第三十九章 恋をする
家へ帰ってからの惟人は、妙に落ち着かなかった。
リンクではあれだけ普通に話していたのに、玄関の扉が閉まった途端、急に晴との距離が分からなくなったらしい。晴が上着を脱いでいつものようにソファへ座っても、惟人は少し離れたところに立ったまま、しばらく何も言わなかった。
晴はその様子を見て、首を傾げた。
「どうしたの」
「いや」
「何」
「……恋人になったんだよな」
晴は一瞬きょとんとしてから、笑った。
「なったんじゃない?」
「その言い方何」
「だって僕も初めてだから分かんないよ」
惟人は黙った。
晴には、その沈黙の意味がよく分からなかった。
けれど惟人の視線が自分の顔と、その少し下あたりを行ったり来たりしていることには気づいた。
そこでようやく、晴も少しだけ察した。
「……惟人」
「何」
「大会前でしょう」
「分かってる」
返事が早かった。
晴は思わず笑う。
「分かってる人の顔じゃないよ」
「俺、八年待ったんだけど」
「それと大会は別」
「分かってるって」
惟人はそう言いながら、ようやく晴の隣へ座った。
近い。
今までだって距離が近いことは何度もあった。肩が触れるくらいで座ることも、晴が疲れてそのまま寄りかかることもあった。
それなのに、恋人になったと分かった途端、同じ距離がまったく違って感じる。
晴も少し緊張していた。
惟人がこちらを見る。
晴も見返す。
しばらく何も言わなかった。
それから惟人が、確認するように聞いた。
「キスしていい?」
その聞き方にくすりと笑ってしまった。
「そこ聞くんだ」
「聞くだろ」
「もっと勝手にするかと思ってた」
「お前、俺を何だと思ってんの」
「惟人」
「答えになってねえよ」
晴は笑ったあと、顔を近づけた。
「いいよ」
惟人が一瞬だけ動きを止めた。
本当にいいのかと確認するように晴を見てから、ゆっくり顔を近づける。
触れるだけの短いキスだった。
離れたあと、今度は晴の方が少し驚いた。
「……こんな感じなんだ」
惟人の眉が動く。
「何その感想」
「初めてだから」
「もう一回していい?」
「うん」
二度目は、さっきより少し長かった。
それでも穏やかなものだった。
惟人は晴の肩へ腕を回し、そのまま引き寄せる。
晴も自然に惟人へ寄った。
抱きしめられること自体は、これまでにもあった。
けれど今は、その意味が違う。
好きだから近づいている。
相手も同じ理由で自分へ触れている。
それだけで、晴は思っていた以上に嬉しかった。
しばらくそのままでいると、惟人が小さく息を吐いた。
「……これ以上はやめとく」
晴が少し笑う。
「偉いね」
「褒め方腹立つな」
「だって大会前だもん」
「分かってる」
惟人はそう言いながらも、晴を離す気はないらしい。
晴もわざわざ離れる理由はなかったため、そのまま惟人へ寄りかかった。
恋人になった最初の夜は、それ以上何かが起きることもなく、二人でいつも通り夕食を食べた。
ただし、いつも通りではないことも多かった。
晴がキッチンへ行けば、惟人も何となく後ろからついてくる。
ソファへ戻れば隣へ座る。
少し目が合うだけで、どちらからともなく笑う。
そのたび晴は、恋人になるということが何か大きく変わることではなく、今まであったものに一つ名前が増えるようなことなのかもしれないと思った。
翌日のリンクでは、周囲の方が先に違和感へ気づいた。
二人とも仕事も練習も普通にしている。
晴は子どもたちをきちんと指導し、惟人もグランプリファイナル前の最終調整をする。
それなのに、何となく距離が近い。
晴が子どもの指導を終えてリンクサイドへ戻れば、惟人が自然にそちらへ寄ってくる。
晴が惟人の練習動画を見るときには、二人で同じ画面を覗き込む。
今までだって似たようなことはしていたはずなのに、妙に雰囲気が違った。
スタッフの一人が、少し離れたところから二人を見ていた。
晴は気づいていない。
惟人は気づいていたが、気にしなかった。
「今日のステップどうだった?」
惟人が聞く。
晴は動画を数秒戻した。
「ここ、フランスよりいいと思う。でもその前ちょっと急いでる」
「やっぱり?」
「うん。ここで待った方がいい」
晴が画面を見ながら説明していると、惟人が晴の肩越しに覗き込むように近づいた。
晴は自然に身体を寄せる。
近くにいたスタッフが、また二人を見た。
何かあったのかと聞きたい顔をしていた。
晴は最後まで気づかなかった。
夕方になると、惟人の練習は早めに終わった。
大会前なので、もう追い込む時期ではない。
晴もその日は夜の仕事が入っていなかったため、一緒に帰った。
家へ着いてからは、前日よりさらに距離感がおかしくなった。
夕食を食べるところまでは普通だった。
食器を片づけ、ソファへ座る。
そこから先が長かった。
一度キスをすると、少し離れて話し、また目が合うとどちらからともなく近づく。
何度目か分からなくなった頃、晴が笑った。
「惟人、明日出発だよ」
「知ってる」
「ちゃんと準備してる?」
「してる」
「本当に?」
「したって」
そう答えながら、惟人はまた晴の方へ寄る。
晴も止めなかった。
しばらくしてから、惟人が晴の肩へ額を預けた。
「……行きたくない」
晴は思わず笑った。
「何言ってるの」
「行きたくない」
「グランプリファイナルだよ」
「知ってる」
「恋人と一緒にいたいから欠場しますって選手、たぶんいないよ」
「俺が最初でもいいだろ」
「だめでしょう」
晴は笑いながら惟人の肩を軽く押した。
惟人は全然離れなかった。
「ファイナルだよ。行ってきて」
「まだ恋人になって二日なんだけど」
「大会の日程は前から決まってるよ」
「分かってるけど」
惟人は本気で不満そうだった。
晴には、それが不謹慎だが嬉しかった。
自分と一緒にいたいと思ってくれている。
以前なら、それをどう受け取っていいのか分からなかったかもしれない。
今はただ嬉しいと思える。
惟人がふと思い出したように顔を上げた。
「もっと早ければ」
「何が?」
「関係者パス」
晴が瞬きをする。
「……何の?」
「ファイナルの」
「僕の?」
「そう」
惟人は本気で悔しそうな顔をしていた。
「もっと早く付き合ってれば、晴の分どうにかできたかもしれないのに」
晴はしばらく惟人を見たあと、吹き出した。
「そこ?」
「結構重要だろ」
「今までだって僕、家で見てたよ」
「それと現地にいるのは違う」
「惟人、試合なんだから僕のこと気にしてる場合じゃないでしょう」
「いるだけでいい」
その言葉に、晴の笑いが少しだけ止まった。
惟人は特別なことを言ったつもりはないらしい。
ただ本当に、そこに晴がいればいいと思っているのだろう。
晴は少しだけ惟人へ寄った。
「今回は家で見るよ」
「……うん」
「ちゃんとリアルタイムで」
「うん」
「帰ってきたら、おかえりって言う」
惟人が晴を見る。
晴は笑った。
「それじゃだめ?」
惟人はしばし考えてから、晴の肩を抱いた。
「……今回はそれで我慢する」
「今回は?」
「次は連れてく」
「僕、仕事あるんだけど」
「休め」
「無茶言わないでよ」
晴は笑いながら言った。
惟人もようやく少し笑った。
二日後には離れる。
けれど今度は、以前のような不安はなかった。
離れても、帰ってくる。
帰ってきたら、またここで会える。
そして、そのときはもう幼なじみでも、元ライバルでも、ただ一緒に暮らしている相手でもない。
恋人として待っていられる。
晴はそのことが、少しだけ嬉しかった。




