第三十八章 成就
惟人がスケートアメリカから帰ってきた頃には、十一月も半ばを過ぎていた。
大会を終えたばかりの惟人には、帰国後すぐに休めるほど暇はなく、取材やスポンサーへの挨拶、次のグランプリファイナルへ向けた調整が続いていた。それでもフランスのときほど慌ただしくはなく、数日もすると、二人の生活はまたいつもの形へ戻った。
晴は朝に物流へ出る日があり、午後はリンクで子どもたちを教え、時々夜の店にも入った。その合間に自分のトレーニングを続けていたが、四回転の練習についてだけは、以前よりさらに慎重になっていた。
4Tと4S、そして4Loまでは戻った。
けれど4Lzは、まるで別のジャンプのようだった。
もちろん技術そのものを忘れたわけではない。どの軌道から入り、どのタイミングでアウトサイドエッジへ体重を乗せ、トウをついて身体を引き上げればいいのかは分かっている。むしろ分かりすぎているくらいだった。
だからこそ、今の身体との差がはっきりした。
昔なら踏み切った瞬間に得られていた高さへ届かない。回転を急げば軸が細くなりすぎ、身体を引き上げようとすれば踏み切りが遅れる。回り切ったと思っても着氷まで余裕がなく、ブレードが氷へ触れた瞬間に身体がほどけてしまうこともあった。
何度も転んだ。
何度も三回転に抜けた。
一度は空中で足が完全にほどけ、晴自身が思わず苦笑した。
だが、以前のように失敗のたびに苛立って次の一本へ向かうことはなかった。
身体が疲れているならやめた。
脚に張りがあれば翌日も跳ばなかった。
食事を増やし、筋力トレーニングを続け、睡眠時間を削らなかった。
惟人は最初、その様子を疑うように見ていた。
「今日は何本」
リンクサイドで聞かれて、晴が「四本」と答えると、惟人は時計まで確認した。
「それ以上やるなよ」
「分かってる」
「昨日も跳んだ?」
「昨日はやってない」
「明日は?」
「今日の感じ見て決める」
以前ならそこでさらに口を出したかもしれないが、最近の惟人は、それ以上は言わなくなっていた。
ただし、晴が4Lzの助走へ入るたびに見る。
自分の練習をしているはずなのに、気づけば晴の方を見ている。
転べば眉間に皺が寄るし、抜ければ何か言いたそうな顔をする。
晴はそれに気づいていた。
気づいていて、少しだけ嬉しかった。
好きだと自覚してからというもの、惟人が自分を見ていることまで以前とは違って感じられる。
昔からずっと見られてきた。
晴が四歳の頃から、惟人はすぐ近くにいた。
ジャンプを覚えれば見ていたし、失敗すれば何か言った。試合では互いの演技を見続け、同じ世界の頂点を争った。
その視線が今も自分へ向いている。
それが嬉しいと思う。
もうその理由を考える必要はなかった。
惟人が好きだからだった。
まもなく十二月に入ろうとしていた。
惟人の次の大会はグランプリファイナルだった。
出発は一日。
それが近づくにつれ、惟人の練習も少しずつ大会仕様になっていった。
プログラムを通す日が増え、ジャンプの配置を確認し、疲労を残さないところで練習を切り上げる。身体の状態そのものは悪くなさそうだったが、晴には別のことが気になった。
惟人が、あまり出発したそうに見えなかった。
もちろん大会へ行きたくないわけではない。
競技に対する集中は変わらないし、グランプリファイナルで勝つつもりなのも分かる。
それなのに家にいるときだけ、妙に晴の近くにいる。
ソファへ座れば、以前なら少し離れた場所を選んでいたはずなのに、最近は同じ側へ来ることが増えた。
晴がテレビを見ていれば隣に座り、何となくスマートフォンを触っている。
別に話すことがなくても、そのままいる。
晴も何も言わなかった。
言えば意識させる気がした。
それに、自分も嫌ではなかった。
むしろ嬉しかった。
その夜も、二人は並んでソファへ座っていた。
惟人は翌々日に出発するため、荷造りの大半を終えている。
晴は翌日のリンクの予定を確認しながら、ふと聞いた。
「ファイナル終わったら、すぐ帰ってくる?」
「帰るよ」
「何日?」
「六日に終わって、七日には戻る予定」
「そっか」
晴が頷くと、惟人が少し怪訝そうに見る。
「何」
「別に」
「お前、最近それ多くない?」
以前、自分が言った言葉をそのまま返されて、晴は笑った。
「惟人も言ってたよ」
「俺はお前のせいだったけどな」
「僕も惟人のせいだよ」
惟人が一瞬黙った。
晴も、自分で言ってから心臓が速くなるのを感じた。
今なら言おうと思えば言える。
好きだと。
惟人が好きだと。
それでも晴は、まだ言わなかった。
あと一つだけだった。
自分で決めた意味の分からないルールを、最後までやり切りたかった。
翌日、晴はいつものようにリンクへいた。
子どもたちの指導を終えたあと、自分の靴を履く。
惟人も同じ時間に練習していた。
グランプリファイナル前なので無理な追い込みはせず、ジャンプとステップを軽く確認している。
晴は十分に身体を温めてから、三回転を何本か跳んだ。
3Lz。
問題ない。
少し休み、4Tを一本だけ確認する。
きれいに降りた。
そこで焦らず、一度リンクサイドへ戻った。
水を飲み、呼吸を整える。
惟人が近くへ滑ってきた。
「今日、ルッツやる?」
「うん」
「何本」
「三本まで」
惟人は少し考えてから頷いた。
「分かった」
以前ならもっと言ったかもしれない。
今は晴が本当に本数を守ると分かっている。
それでも心配そうな顔は変わらなかった。
安心させるように笑って見せる。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ」
「大丈夫かどうかは跳んでから言え」
「はいはい」
晴はリンクへ戻った。
一度目。
踏み切りは悪くなかった。
高さも出た。
けれど回転の後半で身体が少し外へ流れ、着氷と同時に手をついた。
晴はそのまま立ち上がり、無理に続けずリンクを一周する。
惟人が何か言おうとしたが、晴は自分から首を振った。
「大丈夫。今のは分かる」
もう一度だけ助走を確認する。
二度目は、踏み切る直前に違和感があり、晴は跳ばなかった。
そのまま通り過ぎて戻ってくる。
惟人が眉を上げた。
「跳ばなかったな」
「タイミング違った」
「それでいい」
晴は頷いた。
あと一本。
今日はそれで終わる。
晴は一度時間を置いた。
以前なら、成功させなければという焦りがあっただろう。
今は不思議なくらい落ち着いていた。
できなければ、また今度やればいい。
惟人が明後日からいなくなるとしても、帰ってくる。
今日でなければならない理由はない。
そう思ったとき、逆に身体から余計な力が抜けた。
晴はゆっくり滑り出した。
いつもの軌道へ入る。
何百回、何千回と通った軌道だった。
二年前まで、自分の身体が当然のように知っていた。
今は一つずつ取り戻した。
滑ることも。
食べることも。
眠ることも。
誰かと一緒にいることも。
自分が何を欲しいのか考えることも。
晴はアウトサイドエッジへ乗った。
昔の自分を再現しようとは思わなかった。
今の自分が選んだジャンプを、今の自分の力で跳ぶ。
踏み切った。
空中へ上がる。
回転が入る。
その瞬間、晴は何も考えていなかった。
身体が回る。
足が締まる。
氷が近づく。
ブレードが触れた。
着氷した。
エッジが氷を捉え、そのまま前へ流れていく。
晴は数メートル滑ってから、ようやく速度を落とした。
転んでいない。
手もついていない。
回り切った。
自分が何をしたのか理解するまで、ちょっと時間がかかった。
リンクが妙に静かに感じた。
晴はゆっくり振り返った。
惟人がいた。
リンクサイドに立ったまま、動いていない。
晴以上に信じられないような顔をしている。
二年前まで、世界中が何度も見たジャンプだった。
九条晴が跳べば珍しくもなかった。
大会で成功すれば、当然のように点数がついた。
けれど今は違う。
あの四畳半の部屋で、まともに食べることすらできなくなっていたところから、ここまで戻ってきた。
最初にこのリンクで滑った日は、二回転ですら身体が追いつかなかった。
それでも少しずつ戻した。
三回転を跳び、3Aを取り戻し、4T、4S、4Loへ進んだ。
そして今、4Lzを降りた。
晴はしばらく惟人を見ていた。
胸の中にあるものは、不思議なくらい静かだった。
これでいい。
そう思った。
自分で決めた。
誰にも求められていないのに、自分が欲しいからここまで来た。
だったら、もう一つも言える。
晴は惟人の方へ滑っていった。
惟人はまだ呆然としていた。
「……今の」
晴はリンクサイドの近くで止まった。
「うん」
「ルッツ?」
「うん」
「四回転?」
晴は少し笑った。
「それ以外に見えた?」
「いや、4Lzに見えたけど……」
惟人は珍しく言葉を失っていた。
その顔を見ていると、晴まで少し可笑しくなった。
けれど笑ってごまかしたくはなかった。
ここまで来たのは、このためでもあった。
晴は一度だけ息を吸った。
「惟人」
「ん?」
惟人が晴を見る。
その目を見たら、不思議と何も怖くなかった。
「好き」
惟人の表情が止まった。
晴はそのまま続けた。
「僕、惟人が好き」
しばらく、惟人は何も言わなかった。
晴も待った。
今度は逃げなかった。
「……何」
惟人がようやく声を出した。
「急に」
「急じゃないよ」
「いや、俺には急だよ」
晴は少しだけ笑った。
「フランスのときに気づいた」
「フランス?」
「試合見てたとき」
惟人が眉を寄せる。
晴は、もう隠す必要がなくなったことが少し嬉しかった。
「何で惟人が笑うと安心するんだろうとか、何で僕の滑りを惟人に見てほしいんだろうとか、いろいろ考えて」
そこまで言ってから、晴は少し照れくさくなって視線を外した。
それでも続きを言う。
「それで、恋なんだって分かった」
惟人が黙っている。
晴は再び惟人を見た。
「前に、惟人ならいいって言ったでしょう」
惟人の表情が少し硬くなる。
「あれ、違った」
「……違った?」
「うん」
晴はゆっくり言った。
「惟人ならいいんじゃなかった」
あのとき言えなかった言葉を、今は自分のものとして言える。
「僕が、惟人がいい」
惟人が完全に動かなくなった。
晴は少しだけ息を吐いた。
「あなたが好き」
それを言った瞬間、胸の奥に残っていた最後の迷いまでなくなった。
言わされたわけではない。
惟人が望んだから答えたわけでもない。
自分が欲しいと思った。
自分が一緒にいたいと思った。
だから言った。
惟人はしばらく晴を見ていた。
やがて、何かに気づいたように目を細めた。
「……待て」
「何?」
「お前、まさか」
嫌な予感がするような顔だった。
晴は少しだけ笑う。
惟人の視線が、さっき晴が4Lzを跳んだ場所へ向かい、それから晴へ戻る。
「これのため?」
「何が?」
「四回転」
晴は少し考えた。
正確には、四回転を告白の条件にしたかったわけではない。
自分が本当に自分の意思で何かを選べるのだと、自分自身が納得したかった。
その先で惟人を選びたかった。
でも、説明すればたぶんまた長くなる。
「だいたい」
惟人が両手で顔を覆った。
「お前……」
晴は少し不安になる。
「怒った?」
「怒るとかじゃねえよ」
惟人は顔から手を離し、信じられないものを見るように晴を見た。
「何で好きって言うために四回転跳ぶ必要あんだよ」
「僕にはあったんだよ」
「ねえよ普通」
「普通じゃなくていいでしょう」
「身体張るなよ」
「ちゃんと本数守ったよ」
「そういう問題じゃねえ!」
久しぶりに大きな声を出されて、晴は思わず笑った。
惟人はさらに腹を立てたような顔をしたが、その口元も少しだけ緩んでいた。
「梁とレオが知ってたの、これ?」
「うん」
「全部?」
「だいたい」
「だからあいつら何も言わなかったのか」
晴は頷いた。
「二人とも爆笑してた」
「当たり前だろ」
「惟人も笑う?」
「笑う前に呆れてる」
そう言いながら、惟人は本当に少し笑った。
晴は、その顔を見て胸がいっぱいになった。
フランスの画面越しではなく、目の前で笑っている。
それが嬉しい。
惟人が一歩近づいた。
「晴」
「うん」
「もう一回言って」
晴は少しだけ目を見開いた。
「聞こえたでしょう」
「聞こえたけど、もう一回」
以前なら、恥ずかしいと逃げたかもしれない。
今は逃げなかった。
「好きだよ」
晴は惟人を見たまま言った。
「惟人が好き」
惟人はしばらく何も言わず、その言葉を確かめるように晴を見ていた。
「俺が言ったからじゃなく?」
「違う」
「俺ならいいからでもなく?」
晴は首を振った。
「違うよ」
今度は迷わなかった。
「僕が、あなたがいい」
惟人の表情が崩れた。
嬉しいのを隠そうとして、隠しきれないような顔だった。
晴はそれを見て笑った。
この顔が見たかった。
たぶん、ずっと前から。
惟人は少しだけ困ったように息を吐いた。
「八年待ったんだけど」
「ごめん」
「そこで謝るな」
「じゃあ、ありがとう?」
「それも違う」
晴はまた笑った。
惟人も笑った。
二人の間にあった最後の距離が、ようやくなくなった気がした。
晴は振り返り、さっき4Lzを降りた場所を見た。
二年前まで、自分にとって当たり前だったジャンプだった。
それを取り戻したから、昔の自分へ戻ったわけではない。
むしろ逆だった。
昔なら、誰かに求められるから跳んだ。
勝つために跳び、自分が九条晴であるために跳んだ。
今日は違った。
自分が跳びたかったから跳んだ。
そして、自分が好きだから好きだと言った。
それだけだった。
晴はもう一度惟人を見る。
惟人がいる。
その人を、自分で選んだ。
今度はそれでよかった。




