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春待氷  作者: りん
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第六章 リンクの外から


病院を出たあと、二人は予定どおり(はる)の自転車を取りに向かった。


昼前の道路は朝ほど混んでおらず、車は比較的スムーズに進んでいた。病院での診察が思っていた以上に長くなったせいか、晴は助手席で少し疲れた顔をしていたが、それでも「先に自転車だけ取っちゃいたい」と言った。


惟人(いと)としては、食事を先にしてもよかった。


むしろ病院を出てすぐ「お腹空いた」と言ったくらいなのだから、どこかへ入って食べさせる方がいいと思っていた。


それでも晴が先に自転車を、と言うのなら、いったん従うことにした。


ただし惟人には、もう一つだけ確かめておきたいことがあった。


昨日は、再会したことそのものに気持ちが追いついていなかった。


交差点で晴を見つけ、二年ぶりに声を聞き、そのまま仕事を終えるまで待って、四畳半の部屋へ行った。


部屋の狭さも、共同の風呂とトイレも、最低限しかない家具も、すべて見たはずだった。


けれど、あのときの惟人は、晴が目の前にいるという事実だけで精一杯だった。


だから今日は、もう少し冷静に見ておきたかった。


晴が、どんな場所で、どんな生活をしていたのか。


それを自分の中できちんと現実として受け止めたかった。


アパートに着くと、晴は昨日と同じように建物脇へ回り、自転車の鍵を外した。


「これで終わり」


晴は何でもないように言った。


けれど惟人は、そのまま帰ろうとはしなかった。


「部屋、ちょっと寄るぞ」


晴が振り返る。


「何か忘れた?」


「俺が見たい」


「何を」


「冷蔵庫」


その言葉に、晴は少しだけ嫌そうな顔をした。


「なんで?」


「いいから」


惟人がそう言うと、晴はしばらくこちらを見たあと、諦めたように小さく息を吐いた。


二階へ上がり、昨日と同じ扉を開ける。


昼間に見ると、部屋は夜よりさらに狭く感じた。


窓から差し込む光だけで、四畳半の全体が簡単に見渡せてしまう。


そこにあるのは、布団と折り畳み机、収納ケース、小さな冷蔵庫くらいだった。


昨日持ち出した三つの箱がなくなった分、部屋の隅には妙に大きな空白ができていた。


惟人は靴を脱ぎ、何も言わずに冷蔵庫を開けた。


後ろから、晴が少し不満そうに言う。


「勝手に見るんだ」


「今さらだろ」


中に入っていたのは、水と調味料、半分ほど残ったペットボトルの茶、それからスーパーの小さな総菜パックが一つだけだった。


それ以上は、本当に何もなかった。


惟人はしばらく黙って中を見たあと、静かに扉を閉めた。


予想していたはずだった。


昨夜、一日五百円程度しか食費に使っていなかったと聞いている。


だから驚くようなことではない。


それでも、実際に見ると、言葉で聞いたときとは違う重さがあった。


晴は毎日、この冷蔵庫を開けていたのだ。


何もないことを分かったうえで。


腹が減れば、その日に安く買えるものを探す。


あるいは、買わずに済ませる。


それが晴にとっては、もう特別なことではなくなっていた。


惟人はそのことを、冷蔵庫の中身を見て初めて具体的に想像した。


「昨日、聞いたでしょう」


晴が後ろから言う。


「聞くのと見るのは違う」


惟人が答えると、晴は少しだけ困ったような顔をした。


「でも、もういいよ」


その言葉が何を意味しているのか、惟人にはすぐ分からなかった。


この生活はもう終わった、と言いたいのか。


それとも、これ以上見なくていい、と言いたいのか。


おそらく晴自身も、そこまで明確に言い分けているわけではないのだろう。


惟人は部屋をもう一度見回したあと、今度こそ自転車を外へ運び出した。


車へ積めるように手配を済ませ、晴を振り返る。


「次、服」


案の定、晴はすぐ眉を寄せた。


「いらないよ」


「いる」


「昨日持ってきたのあるでしょう」


「少ない」


「洗えばいいじゃん」


「俺の服もある」


「じゃあ買わなくていいじゃん」


晴には晴なりに、一応筋の通った理屈があるらしい。


惟人は一度口を閉じた。


着るものがあるかないかだけで言えば、確かに自分の服を貸せば済む。


けれど、昨夜からずっと気になっている。


晴が惟人の服を着ると、あまりにも余る。


肩が落ち、袖は指先まで隠れ、パンツも腰で止まりそうにない。


昔から多少サイズ差はあったが、こんなではなかった。


「今のお前のサイズ、分かんないだろ」


「適当に着られるよ」


「適当にするな」


「服だよ?」


「だからだよ」


晴は納得していない顔をした。


それでも、惟人が一度決めたら簡単には引かないことを、晴は昔から知っている。


結局、何度か文句を言いながら車へ乗った。


服を買う場所は、惟人が普段使うような高級店ではなく、ごく普通のショッピングモールにした。


高いものを選べば、晴が余計に嫌がることは分かっていたからだ。


ところが店へ入ってすぐ、晴は値札を見て「高い」と言った。


「これ普通だから」


「僕、もっと安いのでいい」


「お前の基準がおかしくなってる」


「でもTシャツにこの値段?」


「するよ」


「コンビニのおにぎり何個分だと思ってるの」


惟人は聞かなかったことにした。


正面から受け止めると、また腹が立つ。


晴は服そのものに興味がなくなったわけではないようだった。


色を見るし、形も見る。


けれど、その前に必ず値札を見る。


その順番が、惟人には少し悲しかった。


競技時代の晴は、普段着にはそこまでこだわらなかったものの、自分に何が似合うかはよく知っていた。


衣装に関してはなおさらだった。


振付や音楽との相性が悪ければ、かなり容赦なく意見を言った。


この布は腕を上げたとき変だとか、この色は照明で沈むとか、襟はいらないとか。


あれだけ自分の見え方に敏感だった人間が、今は何より先に値段を見る。


そこにも二年間がある。


惟人は何着か選んで、晴へ渡した。


「試してこい」


「全部?」


「全部」


晴は仕方なさそうに試着室へ入った。


少しして、カーテンが開く。


シンプルなニットと細身のパンツを着た晴が出てきた。


惟人は一瞬、言葉が出なかった。


服そのものは似合っている。


晴は昔から、何を着てもそれなりに見える。


けれど、サイズが合っていない。


かなり細身の作りを選んだつもりだったのに、腰にはまだ余裕があり、肩も布を十分に押し返していない。


現役時代なら、もっと違った。


衣装の上からでも分かった身体の厚みが、今はない。


「これでもちょっと大きいね」


晴が鏡を見ながら言った。


「もう一個下かな」


「……そうだな」


晴は少し考えてから、冗談めかして言った。


「子どものでも入りそう」


惟人は思ったより強い声で返した。


「そういうこと言うな」


晴が鏡越しにこちらを見る。


「冗談だよ」


「面白くない」


その言い方に、晴は少しだけ黙った。


それから、改めて鏡の中の自分を見る。


たぶん本人も、初めて少し意識したのだろう。


痩せた、というだけではない。


競技をしていた頃と比べて、身体の輪郭そのものが変わっている。


惟人は何も言わなかった。


晴も、それ以上何も言わなかった。


結局、何着か買った。


晴は最後まで「こんなにいらない」と言っていたが、惟人は聞かなかった。


買い物を終えた頃には、晴がまた「お腹空いた」と言い出した。


その言葉を聞くたびに、惟人は少し安心するようになっていた。


腹が減る。


食べたいと思う。


そんな当たり前のことが、今の晴に関してはありがたい。


「うどんって言ってたな」


「うん」


二人は近くの店に入った。


晴は温かいうどんを頼んだ。


最初は普通に食べていたが、途中から少しずつ箸が遅くなった。


昨日なら、惟人が止めるまで無理に食べようとしたかもしれない。


けれど今日は、晴の方から途中で箸を置いた。


「残す」


少し申し訳なさそうに言う。


「いいよ」


「あとでお腹空くかも」


「そしたらまた食えばいい」


晴は少し笑った。


「贅沢だね」


その言葉に、惟人は一瞬返事を失った。


食べきれなかったら、あとでまた食べる。


それが晴にとっては、もう贅沢になっている。


けれど今日は、その言葉に怒るのをやめた。


「そういう贅沢はしろ」


それだけ言うと、晴は少しだけ目を細めた。


食事を終え、再び車に乗る。


晴は買った服の袋を足元へ置きながら、何気なく聞いた。


「次どこ?」


惟人は少しだけ迷った。


最初から言うつもりではなかった。


言えば、晴が行かないと言う可能性があると思っていたからだ。


「ちょっと寄るところある」


「どこ」


「俺の仕事場」


晴はそこで初めて少し興味を持ったようだった。


「教室?」


惟人が横を見る。


「知ってたのか」


「ニュースで見たよ」


そう言われて、惟人は思い出す。


晴は失踪していた二年間も、自分の試合を見ていた。


オリンピックも、世界選手権も。


ならば教室を始めたことを知っていても不思議ではない。


それでも、晴の口から「教室」という言葉を聞くと妙な感覚があった。


自分が晴のいない間に作った場所へ、今から晴を連れていく。


「今日はそんなに人いないから」


惟人が言うと、晴は少し首を傾げた。


「僕、行って大丈夫?」


その問いに、惟人は少し考えた。


晴は有名だ。


有名という言葉では足りない。


男子フィギュアを少しでも知っている人間なら、九条晴の顔を知らない方が珍しい。


五輪金メダリスト。


世界王者。


そして、二年前に突然姿を消した選手。


普通の入口から入れば、まず間違いなく気づかれる。


「表からは入らない」


「裏口?」


「関係者入口」


そう答えてから、惟人は後部座席に置いてあった自分のジャンバーを晴へ渡した。


厚手の、かなり大きなものだった。


「着ろ」


晴はそれを見た。


「暑くない?」


「リンク寒い」


「でもこれ惟人の」


「だから?」


晴は少し笑う。


「大きいよ」


「知ってる」


結局、晴は素直に袖を通した。


予想どおり、かなり大きい。


肩が落ち、袖からはほとんど指先しか出ない。ファスナーを上まで上げると、顎のあたりまで布に埋まった。


さらに、晴の髪は以前よりかなり伸びていた。


伸ばしているというより、きちんと美容院へ行く余裕もなく、自分で適当に切っていたらしい。


前髪の長さは揃っておらず、顔の半分近くに落ちている。


そこへ惟人の大きなジャンバーを着せると、鼻から上と髪くらいしかまともに見えなかった。


「怪しい」


晴が言う。


「その方がいい」


「僕、犯罪者みたいじゃない?」


「バレるよりいいだろ」


晴は少し考えてから、フードまで被った。


「これなら?」


惟人は思わず笑う。


「余計怪しい」


晴も少し笑った。


関係者入口から入り、必要なスタッフにだけ軽く挨拶をする。


惟人が連れてきた人間というだけで、深く詮索する者はいなかった。


それに、大きなジャンバーと伸びた髪のせいで、顔もほとんど見えていない。


晴だと気づく者はいなかった。


リンクへ近づくにつれて、空気が少しずつ変わっていく。


晴は、それにすぐ気づいた。


冷たい。


少し湿った空気。


独特の匂い。


そして、ブレードが氷を削る音。


テレビや動画で聞く音とは違う。


実際のリンクの音は、もっと近い。


薄い壁一枚の向こうで、刃が氷へ食い込む。


削れる。


滑る。


止まる。


その一つ一つが、耳ではなく身体の奥へ直接入ってくるようだった。


晴の歩く速度が、ほんの少しだけ遅くなった。


惟人はすぐに気づいた。


けれど、何も言わなかった。


振り返って顔を覗き込むこともしない。


ただ少し前を歩き、晴がついてきているかだけを確認する。


リンクへ入ると、数人の子どもが練習していた。


一般営業時間ではなく、教室のレッスン枠だった。


保護者もほとんどいない。


スタッフとコーチ。


そして子どもたち。


それだけだった。


晴はリンクサイドの隅に座った。


惟人の大きなジャンバーへ身体を埋め、フードを少し深く被る。


遠目から見れば、惟人の知人が見学に来ている程度にしか見えない。


惟人はすぐに仕事へ入った。


子どもたちへ声をかける。


エッジ。


姿勢。


スピン。


ジャンプ。


教えている惟人を見るのは、晴にとって少し新鮮だった。


けれど、意外ではなかった。


昔から惟人は、人に何かを説明するのが上手かった。


晴が感覚でやっていることを、惟人は言葉に変える。


もっと早く。


そこは遅い。


エッジが浅い。


身体が開いてる。


そういうことを、昔から平然と言った。


晴はそのたびに「うるさい」と返していたが、今思えば、あれはそのまま指導者向きの性質だったのだろう。


しばらくは、晴もただ見ていた。


惟人が子どもにどう声をかけるのか。


どんなところを直すのか。


教室の空気はどんなものなのか。


それだけを見ていたつもりだった。


ところが、少しずつ目が氷の上を追うようになった。


誰がどのジャンプを練習している。


どこで失敗する。


踏み切りがどうなっている。


エッジが浅い。


助走が遅い。


回転へ入る前に身体が開く。


見ようと思わなくても分かる。


二十年近く、毎日のように見てきたものだからだ。


自分のジャンプだけではない。


惟人のジャンプ。


コーチの見本。


他の選手。


試合。


練習。


ずっと見続けてきた。


身体が氷から離れていても、目まで全部忘れるわけではなかった。


そのうち、一人の少年がリンクサイドへ上がってきた。


小学生くらいだろうか。


さっきから何度もジャンプを失敗している子だった。


レッスンの合間に水を飲みに来たらしい。


そして隅に座っている晴を見つけた。


「先生?」


晴は少し驚いて、自分を指した。


「僕?」


少年が頷く。


「先生じゃないよ」


「でも榊先生の知り合いでしょう?」


「そうだけど」


少年は少し迷ったあと、晴へ聞いた。


「ルッツ、どうしたら跳べる?」


晴はすぐには答えなかった。


なぜ自分に聞くのだろうと思う。


たぶん深い理由はない。


ただそこに、榊惟人と一緒にいる大人がいた。


だから聞いただけなのだろう。


けれど晴は、さっきから少年のジャンプを何度か見ていた。


ルッツを跳ぼうとしている。


何度も。


そして、うまくいっていない。


「ルッツより、今はサルコウの方が跳びやすいと思うよ」


晴がそう言うと、少年は少し不満そうな顔をした。


「サルコウも跳べない」


「そっか」


晴は少し笑った。


「じゃあ、やってみて」


少年はリンクへ戻った。


少し助走をつける。


踏み切る。


回転が足りず、着氷で大きく崩れた。


晴は黙って見ていた。


もう一度。


同じ。


三度目も、やはりうまくいかない。


少年はリンクサイドへ戻ってきて、不満そうに言った。


「ほら、できない」


晴はすぐには答えなかった。


頭の中で、さっきの三本をもう一度思い返す。


踏み切りそのものが致命的に悪いわけではない。


むしろ、問題はその前にある。


助走に入るときは速度があるのに、踏み切りを意識した瞬間に身体が固まり、最後の一歩で自分からスピードを殺してしまっている。


怖いのだろう。


跳ぼうとしすぎている。


「助走、遅いかも」


晴が言うと、少年はすぐに反論した。


「速くしてる」


「最初はね。でも最後で止まってる」


少年は意味が分からないような顔をした。


言葉だけでは伝わらないらしい。


晴はリンクの向こう側を指さした。


「あっちから来て」


少年が振り返る。


「もっと遠く?」


「うん。そっちの端から」


少年は言われた通り、リンクの反対側へ移動した。


晴は座ったまま見ていたが、少年が滑り出した途端、無意識に少し前へ身を乗り出した。


「もっと早く」


声が飛ぶ。


少年が速度を上げる。


「そう。そのまま落とさないで」


晴の目は、もう完全にジャンプへ向いていた。


助走。


エッジ。


身体の位置。


タイミング。


少年が踏み切りへ入りかける。


少し早い。


「まだ」


少年が一瞬待つ。


もう一歩。


今ならいける。


「そう、今」


少年が踏み切った。


回る。


着氷で一瞬身体が揺れた。


けれど、今度は立った。


少年自身が一番驚いた顔をしていた。


数メートル滑ったところで止まり、自分の足を見てから、すぐ晴を振り返る。


「跳べた!」


声がリンクへ響いた。


晴も少し目を見開いた。


「うん」


少年は嬉しそうに滑って戻ってくる。


「もう一回!」


「いいよ」


その返事は、晴自身が思っていた以上に自然に出た。


少年がもう一度リンクの向こう側へ向かう。


晴は今度は立ち上がっていた。


自分でも気づかないまま、リンク際まで近づいている。


惟人の大きなジャンバーの袖から、指先だけが出ていた。


「今度はさっきより力入れなくていいよ。速度あるから、そのまま乗って」


少年が頷く。


滑り出す。


「肩開かないで。そう、そのまま」


さっきより速い。


晴は少年の軌道を目で追う。


踏み切りの一歩前。


身体の位置も悪くない。


「今」


少年が跳ぶ。


今度は、さっきよりずっと綺麗に降りた。


リンクの中で少年が笑う。


晴も、気づかないうちに笑っていた。


少し離れたところで、惟人がその一部始終を見ていた。


声はかけなかった。


晴は大きなジャンバーに身体を埋め、伸びた髪で顔の半分を隠し、リンクの外に立っている。


二年前までとは、何もかも違う。


身体も。


立場も。


今いる場所も。


けれど、子どもの助走を見て、踏み切りを見て、ほんの数本でどこが悪いのかを見抜く。


速度を変え。


距離を変え。


タイミングを変える。


そうして、実際に跳ばせる。


そのときの晴の目だけは、昔と何も変わっていなかった。


二年間、晴は氷から離れていた。


それでも、氷の上で積み重ねたものまで、全部なくなったわけではない。


むしろ惟人には、晴がリンクの外に立っているからこそ、そのことがはっきり見えた。


晴はもう自分をスケーターだと思っていないのかもしれない。


四回転も、競技も、過去に置いてきたつもりなのだろう。


けれど、少なくとも今この瞬間。


晴の目は、完全にスケーターの目だった。


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