第八章 朝のリンク
その夜、晴は結局、黒服の仕事へ行った。
病院で散々言われたばかりなのだから、今日はもう休めと惟人は何度も言った。昨日も一日分の仕事を休ませたばかりなのに、身体を戻したいならまず睡眠を取れ、と玄関までついてきて小言を言い続ける。
けれど、晴は頑として譲らなかった。
「今日はシフト入ってるから」
「だから何だよ」
「行かなかったら困るでしょう」
「お前が倒れる方が困る」
「倒れないよ」
「その根拠のない自信、どこから来るんだ」
同じようなやり取りを何巡したか分からない。
晴は昨日買ったばかりの服に着替え、慣れた手つきで髪を整えながら、惟人の小言を半分ほど聞き流していた。
医師の話を聞いていなかったわけではない。
食べることも、眠ることも、身体を休ませることも、今の自分には必要なのだと晴なりに理解はしている。
ただ、それと今日の仕事を休むことが、晴の中ではまだうまく結びついていなかった。
すでにシフトには自分の名前が入っている。店は人手が足りず、自分が行かなければ、その分を誰かが埋めることになる。
何より、昨日はすでに仕事を休んだ。
たった一日のことなのに、働かなかったという事実が、晴の中にはまだ小さな焦りとして残っていた。
この二年間、働くことは生活そのものだった。
今日は疲れているから休む。身体に悪いから行かない。
そんな判断を当たり前のようにできるほど、晴の生活はまだ新しいものへ切り替わっていない。
「帰ってきたら寝るよ」
最後にそう言うと、惟人はひどく嫌そうな顔をした。
「当たり前だ」
「朝には帰る」
「それも当たり前だろ」
「行ってきます」
晴は当たり前のような顔で玄関を出た。
惟人には、それ以上止めることができなかった。
もちろん、本気で力ずくにでも止めようと思えばできただろう。
けれど晴は子どもではない。二十五歳の成人で、自分の仕事を持ち、自分で行くと決めている。
心配だからという理由だけで、その選択を取り上げることはできなかった。
ドアが閉まったあとも、惟人はしばらく玄関を睨むように見ていた。
腹は立つ。
けれど、晴が自分の言うことを何でも素直に聞く人間ではないことくらい、昔からよく知っている。むしろ、そこまで従順だったら晴ではない。
惟人は長く息を吐き、翌朝のアラームを確認してから寝室へ向かった。
晴が帰ってきたのは、まだ外が完全に明るくなる前だった。
玄関の鍵が静かに開く音に、ちょうど靴紐を結んでいた惟人が顔を上げる。
時計は早朝を示していた。
数時間眠った惟人にとっては、これから一日が始まる時間だったが、晴にとってはようやく仕事が終わったところだった。
「ただいま」
声にも、いつもより少し疲れが混じっている。
晴は靴を脱ぎながら、すでに外へ出る格好をしている惟人を見た。
「どこ行くの?」
「練習」
晴は一瞬だけ時計を見る。
「今から?」
「今から」
惟人は、それ以上説明する必要などないという顔で立ち上がった。
世界選手権が終わって、まだ数日しか経っていない。
シーズンそのものには一区切りついているが、だからといって身体まで完全に止める理由にはならない。
今の自分に足りないものがあるなら練習する。筋力が不足しているならトレーニングをし、感覚が鈍りそうなら氷へ乗る。
惟人にとって、それは特別にストイックな行為ではなかった。
幼い頃から長い時間をかけて繰り返し、いつの間にか生活そのものになった習慣だった。
晴は、そんな惟人を少しの間、眺めていた。
二年前までは、ごく当たり前に知っていた姿だった。
朝早く起きてリンクへ向かい、氷を上がればトレーニングをして、食事を取り、必要ならまた滑る。試合の翌日であっても、身体の状態がよければ普通に動いていた。
自分も、同じように暮らしていた。
それなのに今は、その生活はとてつもなく遠いものだ。
惟人の一日が始まる時間に、自分の一日が終わる。
その違いを目の前にすると、この二年間が急に輪郭を持ったような気がした。
「僕も行く」
惟人の眉間に、すぐ皺が寄った。
「寝ろ」
「車で寝る」
「家で寝ろ」
「昨日の子、来るかも」
その言葉に、惟人は少しだけ黙った。
晴は何となく視線を逸らした。
別に、あの子どもに会いたくて仕方がないわけではない。
ただ昨日、「明日もいる?」と聞かれたことが、思っていたより頭に残っていた。
来ると約束したわけでもない。晴はただ、「明日考える」と答えただけだった。
それでも、もしあの子が本当に今日もリンクへ来るのなら、少しくらい顔を出してもいい気がした。
「眠いだろ」
惟人が言う。
「そんなに」
晴はそう答えた直後に、小さくあくびをした。
惟人の眉間の皺が、さらに深くなる。
「説得力ゼロだぞ」
「車乗ったら寝るから」
「最初から家で寝ろって言ってんだよ」
それでも、晴はもう行くつもりらしかった。
惟人はしばらく晴を睨んでいたが、結局は諦めた。
昨日もそうだった。
晴が自分で決めたことを、こちらがすべて変えられるわけではない。
だったらせめて、できる範囲で休ませるしかない。
「五分で出るぞ」
「うん」
晴は簡単に顔を洗い、昨日と同じように惟人の大きなジャンバーを抱えて車へ向かった。
ところが、本当に十分ももたなかった。
地下駐車場を出た頃にはまだ普通に返事をしていたのに、信号を二つ越えたあたりからだんだん応答が遅くなり、次に惟人が横を見たときには、もう目を閉じていた。
頭がわずかに窓側へ傾き、伸びた黒髪が頬へ落ちて顔の半分を隠している。
惟人は信号待ちのあいだ、その寝顔をしばらく見てから小さく息を吐いた。
「だから寝ろって言っただろ」
当然、返事はない。
昨日の病院では、栄養状態だけではなく睡眠不足についても注意されたばかりだった。
それなのに明け方まで働き、そのままリンクまでついてくる。
呆れるしかない。
けれど、せっかく眠ってしまった晴を起こす気にはなれなかった。
リンクの関係者用地下駐車場へ車を入れる。
外は三月の早朝で、まだかなり冷えている。地下は外気ほどではないものの、暖房を切れば車内の温度はすぐに下がるだろう。
惟人は後部座席に置いてあったジャンバーを取り、晴の身体へ掛けた。
もともと大きなものだから、胸元から膝近くまで十分に覆える。
晴は少し身じろぎしただけで、目を覚まさなかった。
こうして眠っている姿を見ると、遠征ばかりしていた頃を思い出す。
限界まで疲れると、晴はどこででもよく眠った。
遠征帰りの車でも、大会会場からホテルへ戻るバスでも、飛行機の中でも、眠いと言いながら惟人の肩へ寄りかかって、そのまま何時間も眠っていた。
あの頃なら、邪魔だと文句を言って頭を押し戻したこともある。それでもまた寄ってくるので、そのうち面倒になって好きにさせていた。
今は、触れること一つにも余計なことを考える。
惟人はそんな自分に苛立ちながらも、晴を起こさないよう静かにドアを開けた。
車の鍵だけは晴の手元へ置いておく。
起きれば自分で出てこられる。
晴は子どもではない。
スタッフにも、連れが地下の車内で眠っていることだけ伝えておいた。
あとは本人が起きるまで、寝たいだけ寝かせておけばいい。
車から離れる前に、惟人は一度だけ振り返った。
晴はまだ深く眠っていた。
それを確認してから、惟人はリンクへ向かった。
氷へ乗ると、意識はすぐに切り替わった。
アップを済ませ、まず身体の状態を確かめる。
世界選手権の疲労が抜け切っているわけではなく、脚にはまだわずかな重さがあった。惟人は感覚だけで練習量を決めるのが嫌いだったから、その重さが筋肉の疲労なのか、睡眠なのか、それとも単純に試合の負荷が残っているだけなのかを確かめながら、その日の内容を決めていく。
最初はエッジワークから入った。
ゆっくりと身体を温めながら速度を上げ、ターンやステップを繰り返す。
身体が十分に動くようになってから、ジャンプへ移った。
最初に跳んだトリプルアクセルは、軸が少し前へ流れた。
惟人は着氷したあと、そのままリンクを一周して入り直す。
二本目は悪くない。
続いて四回転トウループへ移り、何本か繰り返した。三本目でようやく、自分の基準に近い着氷になる。
それでも、まだ少し足りない。
身体の締まりが、いつもよりわずかに遅い。
惟人はそこで一度リンクを上がり、水を飲んだ。
世界選手権を終えてまだ数日しか経っていないのだから、休めと言う人間もいるだろう。
けれど惟人にとって、休むことが練習の一部であるのと同じように、必要なときに身体を動かすこともまた調整の一部だった。
必要だからやる。
それだけのことだった。
少し休んでから再び氷へ戻る。
時間が経つにつれ、施設にも徐々に人が増えてきた。
早朝枠を使う選手やコーチ、スタッフたちが入り始める。
昨日いた子どもたちが来るには、まだ少し早い。
惟人は時計を気にしなかった。
晴がいつ起きるのかも、考えないようにした。
今の晴に必要なのは、何より睡眠だ。
自然に目が覚めるまで寝ていればいい。
結局、晴がリンクへ姿を見せたのは、惟人が練習を始めてからかなり時間が経ったあとだった。
関係者通路側の扉が開く。
惟人はちょうどリンクの反対側にいたが、最初に目へ入ったのは、自分の黒いジャンバーだった。
晴には大きすぎる。
袖からは指先が少し出ているだけで、寝癖のついた黒髪もいつも以上に顔へ落ちていた。
まだ完全には目が覚めていないらしく、小さなあくびをしながらリンクサイドへ入ってくる。
惟人は思わず少し笑った。
晴がそれに気づいた。
「何」
声までまだ眠そうだった。
「ひどい顔」
晴は前髪を適当に掻き上げる。
「寝てたんだから仕方ないでしょう」
「よく寝た?」
「たぶん」
「何時間寝たと思ってんだ」
「分かんない」
本当に分かっていないらしい。
晴は近くの時計を見て、そこでようやく驚いた顔をした。
「そんな寝てた?」
「寝てた」
「起こしてくれればよかったのに」
「寝ろって言ったの俺だろ」
「車で寝るとは言ったけど」
「だから寝かせた」
晴は不満そうな顔をしたものの、反論できる材料がないと判断したらしい。
そのままリンクサイドの椅子へ座った。
そこでようやく、氷の上へ視線を向ける。
昨日、晴が見たのはコーチとしての惟人だった。
子どもの姿勢を直し、ジャンプへ入るタイミングを指示し、リンク全体へ気を配りながら声をかける。
けれど、今日は違う。
氷の上にいるのは、現役選手としての惟人だった。
晴は無意識に姿勢を起こした。
二年間、惟人の滑りを見ていなかったわけではない。
試合はずっと見ていた。
オリンピックも、グランプリファイナルも、世界選手権も。
画面の向こうで惟人が滑るたび、晴は誰にも言わずに見ていた。
仕事から戻った四畳半の部屋で見ることもあれば、休憩中にスマートフォンで追うこともあった。
今季のプログラムも知っているし、パーソナルベストが何点なのかも知っている。
オリンピックで金メダルを取った演技も、もちろん見た。
それでも、生で見るのは二年ぶりだった。
映像では分からないものがある。
ブレードが氷を削る音も、画面越しでは伝わらない本当のスピードも、身体が目の前を通り過ぎるときに起こる風もある。
ジャンプへ入る直前、一瞬だけリンクの空気が変わるように感じることさえある。
晴は、それを知っている。
誰より近くで、何年も見てきたからだ。
惟人がリンクを大きく使いながら、四回転サルコウの助走へ入っていく。
晴の目は自然にその軌道を追った。
踏み切りから空中へ上がり、回転を終えて氷へ戻る。
着氷そのものは悪くない。
それでも晴は、無意識に眉を寄せた。
惟人はそのまま滑り続け、もう一度同じジャンプへ入った。
二本目は、最初よりきれいだった。
けれど、晴の中にはまだ小さな違和感が残った。
昔からそうだった。
惟人のジャンプを見ていると、意識して探さなくても何かに気づくことがある。
それは惟人も同じだった。
晴のジャンプを一度見ただけで、「今日お前ルッツ遅い」と平然と言われたことも、何度あったか分からない。
二人は互いのコーチではない。
それでも、あまりにも長い時間を一緒に滑りすぎていた。
いつもの助走も、踏み切るタイミングも、調子がいいときの軸も、疲れているときに出る小さな癖も知っている。
ときには、本人が自覚するより先に相手が気づくことさえあった。
晴はしばらく黙って見ていた。
惟人がもう一度、四回転サルコウへ入る。
今度は着氷でわずかに詰まった。
その瞬間、晴の口から自然に名前が出た。
「惟人」
リンクの向こうで、惟人が顔を上げた。
晴は自分が声をかけたことに、少し遅れて気づいた。
けれど、もう止める理由もなかった。
「何」
惟人がそのまま滑って近づいてくる。
晴はリンク際へ立った。
「さっきから、入りちょっと遅くない?」
惟人が止まった。
ほんの一瞬、二人のあいだに妙な間が生まれた。
晴自身は気づいていない。
ただ、ジャンプを見て気づいたことを口にしただけだった。
けれど惟人にとって、その言葉はあまりにも懐かしかった。
何度、同じようなことを言われただろう。
試合前の練習でも、公式練習でも、合宿でも、晴は昔から気づいたことを遠慮なく口にした。
今日は遅い。
軸がずれている。
足、痛い?
そんな一言で、自分でも気づいていなかった違和感に気づかされたこともある。
晴に自分のジャンプを見てもらうのは、二年ぶりだった。
「どこ」
惟人が聞く。
晴は少し考えてから、リンクの奥へ視線を向けた。
「踏み切りじゃなくて、その前」
惟人のジャンバーから指先だけを出し、さっき惟人が通った位置を示す。
「そこからカーブ入るところ、いつもより一拍遅い。だから最後で合わせようとしてる」
惟人は何も言わずに聞いていた。
「たぶん、世界選手権の疲れ残ってるんじゃない?」
「残ってない」
即答だった。
晴は少し笑った。
「残ってるよ」
「何で分かる」
「見れば分かる」
あまりにも当然のように答えられて、惟人は一瞬返す言葉を失った。
昔と同じだった。
晴は惟人の身体を知っている。
滑りを知っている。
二年離れていたとしても、目の前で何本か見れば、いつもの惟人との違いくらい分かってしまう。
晴は、惟人がサルコウへ入っていた位置をもう一度目で追った。
「一回、もう少し早く入ってみたら」
惟人が晴を見る。
「お前が言う?」
「嫌ならいいけど」
晴はすぐに引こうとした。
「誰も嫌とは言ってない」
惟人はそう言い残し、リンクの中央へ戻った。
晴も再び椅子へ座ったが、さっきよりやや前へ身を乗り出している。
惟人が速度を上げる。
今度は、晴が指摘した位置より少し手前からカーブへ入った。
身体をエッジへ乗せ、そのまま踏み切る。
四回転を終えたあとの着氷は、さっきまでより明らかに軽かった。
惟人はそのまま流し、リンクを半周して晴の前へ戻ってきた。
晴は満足そうに頷いた。
「それ」
惟人は何とも言えない顔をした。
「何」
晴が聞く。
「いや」
惟人は視線を逸らした。
「むかつくなと思って」
「なんで」
「二年見てなくても分かるのかよ」
晴はきょとんとした。
それから少し考えたあと、何でもないことのように答えた。
「だって惟人だし」
それだけだった。
晴にとっては、それ以上説明する必要がなかった。
惟人のジャンプをどれだけ見てきたのかなど、数えたこともない。調子のいい日も悪い日も、おそらく何千本という跳躍をすぐ近くで見てきた。二年離れていた程度で、いつもの惟人との違いが分からなくなるはずもなかった。
けれど惟人には、その一言が思っていたより深く刺さった。
この二年間、晴はいなかった。
どこにいるのかさえ分からなかった。
それでも、晴の中から自分まで消えていたわけではなかったのだと、こんな何でもないところで突然知らされる。
惟人は何も言わず、もう一度リンクの中央へ戻った。
晴もまた、その背中を見ながら、自分が何をしたのか深く考えてはいなかった。
昨日は、子どものジャンプを見た。
今日は、惟人のジャンプを見ている。
何が違うのかを見つけ、どう直せばいいのかを考え、次の一本を目で追っている。
晴の目は、昔の自分がいた場所へ戻り始めていた。
そして本人だけが、まだそのことに気づいていなかった。




