第五章 身体
病院へ向かう車の中で、晴は何度か「本当に行くの?」と聞いた。
そのたびに惟人は最初の一度だけ「行く」と答え、二度目からは聞こえないふりをした。晴も本気で逃げ出すつもりがあるわけではなかったらしく、それ以上強く抵抗することはなかったが、助手席に座ったままどこか納得のいかない顔で窓の外を眺めている。
病院へ行くほどではない、と晴は本当に思っていた。
熱があるわけでも、どこかが痛むわけでもない。自転車には何時間でも乗れるし、夜の仕事では長時間立っていられる。荷物だって運べる。昔より疲れやすくなったとは思うし、寒さに弱くなった気もする。仕事から帰って布団へ入った瞬間に、身体が鉛のように重く感じる日もあった。
けれど、それは単に働いているからだと思っていた。
競技をしていた頃だって、毎日疲れていた。今は練習の代わりに仕事をしている。それだけの違いだと、晴の中ではずっと処理されていた。
「大丈夫なのに」
また小さく呟くと、惟人は前を向いたまま言った。
「その台詞、病院で先生に言えよ」
「言うよ」
「ぜひ言え」
「惟人、大げさなんだよ」
「俺が大げさかどうかは医者が決める」
そこまで言われると、晴も返す言葉がなくなったらしい。口を閉じ、また窓の外へ視線を戻した。
朝の道路はまだ混んでいて、信号のたびに車が止まる。惟人はそのたび無意識に隣を見た。
昨日再会してから、何度晴の身体を見ただろう。
顔、肩、手首、脚。
見れば見るほど、違和感は増える。
晴は昔から細かった。衣装を着れば華奢にすら見えたし、リンク上でのあの繊細な印象も、細い身体つきと無関係ではなかったと思う。
けれど惟人は知っている。
衣装の下に、どんな身体があったのか。
四回転ルッツを跳ぶ脚。着氷で流れを殺さない臀部と体幹。スピンの軸を最後まで崩さない背中。深いエッジを踏み続けるための腿と足首。見た目の細さとは裏腹に、晴の身体は世界最高峰の競技を支えるために作られていた。
今は、その厚みがない。
服を着てしまえば、ただ痩せた男に見えるかもしれない。けれど惟人には分かった。肩が薄くなり、腰回りが細くなり、脚も明らかに痩せている。昨日、ふらついた晴の腕を掴んだときの感触も、記憶よりずっと軽かった。
その変化のすべてに、二年間が残っているように思えた。
しかも本人だけが、それを異常だとは思っていない。
そこが惟人には一番怖かった。
病院は、惟人が競技生活の中で何度も世話になってきたスポーツ医学系のクリニックだった。一般の患者も診るが、アスリートの身体を長く見ている医師がいて、現役時代の惟人も何度か診察を受けている。
事前に惟人が連絡を入れていたため、受付を済ませるとそれほど待たずに名前を呼ばれた。
診察室へ入った晴は、少しだけ居心地が悪そうだった。
白衣の医師は五十代くらいの男性で、惟人のことも以前から知っている。軽く挨拶を交わしたあと、電子カルテを開き、晴へ向き直った。
「榊くんから少し聞いています。九条さんですね」
「はい」
晴は素直に頭を下げた。
そこからは、ごく普通の問診だった。現在の仕事や生活時間、食事、睡眠、競技をやめてからどの程度身体を動かしているのかを一つずつ聞かれ、晴はそのたびに答えていく。
フードデリバリーに夜の店、倉庫や配送の仕事。食事は一日一回か二回で、朝はほとんど食べない。食費はできるだけ抑えている。睡眠は日によって違い、短い日は三、四時間程度。
一つ一つだけ聞けば、極端な話ではないようにも思える。
けれど、それらが同じ人間の生活として並び始めると、印象はまるで違った。
医師の表情が少しずつ変わっていくのを、惟人は横から見ていた。
昨夜も今朝も似たような話を聞いたばかりなのに、第三者へ向けて晴が淡々と説明するのを聞いていると、改めて異常さが際立つ。
一日数百円程度の食費。
複数の仕事。
睡眠不足。
それが短期間ではなく、かなり長く続いている。
「現役時代の体重はどれくらいでした?」
医師が聞いた。
「六十くらいです」
「今は?」
晴は少し首を傾げた。
「最近、測ってないです」
「では一度測りましょう」
言われるまま、晴は靴を脱いで体重計に乗った。
表示された数字を見て、本人が一番先に少し驚いた顔をした。
「……四十九」
惟人は何も言わなかった。
予想していた。
それでも、数字になると重い。
現役時代から十一キロ。
晴はもともと、余分な脂肪が多い身体ではない。それだけ落ちたということは、脂肪だけではなく筋肉までかなり失っている可能性が高い。
医師も同じことを考えたらしく、表示を確認してから少し慎重な口調になった。
「かなり落ちていますね」
晴は曖昧に笑った。
「仕事してたら痩せて」
「これは単純に『痩せた』とは考えない方がいいです」
その言い方に、晴の表情が少し変わった。
医師は続ける。
「九条さんは元々トップレベルの競技者だったわけですよね。そういう方は一般の同年代男性より筋量がかなり多かった可能性があります。十一キロ落ちたとして、その全部が脂肪ということはまずないでしょう。かなりの割合で筋肉も落ちていると考えた方が自然です」
晴は無意識に自分の腕を見た。
まるで、言われて初めてそこにある細さを意識したようだった。
「でも、普通に働けてます」
晴がそう言うと、医師は少しだけ笑った。
「働けることと、健康なことは別です」
晴が黙る。
「自転車に乗れる、歩ける、立っていられる。それは日常生活の能力としては大事です。でも、以前の九条さんはトップアスリートだった。そこからどれくらい失われたかは、普通に生活できているかだけでは判断できません」
惟人はその言葉を聞きながら、そうだと思った。
晴は「生活できている」ことを基準に自分を見ている。
けれど惟人は、「あの身体がどうなったか」で見ている。
その違いは大きかった。
診察はそのあとも続いた。
血圧や脈拍。身体診察。採血。
医師は、鉄やビタミン類、電解質、肝機能や腎機能、甲状腺、ホルモン系などを確認すると説明した。
晴はそこまでは素直に聞いていたが、
「骨密度も一度見ておきましょう」
と言われたところで、初めて少し驚いた顔をした。
「骨ですか?」
「はい。長期間、摂取エネルギーが足りない状態が続くと、筋肉だけでなく骨にも影響が出ることがあります。九条さんは元々ジャンプ競技をしていたので、競技復帰するしないに関係なく、今の骨の状態は確認しておいた方がいいです」
その説明を聞いている途中で、惟人が自然に口を挟んだ。
「もしまた滑るなら、ジャンプはかなり慎重にした方がいいってことですよね」
医師は頷いた。
「そうですね。特に高難度ジャンプをいきなりというのは避けるべきです。筋肉だけではなく、骨や腱への負担もありますから」
その会話を聞いていた晴は、少し不思議そうな顔をした。
「大丈夫だよ」
惟人がそちらを見る。
「何が」
「ジャンプ」
晴は何でもないことのように言った。
「もう跳ばないよ」
その瞬間、惟人はすぐに返事ができなかった。
聞こえなかったわけではない。意味が分からなかったわけでもない。ただ、その言葉が晴の口から出たものとして頭に収まるまで、少し時間がかかった。
「四回転とか、もう跳ぶことないし。だからそこはそんなに心配しなくても大丈夫」
晴は、本当にそう思っているらしい。
そこに悲壮さも、強がりもなかった。
競技を辞めた。
なら、四回転を跳ぶ必要もない。
晴にとっては、それだけの話だった。
医師は二人の事情を詳しく知っているわけではないから、特にその言葉を深く拾うこともなく、
「競技復帰を予定していなくても、日常生活や将来のために身体を戻していく必要はありますよ」
と穏やかに説明した。
晴も素直に頷く。
「はい」
その横で、惟人だけがさっきの言葉に引っかかったままだった。
もう跳ばない。
晴にとって、それは当然なのだ。
スケートをやめた。
競技をやめた。
だから四回転を跳べる身体に戻る必要もないし、そこへ戻るという発想そのものがない。
そのことを知って、惟人は初めて、自分と晴の間に大きなズレがあることをはっきり自覚した。
自分は昨日、晴を見つけた瞬間から、どこかで「元に戻せる」と思っていたのかもしれない。
食べさせる。
眠らせる。
身体を戻す。
そうすれば、また以前の晴に戻る。
そこまで意識して考えたわけではない。
けれど、心のどこかには確かにそういう期待があった。
九条晴はスケーターで、氷の上にいるのが当たり前で、四回転ルッツを跳び、音楽そのもののように滑る。
惟人の中では、それがずっと晴だった。
でも晴自身は、もうその自分を過去に置いてきている。
競技者としての九条晴を失ったことを、惟人よりずっと前に受け入れている。
その事実が、思っていた以上に胸へ重く残った。
診察が終わる頃には、今日からまず意識することもいくつか決められていた。
食事回数を増やすこと。
睡眠時間を確保すること。
急に運動量を増やさないこと。
検査結果次第では栄養指導も受けること。
晴は意外なくらい素直に聞いていた。
診察室を出て廊下を歩き始めてから、少しして晴が惟人の横顔を見た。
「惟人」
「何」
「そんな顔しなくても」
惟人は少しだけ足を緩めた。
「どんな顔」
「怒ってるみたいな」
言われて初めて、惟人は自分がどんな表情をしていたのか意識した。
怒っているのかもしれない。
ただ、晴に対してではない。
何に怒っているのか、自分でもうまく言葉にできなかった。
二年間という時間にか。
晴が一人で抱え込んだことにか。
自分が何も知らなかったことにか。
それとも、もう跳ばないとあまりにも自然に言った晴に対してか。
どれも少しずつ違う気がした。
「別に」
結局、それだけ答えた。
晴は納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
病院を出ると、朝よりも少し暖かくなっていた。
晴が眩しそうに空を見上げる。
しばらく歩いてから、突然言った。
「お腹空いた」
惟人は思わず晴を見る。
さっきまで胸の中に重く残っていたものが、その一言でほんの少しだけほどけた気がした。
「何食いたい」
晴は少し考えた。
「うどん」
「じゃあ行くか」
「病院のあとって、なんかうどん食べたくならない?」
「知らない」
「僕だけ?」
「たぶんな」
そんな、どうでもいい会話をしながら二人は歩き出した。
晴は普通に歩いている。
笑っている。
腹も減る。
昨日まで仕事もしていた。
だからこそ、さっき医師に言われたことが現実味を持って残る。
見た目ほど単純な話ではない。
身体は動いている。
けれど、元世界王者としてあったはずのものは、確実に失われている。
そして何より、晴自身はそれを取り戻すつもりがない。
惟人は隣を歩く晴を見た。
今すぐ何かを変える必要はない。
昨日見つけたばかりなのだ。
まずは食べて、眠って、身体を戻す。
それでいい。
それでも、惟人の中にはどうしても消えない願いが一つだけあった。
競技に戻ってほしいわけではない。
四回転を跳んでほしいわけでもない。
ただ、もう一度。
九条晴が氷の上を滑るところを見たい。
その願いだけは、まだ晴には言わなかった。




