第七章 見る人
最初に跳べた少年は、それからもしばらく晴のところへ戻ってきた。
一度成功すると嬉しくなるらしく、今度は少しだけ欲が出たのか、「もっと高く跳びたい」と言い出した。
晴は困ったように笑った。
「まず同じの、何回かちゃんと降りようよ」
「でも今跳べた」
「一回だけね」
「二回!」
「二回でも」
少年は不服そうだったが、晴の言うことには妙に素直に従った。
もう一度リンクの向こうまで行き、助走をつける。
晴は今度はほとんど声を出さなかった。
さっきまでに直した部分を、少年が自分で再現できるか見ている。
一度目は少し踏み急いだ。
二度目は成功した。
三度目も、着氷が少し乱れたものの立った。
晴は小さく頷いた。
「今の方がいい」
それだけ言った。
けれど少年には十分だったらしい。
満足そうに笑って、またリンクの中央へ戻っていく。
その様子を見ていた別の子が、今度は晴へ近づいてきた。
さっきの少年より少し年上の女の子だった。
「私も見てほしい」
晴は反射的に惟人を見た。
少し離れたところで別の子を見ていた惟人と目が合う。
助けを求めるつもりだったわけではない。
ただ、これは自分が勝手にやっていいことなのか分からなかった。
惟人はその視線の意味をすぐ理解したらしく、少しだけ顎を引いた。
好きにしろ、ということらしい。
晴はもう一度女の子を見る。
「何?」
「ダブルアクセル」
その言葉を聞いて、晴は少しだけ眉を上げた。
「アクセル?」
「うん」
「今どのくらい?」
「回るけど降りられない」
晴はリンクを見た。
「じゃあ一回やってみて」
女の子はすぐ氷へ戻り、助走から踏み切る。空中で回った身体は着氷で前へ流れ、そのまま両手をついた。
晴はしばらく何も言わなかった。
もう一度。
今度は転ばなかったが、回転が少し足りず、着氷も詰まる。
三本目。
やはり同じ。
晴はリンク際へ少し近づいた。
「怖い?」
戻ってきた女の子へ聞く。
「ちょっと」
「転ぶの?」
「うん」
「そっか」
晴はそれ以上すぐには言わなかった。
アクセルは、他のジャンプとは少し違う。
前向きに踏み切る。
回転数だけでなく、身体が前へ進んでいる感覚そのものに怖さを感じる子もいる。
晴にも覚えがあった。
もっとも、自分が初めてダブルアクセルを跳んだ頃の記憶はかなり古い。
まだ小さかった。
何度転んでも、怖いより先に「もう一回」が出ていた頃だ。
その横で、少し年上の惟人がいつも見ていた。
足開いてる。
踏み切り遅い。
もっと前へ行け。
子どもの頃から、惟人は容赦がなかった。
晴も晴で、言われれば言われるほど腹が立ち、意地になって跳んだ。
今思えば、あれもずっと昔から変わらない二人の形だったのだろう。
晴は目の前の女の子へ意識を戻した。
「高く跳ぼうとしなくていいよ」
「でも高さないって言われる」
「今はね」
晴はリンクを指さした。
「ちゃんと前に進めてるから、そのままでいい。上に行こうとすると、踏み切るときに身体が後ろに残ってる」
女の子は少し難しい顔をした。
「後ろ?」
「うん。跳ぶ前に、降りる準備してる感じ」
「……分かんない」
晴は少し考える。
言葉だけで伝えるのは難しい。
自分ならどうしていたか。
そう考えた瞬間、身体の中に昔の感覚が浮かんだ。
左足。
踏み切り。
一瞬前へ乗る。
そのまま上へ抜ける。
空中へ入ってから締める。
もちろん、頭で一つずつ考えていたわけではない。
身体が勝手にやっていた。
それを言葉にするには、少し時間が必要だった。
「跳ぶ前に、降りようとしないで」
晴は言った。
女の子が首を傾げる。
「今は踏み切るところだけ考えて。着氷はそのあと」
「でも転ぶ」
「転んでもいいよ」
晴はあまりにも自然に言った。
「練習だから」
自分の口から出たその言葉に、晴自身が少しだけ驚いた。
何度言われてきたか分からない言葉だった。
転んでもいい。
練習だから。
次があるから。
それを。
二年前までの自分は。
当たり前のように信じていた。
女の子はそんな晴の内側など知らず、「分かった」と言ってまたリンクへ戻った。
晴はその背中を目で追う。
「もう少し速くてもいい」
助走が始まる。
「そう。そのまま」
踏み切りへ入る。
晴は無意識に息を止めた。
女の子が跳ぶ。
空中で身体が回る。
着氷。
今度は一瞬だけ足が流れたものの、そのまま立った。
本人が何が起きたのか分からない顔をした。
晴が笑う。
「今の」
女の子が振り返る。
「今のよかった?」
「うん。もう一回」
その声を聞いた周りの子どもたちが、少しずつ晴の存在を意識し始めた。
榊先生の知り合い。
顔はよく見えない。
先生ではないらしい。
でもジャンプを見てくれる。
しかも、言われた通りにすると跳べる。
子どもにとっては、それだけで十分に興味を引く存在だった。
気づけば、晴の近くに何人か集まっていた。
「スピンも分かる?」
「分かるけど」
「これ見て」
「私も」
「待って」
晴は思わず笑った。
「一人ずつね」
その言い方が、あまりにも自然だった。
惟人は少し離れたところからそれを見ていた。
晴の周りに子どもが集まっている。
大きすぎるジャンバーを着て、フードを深く被って、本人はどう見てもこの場所に馴染む格好ではない。
それでも妙に違和感がなかった。
晴は昔から、子どもに好かれる方だった。
本人が子どもっぽいところを残しているせいもあるのかもしれない。
偉そうにしない。
相手が小さくても、ちゃんと一人の人間として話す。
できないことを笑わない。
ただし、できていないところは普通に言う。
その辺りの距離感が、子どもには分かりやすいのだろう。
一人の子がスピンを見せる。
晴は最初の一回を黙って見ていた。
二回目。
三回目。
「入りはきれい」
晴が言う。
「でも回り始めてから右肩上がってる」
子どもが自分の肩を見る。
「ここ?」
「そう。たぶん怖くて上げてる」
「怖くない」
「じゃあ癖」
子どもがむっとする。
晴は笑った。
「もう一回やってみて」
そのやり取りを見て、惟人は少しだけ口元を緩めた。
昔と同じだ。
言い方が少し柔らかくなっただけで、本質は変わっていない。
晴は見ている。
ずっと。
細かいところまで。
そして、何より不思議なのは、そのことを本人が楽しんでいるように見えることだった。
最初にリンクへ入ったとき、晴の顔には明らかな緊張があった。
氷の音を聞いた瞬間、歩く速度が落ちた。
リンクへ座ってからもしばらくは、大きなジャンバーの中へ身体を隠すようにしていた。
けれど今は違う。
フードは少し後ろへずれている。
前髪の隙間から見える目は、ずっとリンクの上を追っている。
身体も少し前へ出ている。
近づこうとしているつもりはないのだろう。
それでも晴は、いつの間にか最初に座っていた椅子から数メートルもリンク側へ移動していた。
惟人はそのことを指摘しなかった。
今はまだ。
自分で気づかないままの方がいい気がした。
しばらくすると、レッスンの一区切りを知らせる声がかかった。
子どもたちは一度リンクの中央へ集められる。
晴のところにいた子たちも名残惜しそうに戻っていった。
急に静かになったリンクサイドで、晴は少しだけ息を吐いた。
そこで初めて、自分がかなり長い時間立っていたことに気づいたらしい。
足元を見てから、近くの椅子へ腰を下ろす。
惟人が水を一本持ってきた。
「疲れた?」
「ちょっと」
晴は素直に受け取った。
キャップを開け、一口飲む。
「子ども、元気だね」
「お前も昔あんなだっただろ」
「僕、もっといい子だったよ」
「どの口が言ってんだ」
晴が笑った。
惟人も少し笑う。
こういうやり取りだけなら、二年前とほとんど変わらない。
それが嬉しい。
けれど、その嬉しさに浮かれて余計なことを言わないよう、惟人は少し慎重になった。
晴が自分からリンクを見た。
自分から子どもへ声をかけた。
自分から立ち上がった。
それだけで十分だった。
「どうだった?」
惟人が聞く。
晴は水のボトルを膝の上で転がしながら、少し考えた。
「何が?」
「教えるの」
晴はすぐには答えなかった。
視線をリンクへ戻す。
子どもたちは今、コーチの説明を聞いている。
さっきサルコウを跳んだ少年もいる。
ダブルアクセルを降りた女の子もいる。
「面白かった」
ぽつりと言う。
その答えを聞いて、惟人は胸の奥が少し動くのを感じた。
けれど表情には出さない。
「そう」
それだけ答えた。
晴は少し不思議そうに惟人を見る。
もっと何か言われると思っていたのかもしれない。
「何」
「いや」
惟人は肩をすくめた。
「別に」
晴は少しだけ疑うような目をしたが、それ以上追及しなかった。
そのとき、さっきの少年がリンクの中から大きく手を振った。
「ねえ!」
晴がそちらを見る。
「何?」
「明日もいる?」
あまりに直接的な質問だった。
晴は困った。
「僕?」
少年が頷く。
「先生じゃないけど」
「でも来る?」
晴はすぐには答えられなかった。
明日。
その言葉が、急に具体的だった。
今日たまたま来ただけ。
本当なら、それで終わるはずだった。
けれど少年は、明日もいるのかと聞く。
それはつまり、自分がここにいる未来を当然のように想定しているということだった。
晴は少し困った顔で惟人を見る。
惟人は笑いをこらえるようにしていた。
「俺に聞くなよ」
「だって惟人の教室でしょう」
「来たきゃ来れば」
あまりにも簡単に言われて、晴は一瞬黙った。
来たきゃ来れば。
そんなふうに選択肢を渡されるのは、久しぶりだった。
この二年間、ほとんどのことは「しなければならない」で決めてきた。
仕事へ行かなければならない。
金を返さなければならない。
安いものを買わなければならない。
できるだけ休んではいけない。
何かを「したいからする」余地は、ほとんどなかった。
晴はもう一度リンクを見る。
少年がまだこちらを見ている。
「分かんない」
晴が答えた。
「明日考える」
少年は少し不満そうだったが、それでも「来てね」と言ってまた練習へ戻った。
晴はその背中を見ながら、小さく笑った。
惟人は隣で何も言わなかった。
しばらくして、晴の方から口を開く。
「ねえ、惟人」
「何」
「ここって、いつもこんな感じ?」
「だいたい」
「毎日?」
「曜日によるけどな」
「ふうん」
晴はまたリンクを見る。
そこから先は聞かなかった。
けれど惟人には、それで十分だった。
興味がある。
少なくとも、晴は今、この場所について知ろうとしている。
それだけでいい。
やがてレッスンが終わり、子どもたちが順番にリンクを上がり始めた。
晴はまたフードを深く被った。
さっきまで夢中になっていたせいで、少し顔が見えすぎていたことに今さら気づいたらしい。
「危なかった」
小声で言う。
「何が」
「普通に顔出してた」
「誰も気づいてない」
「子どもってフィギュア詳しいでしょう」
「お前の顔見る余裕ないくらい自分のジャンプでいっぱいいっぱいだよ」
「それもそうか」
晴は納得したようだった。
それでも、帰るときはまた大きなジャンバーへ顔を埋めた。
関係者入口へ向かう途中、惟人は一度だけ後ろを振り返った。
晴はついてきている。
少し疲れた様子はある。
けれど、病院を出たときとは顔が違った。
何かが軽い。
たぶん本人はまだ、その違いに気づいていない。
車へ戻り、晴が助手席へ座る。
シートベルトを締めてから、少しだけ黙っていた。
エンジンをかける前に、惟人が聞く。
「楽しかった?」
晴は窓の外を見たまま、すぐには答えなかった。
さっき一度、「面白かった」と言った。
だから同じ答えを繰り返すだけでもよかったはずだ。
けれど少しして、晴は小さく笑った。
「……うん」
その一言は、さっきより少し素直だった。
惟人はそれ以上何も言わず、エンジンをかけた。
今はまだ、氷へ乗らなくてもいい。
見ているだけでもいい。
誰かに教えるだけでもいい。
晴が自分からもう一度ここへ来たいと思えるなら、それで十分だった。
惟人はそう思った。
少なくとも、その時点では。




