第三十七章 残るもの
十一月十日、惟人はスケートアメリカへ向けて日本を発った。
フランスグランプリから帰国して、ちょうど二週間。優勝後の報告や取材をこなしながら次戦へ向けて調整を続け、ようやく身体がもう一度試合のリズムへ戻った頃には、また荷物をまとめる時期になっていた。
その朝、晴は物流の仕事が入っていなかったため家にいた。
告白のあとにできたぎこちなさは、もうほとんど残っていない。何かが解決したわけではなかったし、晴もまだ自分の気持ちを伝えてはいなかったけれど、惟人が四回転を始めた晴へ腹を立て、晴がそれでも頑としてやめず、同じような言い合いを何度も繰り返しているうちに、少なくとも日常の会話は以前のように戻っていた。
むしろ最近の惟人は、四回転そのものを完全に止めることは諦めたらしく、その代わり晴の練習量を細かく確認するようになっている。
玄関で靴を履きながらも、その話だった。
「今日、四回転やる?」
「今日はやらないよ」
「明日は?」
「たぶんやる」
「何本」
「身体の状態見て決める」
晴のせりふをきいて、惟人は靴紐から顔を上げた。
「先に上限決めろ」
「まだ明日の身体の状態分かんないでしょう」
「だから上限の話してんだよ」
晴は少し笑ってから答えた。
「じゃあ八本まで」
「多い」
「六本」
「最初から六本にしろ」
「はいはい」
晴が軽く返すと、惟人の眉間にまた皺が寄る。
「晴」
「ちゃんとやるって」
「信用してないわけじゃない」
「してない顔だよ」
「お前の場合、やるって決めたことをちゃんとやりすぎるから言ってんだよ」
そう言われると、晴にも返す言葉がなかった。
以前の自分なら、やると決めたことのために身体の方を後回しにしていたことを、晴自身も知っている。今は同じことをするつもりはなかったけれど、惟人から見れば簡単に信用できるものでもないのだろう。
惟人はキャリーケースの持ち手を上げたものの、まだ何か言いたそうな顔をしていた。
その様子が少し可笑しくて、晴は笑った。
「試合行く人が、僕の練習ばっかり気にしないでよ」
「誰のせいだと思ってんだ」
「僕?」
「お前以外にいるか」
惟人は呆れたように息を吐いてから、玄関の扉へ手をかけた。
「行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
そのまま出ていくのかと思ったが、惟人は一度だけ振り返った。
「試合、見る?」
フランスへ行く前にも、同じことを聞かれた。
あのときはまだ、自分がなぜそこまで惟人の試合を見たいのか分かっていなかった。
今は違う。
「見るよ」
晴がすぐに答えると、惟人は「そう」とだけ言った。
それだけなのに、少しだけ機嫌が直ったように見えた。
晴はその表情を見ながら、自分の胸の内側が柔らかくなるのを感じた。
好きだと気づいてから、こういうことが増えた。
以前なら気にも留めなかった惟人の細かな表情まで、妙に目につく。少し笑ったことや、疲れていること、機嫌が直ったことまで、以前よりずっと分かりやすく見えるようになった。
ただ、まだ言わない。
そこだけは晴の中ですでに決まっていた。
4Lzを跳ぶまでは、自分から好きだとは言わない。
惟人が知れば、間違いなく「何でそこが条件になるんだ」と怒るだろうし、晴自身も他人に説明すれば意味の分からない理屈だという自覚くらいはある。
それでも、自分には必要だった。
惟人が出発した翌日から、晴は4Sの練習へ進んだ。
4Tはまだ現役時代ほどの安定感はなかったものの、状態のいい日に単発で跳ぶだけなら、かなり形になってきている。何より、四回転という回転そのものに身体が少しずつ慣れ始めていた。
4Sは現役時代にも比較的得意なジャンプだったため、踏み切りの感覚はよく覚えていた。
ただ、覚えていることと、今の身体でできることは別だった。
最初の何本かは高さが足りず、回転の途中で身体が開いた。着氷まで持っていけても軸が傾き、きちんとエッジへ体重を乗せられないこともあった。
晴は失敗するたび、以前のようにすぐ次の一本へ行くことはしなかった。
一度リンクサイドへ戻り、撮っていた動画を確認する。踏み切りの位置や速度を見て、身体のどこが遅れているのかを考えてから、もう一本だけ試す。
それでも駄目なら、その日はそこで終わった。
昔の自分なら、たぶん止められなかった。
あと少しだと思えば、成功するまで跳んでいただろうし、明日へ持ち越すことを敗北のように感じていたかもしれない。
今は、明日があると思える。
四回転を試合へ入れなければならないわけではないし、次の大会までに間に合わせる必要もない。成功率を何割まで上げるという期限もなく、誰かに求められているわけでもなかった。
自分が欲しいからやっている。
だからこそ、急ぐ必要はない。
数日後、4Sは戻った。
完璧とは言えなかったが、きちんと四回転して降り、着氷後のエッジにも流れが残った。
晴はそのまま少し滑ってからリンクサイドへ戻り、動画を確認した。
自分でも分かるくらい、口元が少し緩んだ。
惟人へ送りたくなった。
スマートフォンを手に取るところまでいって、やめた。
まだ途中だった。
晴が本当に戻したいのは、4Sではない。
最終的に欲しいのは4Lzだった。
その日の夜、黒服の仕事へ向かう電車の中で、晴は借金の残額を確認した。
返済を始めた頃は、その数字を見るたび息が詰まりそうになった。
働いても働いてもほとんど減っていないように感じる時期があり、月にいくら返せるかを何度も計算し、食費を削り、眠る時間まで仕事へ変えて、それでも先は果てしなく遠く見えた。
今は違う。
残りは、百五十万円ほどになっていた。
晴は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
これなら返せると思った。
いつ終わるか分からないものではなく、終わりまでの距離が自分の目で見えるところまで来ている。
そこまで考えたとき、自然に惟人のことを思った。
惟人の家で暮らすようになったことで、家賃はかからなくなった。食費についても、晴が払おうとして何度か揉めた末、完全な折半とはほど遠い形に落ち着いている。リンクで働くようになったことで、以前より身体への負担が少ない仕事からも収入を得られるようになった。
何より、惟人は何度も晴の働き方を止めた。
食べろと言い、寝ろと言い、仕事を増やすなと言った。
あのまま一人で生活を続けていたら、借金を返し終えるより先に身体を壊していたかもしれないし、少なくとも今のように食事を取りながら身体を戻し、滑る時間まで持ちながら返済を進めることはできなかっただろう。
惟人のおかげだった。
晴はそれを、今なら素直に認められた。
以前なら、誰かに助けられたと思うこと自体が苦しかった。自分が引き受けたものなのだから、自分一人で何とかしなければならないと思っていた。
でも、本当は違った。
自分で返すことと、誰の助けも受けないことは同じではない。
惟人に助けてもらったから、ここまで来られた。
それでいい。
ただ、惟人を好きなのは、そのせいではなかった。
助けてもらったから好きになったわけではないし、住む場所をくれたからでも、食事を作ってくれたからでも、借金を返せるところまで生活を立て直すのを手伝ってくれたからでもなかった。
だからといって、幼い頃からずっと一緒にいたから、その時間の長さだけを恋だと思い込んでいるわけでもない。
惟人から離れ、スケートから離れ、自分を九条晴として知る人間とのつながりをほとんど断った二年間。
電話番号を変え、連絡先を消し、誰にも居場所を知らせなかった。
それでも、Instagramだけは消せなかった。
最初のうちは、ただ残しただけだと思っていた。
けれど結局、二年間ずっと消さなかった。
惟人のアカウントを、時間があれば見ていた。
大会があれば結果を確認し、動画が上がれば見た。
オリンピックも、世界選手権も見た。
自分はもう競技の世界にいないつもりだったのに、惟人のスケートだけは欠かさなかった。
誰にも知られず、一人きりで暮らしていたあの時間にも、惟人が滑っていることだけは知っていたかった。
今になって考えれば、それはずいぶん分かりやすいことだった。
もし惟人が何一つしてくれなかったとしても、たぶん自分は惟人を好きだった。
自分の滑りを見てほしかったし、惟人が笑えば嬉しかった。家へ帰ればいてほしいと思い、離れれば帰ってくる日を待ったと思う。
実際、何もしてもらえなかった二年間ですら、晴は惟人を見ていた。
その事実は、今の晴にとってかなり大きかった。
助けてもらったからではないし、長く一緒にいたから、それだけでもない。恩や習慣を恋と取り違えているわけでもなかった。
そういう理由を一つずつ外していったあとにも、最後まで残るのが惟人だった。
だから好きなのだと思う。
惟人だから。
その答えが以前よりずっとはっきりしたことに、晴は少し安心した。
スケートアメリカのショートは、もちろんリアルタイムで見た。
フランスのときとは違い、もう自分がどうして見ているのかを考える必要はない。
惟人を見たいから見ている。
それだけだった。
画面の中の惟人は、フランスより少し身体が軽そうに見えた。
六分間練習の時点から動きがよく、ジャンプにも余裕がある。
晴は当然、技術的なところも見る。踏み切りの速度や着氷後の流れ、フランスから調整されたステップの細かな部分まで、長く一緒に滑ってきた晴にはよく分かった。
だが、以前なら見なかっただろうところも見ている自分がいた。
今季の衣装、よく似合ってるな。
ふとそんなことを考えてしまい、晴は少しだけ困った。
今までだって惟人の衣装は見ていたはずなのに、こういうところまで気にしていただろうか。
演技を終えた惟人が息を整えながらリンクを出て、キス・アンド・クライで点数を確認したあと、わずかに笑った。
晴も自然に笑った。
その理由を、もう自分で疑う必要はなかった。
翌日のフリーも見た。
《シンデレラ》。
夏の間、晴自身が何度も見てきたプログラムだった。
最初は少し硬かった動きが、今では完全に惟人の身体へ馴染んでいる。
舞踏会の場面で、惟人が見えない相手へ手を差し出し、ほんの少し待つ。
そこへ誰かが来たように身体が動く。
晴は、その場所へ一度自分が立ったことを思い出した。
あのときは、ただ振付を作るためだった。相手との距離を身体へ覚えさせるためにコーチから入れと言われ、惟人の手を取って一緒にカーブを描いた。
今、画面の中で同じ場所へ手を伸ばす惟人を見ながら、晴はふと思った。
そこにいるのが、自分だったらいい。
そう思った途端、少しだけ恥ずかしくなった。
恋だと知る前なら、絶対に考えなかったことだった。
それでも目は逸らさなかった。
惟人が、愛おしい誰かと踊る王子を滑っている。
その相手になりたいと思う。
それもきっと、恋なのだろう。
惟人がアメリカで試合をしている間にも、晴の練習は続いた。
4Sの次に取りかかったのは4Loだった。
現役時代から、決して得意なジャンプではない。
晴にとって一番身体に馴染んでいたのは4Lzで、その次に4Sと4Tが使いやすかった。4Loは跳べるものの、調子によって感覚が揺れることがあり、試合構成へ入れるときにも他の四回転ほど絶対的な信頼は置いていなかった。
そのため、案の定かなり苦戦した。
トウをつく位置が少しずれるだけで軸が外れ、回転を優先すれば踏み切りが雑になる。反対にエッジを意識しすぎれば高さが出ず、回り切れない。
何度か転んだ。
一度は大きく軸を外したため、晴はその時点ですぐに練習を切り上げた。
翌日は四回転をやらず、その次の日も脚に張りが残っていたため跳ばなかった。
以前なら、その二日間がひどく長く感じただろう。
今は待てた。
その間に陸上で身体を作り、三回転で踏み切りだけを確認し、十分に状態が戻ってからもう一度挑戦した。
そして数日後、4Loを降りた。
着氷後、身体は少し前へ出たものの、手はつかなかった。エッジへ乗り直し、そのまま流れていく。
晴はリンクを一周してから止まった。
嬉しかった。
ただ、それで終わりではない。
4Tと4S、それから4Loまで戻った。
残っているのは、一つだった。
晴はリンクの中央から、次に使う軌道を見た。
そこは何百回、何千回と通った場所だった。
現役時代なら、身体がほとんど何も考えずに入っていった。
長い助走から左足のアウトサイドへ深く乗り、トウをつき、高さを作る。
晴の代名詞だった。
世界中の観客が、助走へ入っただけで何を跳ぶのか分かるほど繰り返したジャンプ。
4Lzだった。
ここからが、本当の意味で一番難しいのだと思う。
今までの三つとは違う。
一度跳べたからといって、すぐ昔と同じように戻るとは思っていなかった。
今の身体は現役時代と同じではなく、当時の晴が持っていた爆発的な力も、踏み切りから十分な高さを作る脚力も、完全には戻っていない。
それでも、やると決めている。
晴は少しだけ笑った。
惟人は、また怒るだろう。
なぜそこまでやるのかと聞くかもしれないし、今度こそやめろと言うかもしれない。
4Lzを跳べたら、言う。
自分が欲しいものを、自分で選んだ。
四回転も、惟人も。
その二つに本来何の関係もないことは、自分でも分かっている。
晴の中では、その二つはもう一本の線でつながっていた。
借金にも、ようやく終わりが見えている。
父が残したものを返し終えたあとにも、自分の人生は続いていく。
働くことだけが残るわけではない。
滑っていいし、欲しいものを欲しいと思っていい。
誰かを好きになって、その人と一緒にいたいと望んでもいい。
そういうことを一つずつ、自分の人生へ戻していけばいいのだと思えるようになっていた。
だから、惟人を好きなのは、助けてもらったからではない。
救ってもらったからでも、恩を返したいからでもなかった。
もっと単純だった。
惟人だから好きだった。
そのことを、今度はちゃんと伝えたかった。
晴はリンクをもう一周した。
今日は4Loまでで十分だったため、まだ4Lzは跳ばない。
焦らなくていい。
惟人がアメリカから帰ってきても、すぐに成功しなくてもいい。
自分が納得できるところまで、時間をかけてやればいい。
そう思えるようになったこと自体が、以前の晴とは違っていた。
翌日から、晴は少しずつ4Lzの踏み切りを確認し始めた。
二年前までは身体が当然のように知っていた、一番馴染んだジャンプを、今度は自分の意思で取り戻すために。




