのまま普段の生活へ戻れるわけではない。連盟への報告があり、スポンサーへの挨拶があり、記者会見や個別取材も入る。昨季の世界王者が今季も初戦から優勝したことで、競技内容だけでなく、今季の目標や次戦への展望、《シンデレラ》を選んだ理由まで、似たような質問に何度も答えることになった。
惟人自身、そういう仕事が嫌いなわけではなかった。
競技を続ける以上、取材やスポンサー対応も含めて自分の仕事だと思っている。聞かれたことにはきちんと答えるし、自分の発言がどのように扱われるかも分かっている。
ただ、今回はどうにも落ち着かなかった。
原因は晴だった。
帰国したその日に、四回転を跳んでいるところを見た。しかも理由は言わない。
しかも一番厄介なのは、晴のやり方が以前ほど無茶ではないことだった。
本数を決めている。疲労が強ければ跳ばない。四回転だけを繰り返すのではなく陸上トレーニングも増やし、脚の状態が悪ければ予定そのものを変える。食事も以前より取っているし、睡眠を削って練習するようなこともしていない。
止めたい理由はいくらでもあるのに、「また身体を壊すぞ」と言って取り上げられるほど無謀ではない。
それが余計に腹立たしかった。
記者会見で今季のコンディションについて聞かれながら、惟人の頭の片隅には晴の四回転があった。
「今季は昨季より身体の状態もいいですし、フリーもここからさらに完成度を上げられると思っています」
そう答えながら、前日に着氷を崩して手をついた晴を思い出す。
次の記者から、スケートアメリカへ向けて構成を変更する予定はあるかと聞かれる。
「今のところ大きく変える予定はありません。フランスで見つかった細かい部分を調整して、現地へ入るまでにもう少し精度を上げたいと思っています」
口では普通に答えているのに、脳裏では晴の「ルッツ跳ぶから」という声が繰り返されていた。
そこまでなら、まだ単純な心配で済んだかもしれない。
問題は、その少し前のことだった。
惟人はフランスへ行く数日前、八年間隠してきた気持ちを晴へ伝えた。
好きだと言った。
その返事が、
「……惟人なら、いいよ」
だった。
晴にとってその言葉が軽いものではないことは、今なら分かっている。
誰にでも許すわけではない距離へ、惟人なら入れてもいい。そのくらい特別だという意味で言ったのだろう。
それでも惟人が欲しかった答えとは違った。
自分が好きだから選ぶのではなく、自分なら受け入れてもいい。
そう聞こえた。
だから腹が立った。
自分が何を欲しいのか考えろと言った。
相手が望んでいるから差し出すのではなく、自分が欲しいものを自分で選べとまで言った。
そしてフランスから帰ってきたら、その晴が突然、
「僕がやりたいから四回転やる」
と言い出した。
そこまではいい。
惟人が言ったことを、晴なりに受け取ったのだと思えばいい。
問題は、どうしてやりたいのかだけは自分に言わないことだった。
しかも梁とレオには、何かを話しているらしい。
記者会見を終えて別室へ移動する途中、同行していたスタッフから「今日、ちょっと機嫌悪いですか」と聞かれた。
惟人は即座に否定した。
「別に」
かなり機嫌は悪かった。
自覚はあった。
翌日、ようやく普段のリンクへ戻れた。
次戦のスケートアメリカまでは二週間ほどしかない。大会直後なので身体を一度落ち着かせる必要はあるが、完全に休むわけにもいかず、フランスで見つかった細かな修正点を確認しながら次のピークへ向けて調整していくことになる。
リンクへ入った惟人は、自分でも呆れるほど最初に晴を探した。
晴はいた。
午後の教室で子どもを見ている。
その日は朝の物流にも入っていたらしい。すでに一仕事終えてからリンクへ来ているはずなのに、ぼんやりした様子はなく、子どもの足元を見ながら何かを説明している。
少なくとも無理をして疲労を隠しているようには見えない。
それを確認して少し安心した自分に、惟人はまた腹が立った。
さらに、その日の夜には黒服の仕事まで入っていると聞いた。
教室の区切りで晴がリンクサイドへ戻ってきたところを捕まえる。
「まだ夜の仕事行ってんの?」
晴は水を飲みながら頷いた。
「今日はね」
「四回転始めたくせに?」
「毎日じゃないよ」
「そういう話じゃねえだろ」
晴は少し不思議そうな顔をした。
「仕事、減らしてるよ」
「黒服行ってる時点で説得力ねえんだよ」
「物流も夜も前よりかなり少ないって」
「その空いた時間に四回転入れてるだろ」
晴が少し黙った。
図星だったらしい。
惟人は額を押さえた。
「それを減らしたって言わねえんだよ」
「でもちゃんと寝てるし、食べてるよ」
「そこだけの話してない」
「じゃあ何が問題なの」
晴に真っ直ぐ聞き返されて、惟人は一瞬言葉に詰まった。
身体への負担が心配なのは本当だった。
でも、それだけではない。
自分の知らないところで晴が何かを決め、その理由について自分には何も話さないことにも腹が立っている。
それも、つい数日前に自分は晴へ好きだと言ったばかりなのだ。
俺には「惟人ならいい」で、梁とレオには話せることがあるのか。
頭の中に浮かんでから、我ながら相当大人げないと思った。
思ったが、腹が立つものは仕方がなかった。
「お前、梁とレオには何話したの」
晴の動きがほんの一瞬止まった。
惟人は見逃さなかった。
「何、その顔」
「別に」
「絶対何かあるだろ」
「四回転の話」
「それだけ?」
晴は少し間を置いた。
「だいたい」
「だいたいって何だよ」
「僕と二人の話だから」
「俺には言えなくて、あいつらには言えるの?」
晴が困ったような顔をした。
「そういう言い方しないでよ」
「どういう言い方だよ」
「なんか……嫌味」
「嫌味で言ってんだよ」
晴が一瞬黙った。
惟人も、自分で言ってから余計に腹が立った。
晴に対してというより、この年になってこんなことで嫉妬している自分にだった。
けれど晴は結局、それ以上何も答えなかった。
その日の夜、惟人は本当にレオへ電話した。
大人げないという自覚は、十分あった。
それでも気になったままスケートアメリカへ向けた練習をする方がよほど鬱陶しい。
レオは数コールで出た。
「Ito? What's up?(惟人? どうした?)」
「晴から電話あっただろ」
一瞬だけ間があった。
その間だけで、惟人には十分だった。
「You mean recently?(最近の話?)」
「とぼけんな。何話した?」
レオが笑った。
「I don't know what you're talking about.(何のことか分からないな)」
「嘘つけ」
「That sounds private.(それは本人同士の話だろ)」
「やっぱり聞いてんじゃねえか」
レオの笑い声が大きくなる。
惟人はますます腹が立った。
「四回転の理由、知ってる?」
今度は、ほんの少しだけ間が長かった。
「I know Haru is being Haru.(晴が相変わらず晴だってことは知ってる)」
「意味分かんねえ」
「That makes two of us.(それは俺も同じ)」
明らかに何か知っている。
「いいから教えろ」
「No.(嫌だね)」
即答だった。
「何で」
「Ask Haru.(晴に聞けよ)」
「聞いても言わねえからお前に電話してんだよ」
レオがまた笑った。
「Then wait.(じゃあ待てば)」
「それができたら電話してねえよ」
少し間があったあと、レオが心底面白そうに笑い始めた。
「何笑ってんだよ」
「Nothing. Absolutely nothing.(何でもない。本当に何でもない)」
「腹立つな、お前」
「I know.(知ってる)」
結局、何一つ聞き出せないまま電話を切った。
それでも諦めきれず、次は梁へかけた。
梁もすぐに出たが、晴の名前を出した瞬間から明らかに何か知っている顔をした。
「晴と何話した?」
梁は少し笑った。
「晴に、惟人には言うなって言われてる」
「そこまで言われてんの?」
「Yes.」
惟人の苛立ちはさらに増した。
「何なんだよ」
「たぶん、晴のやり方でやらせてやった方がいい」
「四回転を?」
「四回転とは言ってない」
「今言ったようなもんだろ」
梁は笑っていた。
それから少し惟人の顔を見て、面白そうに聞いた。
「嫉妬してるのか?」
「違う」
惟人は即答した。
梁の笑みが深くなる。
「晴がお前には言わず、俺には何を話したのか聞くために電話してきたんだろ」
「だから何だよ」
「それを嫉妬って言うんだよ」
「切るぞ」
梁が声を上げて笑った。
惟人は本当に切ろうかと思った。
「何を期待してるんだ。晴に告白して、その返事に怒った直後に、今度は俺たちには何を話したのか気にしてるんだろ」
「うるせえ」
「言っただけだよ」
「何も教えねえなら切る」
「教えない」
「じゃあ切る」
「でも、惟人」
切る直前に呼び止められた。
惟人が黙る。
梁は少しだけ笑いを引っ込めた。
「あまり追い詰めるなよ」
「……何で」
「あいつ、本当に自分で何かを考えて決めようとしてるから」
その言葉には、さすがに惟人もすぐには返せなかった。
自分が晴に求めたことそのものだった。
自分が何を欲しいのか考えろ。
自分で選べ。
梁は、それを晴が今やろうとしていると言っている。
ただし、その答えがなぜ四回転なのかは、やはり全く分からなかった。
「……ほんと意味分かんねえ」
「そのうち分かる」
「お前もレオと同じこと言うな」
「じゃあ俺たちが正しいんだろ」
今度こそ惟人は電話を切った。
疑問は何も解消されなかった。
むしろ増えた。
晴は何かをしようとしている。
梁とレオは、それを知っている。
しかも二人とも、自分には教えない。
数日前まで晴の答え方に腹を立てていた自分が、今度は晴が他人に何を話したのか気にしている。
冷静に考えれば面倒な男だと自分でも思う。
それでも、惟人は晴のことになると昔からあまり冷静ではなかった。
翌日、フランスから持ち帰った荷物をようやく整理していると、スーツケースの奥に入れていた小さな紙袋が目に入った。
フランスの元フィギュアスケーターのエリアスから晴へ預かったものだった。
彼もまた、梁やレオと同じく、惟人や晴と同じ世代のスケーターで、何度も世界を争った相手だ。
フランスグランプリの会場で顔を合わせたとき、エリアスは晴がまたリンクへ戻っていることをすでに知っていた。例の動画も見ていたらしく、最初に晴の名前を出したのもエリアスの方だった。
競技がすべて終わったあと、帰国の準備をしていた惟人を捕まえて、小さな包みを差し出した。
「Pour Haru.(晴に)」
「何これ」
「Des douceurs. Il aimait ça, non ?(お菓子。あいつ、こういうの好きだっただろ?)」
晴が昔、遠征先で甘いものを買っていたのを覚えていたらしい。
惟人が受け取ると、エリアスは少し考えてから付け加えた。
「Dis-lui de ma part qu'il n'a plus le droit de disparaître comme ça.
(もう二度と勝手に消えるなって、俺が言ってたって伝えて)」
それから、ほんの少し表情を柔らかくした。
「Et dis-lui que je suis heureux qu'il patine de nouveau.
(それと、また滑ってるって聞いて嬉しいって伝えて)」
そのとき惟人は、晴がどれほど多くの人の中に残っていたのかを改めて思った。
二年間姿を消しても、誰も簡単には忘れていない。
晴本人だけが、そのことをまだ完全には分かっていないのかもしれない。
夜、仕事から帰ってきた晴へ紙袋を渡した。
晴は少し驚いた顔をした。
「僕に?」
「エリアスから」
「会ったの?」
芸術性の高さでエリアスと晴はよく比較されていた。だからこそ、惟人よりやや年上のエリアスは晴をよくかわいがっていた。
「同じ大会出てたからな」
晴は紙袋の中を覗いた。
「お菓子?」
「お前が昔好きだったの覚えてたらしい」
晴が少し笑った。
「よく覚えてるね」
「伝言もある」
「何?」
惟人はエリアスから聞いた言葉をそのまま伝えた。
「もう二度と勝手に消えるなって」
晴の手が少し止まる。
それから、困ったように笑った。
「……みんな同じこと言う」
「そりゃ言うだろ」
「ほかは?」
「また滑ってるのが嬉しいって」
晴はしばらく何も言わなかった。
手元の紙袋を見る。
昔なら、こういう言葉をどう受け取ればいいのか分からず、少し居心地の悪そうな顔をしたかもしれない。
今は違った。
「そっか」
そう言って、柔らかく笑った。
その笑顔を見た瞬間、惟人の中にあった苛立ちが少しだけ薄れた。
本当に少しだけだった。
翌朝になれば、晴はまた物流の仕事へ出ていった。
午後はリンクで子どもを教え、空いた時間には自分のトレーニングをする。夜の店へ行く日もまだあるが、以前ほど頻繁ではなく、勤務がない日はその分身体を休ませたり、四回転の練習へ充てたりしていた。
4Tは少しずつ安定してきている。
次は4Sへ移るつもりらしい。
惟人はそれを見ながら、やはり何一つ納得できなかった。
休息もしっかりとり、物流や夜の仕事も少しずつ減らしながら、本数を管理して四回転を練習している。
つまり、本気なのだ。
それが一番意味が分からなかった。
「今日、夜仕事?」
惟人が聞くと、晴は靴紐を締めながら答えた。
「今日はないよ」
「明日は?」
「物流だけ。夜は休み」
「四回転は?」
晴は少し考えた。
「明日はやらない。脚休ませる」
惟人は黙った。
ちゃんとしている。
腹が立つくらい、ちゃんとしている。
「何?」
晴が不思議そうに聞く。
「別に」
「最近それ多いね」
「お前のせいだよ」
晴は意味が分からないような顔をした。
惟人はため息をついた。
次のスケートアメリカまでは、もう二週間もない。
自分には自分の練習がある。
フランスで良かったところを残し、気になった部分を修正し、次の大会へ身体を合わせていかなければならない。
それなのにリンクの端で晴が助走へ入るたび、どうしてもそちらが気になった。
何をしようとしているのか。
なぜそこまで四回転にこだわるのか。
梁とレオは何を知っているのか。
そして何より、どうして自分にだけ言わないのか。
数日前には「惟人ならいい」と言われたことに腹を立てた。
今は今で、晴が自分の知らないところで何かを選び始めたことに腹を立てている。
我ながら勝手だと思う。
けれど、好きなのだから仕方がなかった。
惟人は結局、もう一度ため息をついて自分の練習へ戻った。
晴もまた、自分で決めた練習を続けている。
同じリンクにいて、二人はそれぞれ別のものへ向かっていた。
ただ一つだけ、惟人はまだ知らない。
晴が頑なに取り戻そうとしている4Lzの先に、自分への答えが置かれていることを。




