第四章 朝
晴が目を覚ましたとき、最初に見えたのは見慣れない天井だった。
白い天井に、カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が細く伸びている。どこかで車の走る音がして、遠くから生活の気配が聞こえてきた。それらをぼんやりと耳に入れながら、晴はしばらく、自分がどこにいるのか思い出せずにいた。
身体は重かった。
けれど、それは疲れ切って動けないときの重さとは少し違っていた。深く眠ったあとの、身体の奥まで力が抜けきったような感覚だった。
こんなふうに途中で何度も目を覚ますこともなく、まとまって眠ったのはいつ以来だろう。
仕事を掛け持ちするようになってから、睡眠はどうしても細切れになった。夜遅くまで働いて、そのまま数時間だけ眠って朝から配達に出ることもあったし、逆に昼間に配達を詰めて、夜から別の仕事へ行く日もあった。
もちろん、誰かに休むことを禁じられていたわけではない。休もうと思えば休めた。
ただ、休めばその日に稼げたはずの金が入らなくなる。それだけのことが、晴にはずっと大きかった。
多少眠くても、身体が重くても、動けるなら仕事へ行く。それを繰り返しているうちに、いつの間にかそれが当たり前になっていた。
晴はゆっくり身体を起こした。
借りたスウェットの袖が手の甲まで落ちているのを見て、昨夜のことが少しずつ戻ってくる。
交差点で惟人に見つかったこと。配達の途中だったこと。自分の四畳半の部屋へ戻り、三つの箱を見られたこと。惟人の家へ連れてこられて、風呂に入り、温かい雑炊を食べたこと。そして、父親のことを話した。
そこまで思い出して、晴はようやく今いる場所を理解した。
惟人の家だ。
思い出してしまえば、途端に部屋の空気まで違って感じられた。
昨夜、寝る前に惟人と少し揉めたことも思い出す。一緒に寝ればいいと言ったのに、惟人は頑なに断って、自分はソファで寝ると言い張った。
昔なら平気だったのに、なぜ駄目なのかは結局教えてくれなかった。
晴は隣へ視線を向けた。
もちろん、そこには誰もいない。惟人は自分で言った通り、リビングのソファで寝たはずだった。
分かっていたことなのに、本当に隣が空いているのを見ると、胸の奥に小さな空白ができた。
その感覚に、自分でも少し驚いた。
一人で眠ることには、もう慣れている。この二年間、ずっと一人だった。四畳半の部屋で一人布団に入り、朝になれば一人で起きる。隣に誰かがいることを期待することもなく、それが普通だった。
それなのに昨夜は惟人がいた。
昔みたいに怒られて、昔みたいに話をして、昔みたいにすぐ近くにいたから、晴も昔と同じように一緒に眠ればいいと思った。
それだけだったはずなのに、隣にいないことが少しだけ寂しい。
晴はその感情を持て余すように、しばらく空いた枕を眺めていた。
そのとき、寝入る直前のことをふと思い出した。
額にかかった髪を、誰かがそっと払った気がする。
ほとんど眠りかけていたから、夢だったのかもしれない。それでも、あれはたぶん惟人だったのだろうと思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
晴はベッドから下りた。
床へ足をつけると、身体はまだ少しふらついたものの、昨日よりはましだった。少なくとも、空腹で頭の中に薄い膜が張ったようにぼんやりする感じはない。
それだけでも、ずいぶん違う。
寝室を出て廊下を進み、リビングへ入ると、惟人はすぐに見つかった。
本当にソファで寝ていた。
長い身体を無理に収めるように横になり、片腕は床へ落ち、脚も少しソファからはみ出している。どう見ても寝やすそうには見えなかった。
晴はしばらく、その姿を眺めた。
昔の惟人なら、絶対に嫌がったと思う。
競技者として身体を大事にすることについては、惟人は昔から徹底していた。遠征先のホテルでも、枕が合わないだの、マットレスが柔らかすぎるだの、寝る前の室温がどうだのと、晴からすれば細かすぎると思うようなことまで平然と気にしていた。
そんな男が今は、自分をベッドへ寝かせるために、長い身体を窮屈なソファへ押し込んで一晩過ごしている。
「……ほんとにソファで寝たんだ」
思わず声に出していた。
一緒に寝ればいいと何度言っても、惟人は最後まで譲らなかった。
呆れる気持ちはある。
けれど、それと同じくらい、少しだけ嬉しかった。
そう思ってしまうことが何となく気恥ずかしくて、晴はその感情を深く考えないまま、眠っている惟人の近くへ歩み寄った。
惟人の寝顔を見るのは、本当に久しぶりだった。
いや、この二年間は寝顔どころか、惟人の顔そのものを直接見ることがなかった。
晴が知っていたのは、画面の向こうにいる惟人だけだった。
オリンピックでも、世界選手権でも、グランプリファイナルでも、惟人はいつも髪も衣装もきちんと整えられ、緊張の中にいる競技者の顔をしていた。スタートポジションに立てば余計なものを削ぎ落とし、演技が終わるまで一つ一つを正確に積み上げていく。
昔から変わらない、勝負をするときの惟人だった。
それが今は、少し寝癖をつけ、肩を縮め、片腕をソファから落としたまま窮屈そうに眠っている。
とても、世界の頂点に立っている選手には見えない。
晴はまた少し笑った。
昨日まで、惟人は自分とは別の世界にいる人だった。
ニュースで見て、大会の映像で見る人。
勝てばやっぱりすごいと思ったし、演技を見れば、まだこれだけできるのかと感心した。四年前に自分が立ったオリンピックの一番高い場所へ惟人が立ったときも、世界選手権でまた勝ったときも、晴は一人で画面を見ながら、やっぱり惟人は強いなと思っていた。
けれど、それだけだった。
惟人の生活の中に晴はいなかったし、晴の生活の中にも惟人はいなかった。会うことも、話すこともなかった。
それが今は、手を伸ばせば届きそうな場所で眠っている。
その距離の近さが、どこか現実離れしていた。
「惟人」
晴は小さく呼んでみた。
返事はない。
もう一度名前を呼ぶと、今度は眉が少し動いた。惟人はゆっくり目を開け、まだ焦点の合わない目でしばらく天井を見てから、ようやく晴の姿を認めた。
「……晴?」
起き抜けの低い声だった。
その声を聞いた途端、なぜか晴は安心した。
「おはよう」
惟人は数秒ぼんやりしたあと、身体を起こそうとしてすぐに顔をしかめた。
一晩、自分の身体には明らかに小さいソファで寝たのだから当然だろう。腰か肩か、あるいは両方が痛いに違いない。
「身体、痛いでしょう」
晴が笑うと、惟人は寝起きのままこちらを睨んだ。
「誰のせいだよ」
「僕、一緒に寝ようって言ったのに」
「だから駄目だって言っただろ」
「なんで駄目なのかは、結局教えてくれなかったけど」
そう返すと、惟人は何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わずに首を回した。
晴はその様子を見ながら、少し申し訳なく思った。それでも、自分にベッドを譲ってくれたことを嬉しいと思う気持ちは消えなかった。
昔なら、それほど特別なことではなかったはずなのに。
二年間という空白があるだけで、こんな些細なことまで違って感じる。
惟人はようやくソファから立ち上がった。
まだ完全に目が覚めていないらしく、髪も少し乱れたままだった。それなのに晴を見るなり、最初に聞いたのは体調でも昨夜の話でもなかった。
「腹減った?」
晴は思わず吹き出した。
「昨日からそればっかり」
「いいから。減った?」
「ちょっと」
「じゃあ朝飯食え」
その言葉を聞いて、晴は少し戸惑った。
「今から?」
惟人が変な顔をする。
「朝なんだから今だろ」
「朝ごはんってこと?」
「それ以外何があるんだよ」
晴は時計を見た。
まだ八時を少し回ったくらいだった。
朝起きて、八時に朝食を食べる。
あまりにも普通のことなのに、それがひどく久しぶりに思えた。
仕事を掛け持ちするようになってから、食事は時間で取るものではなくなった。空腹になれば食べ、時間があれば食べ、安く買えるものがあれば食べる。逆に、時間も金も惜しければ後回しにする。
いつの間にか、それが普通になっていた。
「朝ごはんって、久しぶりかも」
何気なく言ったつもりだった。
けれど、惟人の顔から一気に眠気が消えた。
晴はその変化を見て、すぐに余計なことを言ったと思った。
昨夜から何度もそうだった。
晴にとってはすでに日常になってしまったことを口にするたび、惟人が傷ついたような顔をする。まるで、自分が思っているよりずっと大変なことを聞かされたみたいに。
「いや、ずっと食べてなかったって意味じゃないよ」
慌てて言い足したが、惟人は誤魔化されなかった。
「どれくらい朝飯食ってなかった」
晴は少し考えた。
正確に覚えているわけではない。朝食を抜くことを特別だと思わなくなってから、それがいつ始まったのかも曖昧だった。
「半年くらいかな」
惟人は何も言わなかった。
その沈黙が嫌で、晴はすぐに続ける。
「でも、お腹空いたらちゃんと食べてたよ。昼前とか」
「それ昼飯だろ」
「そうかな」
「そうだよ」
惟人は深く息を吐いた。
それ以上は何も言わず、キッチンへ向かう。
晴も反射的に立ち上がろうとした。
「手伝うよ」
「いい」
「何かする」
「座ってろ」
言い方は昔と変わらなかった。
一度こうだと決めた惟人は、晴が何を言ってもあまり聞かない。
晴は少しだけ不満だったが、結局大人しく椅子へ座った。
惟人は冷蔵庫を開け、卵や野菜、ヨーグルトを取り出し、パンを用意する。その動作には迷いがない。
晴はぼんやりと、その後ろ姿を眺めていた。
料理をしている惟人を見ることが、やはり少し不思議だった。
昔、料理がまったくできなかったわけではない。ただ、二人とも競技者だったから、自分たちで毎日の食事を適当に作るような生活ではなかった。
食事は身体を作るためのものだった。
遠征中ならホテルで出され、国内にいれば練習やトレーニングの環境に合わせる。必要があれば栄養士に相談し、試合前には何をどれだけ食べるかまで管理される。
そんな世界に長くいたから、キッチンに立って普通に朝食を作る惟人を見ると、晴はそこにも二年という時間を感じた。
自分が知らない間にも、惟人には生活があった。
競技を続け、三度目のオリンピックへ行き、金メダルを取った。その合間に料理だってするようになったのだろう。
自分が消えていた時間にも、惟人の人生はちゃんと進んでいた。
当たり前のことなのに、そう考えると胸の奥が少しだけ痛んだ。
「何」
突然声をかけられて、晴は我に返った。
「え?」
「さっきから見てる」
「惟人、料理うまくなったなと思って」
「昨日もそれ言ってた」
「ええー。だって、なんか不思議で。惟人が料理してるの」
晴は笑った。
あの頃のことは、妙に細かく覚えている。
どの大会で何点だったかよりも、遠征先のホテルで食べた焦げた卵焼きの味の方が鮮明だったりする。
大きな大会も、メダルも、記録も、もちろん忘れてはいない。
けれど本当に長く残っているのは、そういうものではないのかもしれない。
朝の光や、焦げた匂いや、くだらない言い合い。そして、その場にいつも惟人がいたこと。
少しして、朝食がテーブルに並んだ。
トーストに卵、温かいスープとヨーグルト。
何か特別な料理があるわけではない。
けれど晴には、それだけで十分すぎた。
スープから上がる湯気を見ているだけで、少し嬉しくなる。
惟人が向かいの椅子へ座った。
「全部食わなくていいからな」
「分かってる」
「昨日みたいに無理するなよ」
「分かってるって」
「本当に?」
晴は笑う。
「惟人、しつこい」
「お前が信用ないんだろ」
そう言われると、何も言い返せなかった。
晴はトーストを一口食べた。
温かくて、柔らかい。
ゆっくり噛んでいるうちに、身体の内側が少しずつ目を覚ましていく。
朝食というものは、こんなふうに時間をかけて食べるものだっただろうかと思う。
この二年間、食べることは生きるための作業に近かった。腹が減れば安いものを買い、時間がなければ後回しにする。食事そのものを楽しむことは、いつの間にかほとんどなくなっていた。
けれど今は、向かいに惟人がいる。
自分より自分の皿を気にして、きちんと食べているか確認している。
そのことが少し鬱陶しくて、それ以上に安心した。
しばらく二人で朝食を食べてから、惟人が何でもないことのように言った。
「今日、病院行くぞ」
晴はパンを持ったまま顔を上げる。
「え?」
「一回ちゃんと診てもらう」
「いらないよ。元気だし」
惟人はすぐには返事をしなかった。
ただ、晴の顔から肩、腕へと視線を動かす。
それだけで晴は少し居心地が悪くなり、目を逸らした。
自分でも説得力がないことくらい分かっている。
「……元気ではあるよ」
「全然信用できない」
惟人はスープを一口飲み、それから当然のことを告げるように続けた。
「病院行って、そのあと自転車取りに行く。必要なら服も買う」
晴は思わず瞬きをした。
どうやら惟人は、今日一日の予定をほとんど自分で決めるつもりらしい。
「あと仕事は休め」
そこだけは聞き流せなかった。
「仕事は行くよ」
「行かない」
「行くって」
「その身体で?」
惟人の声に少し苛立ちが混じる。
晴も眉を寄せた。
「昨日まで普通に働いてたよ」
「だから、それがおかしいって言ってんだよ」
「でも休めない」
「なんで」
聞かれて、晴は少し迷った。
説明するほどのことではないと思っていた。
働かなければ金が入らない。それは当たり前のことだからだ。
けれど惟人には、その当たり前から説明しなければならないらしい。
「休んだら、その分収入減るから」
言った途端、惟人の動きが止まった。
晴はそのまま続ける。
「日給とか時給の仕事多いし、配達もやった分だけだから」
「……一日休んだら困るのか」
「困るっていうより、もったいない」
惟人の顔が少し険しくなる。
「もったいない?」
「一日働けば、その分返せるでしょう」
何を、と言う必要はなかった。
借金のことだ。
晴にとって、仕事を休むことは単に休日を取ることではなかった。その日稼げたはずの金を手放すことだった。
一日働けば、その分だけ返せる。休めば、その分だけ終わる日が遠くなる。
そう考えるようになってから、休むことは晴にとって贅沢になった。
多少眠くても、寒くても、身体が重くても、熱があるわけでも立てないわけでもないなら働けると思った。
惟人はしばらく何も言わなかった。
昨夜、四畳半の部屋を見た。一日五百円程度しか食費に使っていなかったことも聞いた。
けれど晴には分かった。
今になってようやく、惟人の中でそれらが一つにつながったのだろう。
晴は生活を切り詰めていただけではない。
一日一日を金に換え、その金を返済へ回しながら暮らしていた。休むことすら惜しむ程度には。
「今日も配達?」
少しして、惟人が聞いた。
晴は首を横に振った。
「今日は配達やってから黒服」
惟人が一瞬、何を言われたのか分からないような顔をした。
「……何?」
「黒服」
惟人の表情が止まった。
晴はその反応の意味が分からず、少し首を傾げる。
「何?」
「黒服って聞こえた」
「うん」
「なんで黒服なんだよ」
晴は少し考えた。
どこから説明すればいいのだろう。
自分の中では、たいして複雑な話ではない。働けるところがあったから働き、条件が変わったから店を移った。それだけだった。
「前はコンカフェで働いてたんだけど」
その瞬間、惟人の顔がさらに固まった。
晴は、どうやらまた何かまずいことを言ったらしいと思った。
「コンカフェ?」
「うん」
「お前が?」
「僕が」
しばらく、惟人は何も言わなかった。
晴はその反応を不思議に思う。
確かに、競技時代には想像もしなかった仕事だった。
けれど、スケートを辞めてから仕事を探したとき、晴には使える資格も職歴もほとんどなかった。
幼い頃から生活の大部分をスケートに使ってきた。
世界選手権で何度勝ったところで、それがそのまま一般の仕事へ使えるわけではない。
履歴書の上では、むしろ空白に近い。
そんな中で、見た目を評価され、すぐ働けて、比較的時給もいい仕事はありがたかった。
「何してた」
ようやく惟人が聞く。
「普通に接客。飲み物出したり、話したり」
「顔出して?」
晴は思わず笑った。
「出さないでどうするの」
けれど惟人は笑わなかった。
むしろ何か非常に嫌なことを想像しているようで、眉間の皺が深くなる。
「なんで辞めた」
聞かれて、晴は少しだけ視線を落とした。
「面倒なお客さんがついちゃって」
惟人の表情がさらに変わった。
「何」
「ストーカーっぽい人」
今度こそ、惟人は完全に黙った。
晴も、さすがにそこはもう少し説明した方がいいのだろうと思った。
「帰りに待ってたりして、連絡先聞かれて、断っても何回か来て」
当時は確かに少し怖かった。
店を出る時間を変えたこともあるし、帰り道も変えた。後ろを気にしながら帰った夜もあった。
けれど、それも今では終わったことだった。
「そのうち店の外でも声かけられるようになって、オーナーが危ないからって」
「警察は?」
「相談はしたよ」
惟人は少しだけ安堵したように見えたが、まだ表情は硬い。
「それで?」
「同じ系列に別の店があったから、表に出る仕事やめて、そっちの黒服に回してくれた」
晴にとっては、それで話は終わりだった。
店を辞めて無収入になる必要もなかったし、新しい職場を一から探す必要もなかった。
ありがたい話だったと思っている。
「黒服の方が時給もよかったし」
そこまで言うと、惟人はゆっくり両手で顔を覆った。
「惟人?」
返事がない。
「どうしたの」
少しして、顔を覆ったまま低い声が返ってきた。
「情報量が多い」
晴は思わず笑った。
「そんなに?」
「そんなに、じゃねえよ」
惟人はようやく顔を上げた。
怒っているような、呆れているような、それでもどこか傷ついているような顔だった。
「お前がコンカフェで働いて、客に付きまとわれて、そのあと黒服やってたこと全部だよ」
言われて初めて、晴は少しだけ惟人の立場から考えた。
惟人の中に残っている九条晴は、おそらくまだリンクの上にいる。
世界選手権やオリンピックの大きな会場で、照明と音楽の中を滑っている晴。
その姿と、客へ飲み物を出したり、夜の店で黒服として働いている今の自分が、惟人にはうまくつながらないのだろう。
晴にとっては、もうどちらも自分だった。
「黒服、結構楽だよ」
そう言うと、惟人が睨んだ。
「今それ聞いてない」
「接客より楽だし」
「だから」
「あと賄い出る日あるから」
そこで惟人がまた黙った。
今度は晴にも、すぐ理由が分かった。
「賄い」
惟人が低い声で繰り返す。
「うん」
「それ目当てでもあった?」
晴は少し迷ってから、正直に頷いた。
「ちょっと」
惟人は、今度は長く何も言わなかった。
責められているわけではない。
けれど、その沈黙には怒りと悲しさが混ざっているように感じた。
晴は少し気まずくなり、ヨーグルトの蓋を開けた。
ふと見ると、惟人はまだ自分の朝食にほとんど手をつけていない。
「惟人」
「何」
「冷めるよ」
惟人がじっと晴を見る。
「誰のせいだと思ってんだ」
「僕?」
「お前以外いないだろ」
晴は少し笑った。
惟人は笑わなかった。
けれど、晴にもようやく分かってきた。
惟人は怒っているのではない。
少なくとも、それだけではない。
心配している。
たぶん、晴が思っているよりずっと。
そのことが少し嬉しかった。
同時に、嬉しいと思う自分をずるいとも思った。
二年前、自分からいなくなった。
何も言わなかった。
惟人が探してくれていることも、どこかでは分かっていた。それでも連絡しなかった。
そんな自分が今さら、心配されることに安心している。
けれど、胸の奥でずっと張っていたものが緩んでいくのを止めることはできなかった。
「でも、今日人足りないって言われてるから行くよ」
晴が言うと、惟人はゆっくりこちらを見た。
「行かない」
「行く」
「行かせない」
「僕の仕事だよ」
二人はしばらく見つめ合った。
こんなことは昔もよくあった。
晴がもう少し練習すると言えば、惟人が休めと言う。ジャンプを何本入れるか、怪我を押して試合へ出るか、プログラムのどこを変えるか。互いに一歩も引かず、何度も言い合った。
晴は少しだけ懐かしくなる。
けれど、今は昔とは違う。
惟人は今も世界のトップスケーターで、晴は一日働かなければその分収入を失う人間だった。
その違いを、晴はよく分かっている。
「惟人、本当に大丈夫だから」
少し声を落として言うと、惟人の眉間にまた皺が寄った。
「大丈夫じゃないから言ってんだよ。昨日の朝、パン一個だったんだろ」
晴は黙った。
「食費一日五百円で、半年まともに朝飯食ってなくて」
「毎日じゃないよ」
「今そこ重要じゃない」
惟人はそこで一度、深く息を吐いた。
晴がこうなると、強く言えば言うほど意地になることを知っているからなのかもしれない。
次に口を開いたとき、声は少しだけ柔らかくなっていた。
「今日一日くらい、俺に任せろよ」
晴は返事ができなかった。
任せる、という言葉が思った以上に胸の奥へ入ってきた。
この二年間、誰かに何かを任せることなど、ほとんどなかった。
自分で働いて、自分で払って、自分の生活は自分で決める。
そうしているうちに、人に頼ることの方が難しくなっていた。
誰かに任せたら、楽になる。
そして一度楽になってしまったら、もう一人で元の生活へ戻れなくなるような気がした。
それが怖かった。
けれど同時に、惟人の言葉はひどく魅力的だった。
今日だけなら、仕事のことも、病院のことも、自転車のことも、一人で全部考えなくていい。
惟人がいる。
それだけで、自分が思っていたよりずっと肩の力が抜ける。
晴はしばらく考えてから聞いた。
「今日だけ?」
惟人は少し眉を寄せる。
「まず今日」
「明日は?」
「明日は明日考える」
晴は、その答えを聞いて少し笑った。
惟人らしいと思った。
無責任にこれから全部どうにかしてやるとは言わない。
晴の人生を勝手に引き受けるとも言わない。
ただ、今日だけは任せろと言う。
昔からそうだった。
大きなことを安易に約束する人ではない。
その代わり、自分がやると決めたことは必ずやる。
晴はもう一度、目の前の朝食を見た。
温かいスープに、トーストとヨーグルト。向かいには惟人がいる。
昨日の朝には、そのどれもなかった。
「……分かった」
ようやくそう言う。
「今日は休む」
その瞬間、惟人の表情から少しだけ力が抜けた。
「そうしろ」
「でも店には僕が連絡するよ」
「それはいい」
「あと、自転車は取りに行く」
「行く」
「一人で行けるって」
「一緒に行く」
晴は思わず笑った。
「なんで」
惟人は当然のように答える。
「信用がない」
「まだ言うんだ」
「一生言うかもしれない」
「それは困るなあ」
そう言いながら、晴は残っていた朝食へ手を伸ばした。
惟人もようやく自分の皿へ戻る。
特別なことは、何も起きていなかった。
朝起きて、一緒に食事をして、今日の予定を決め、少し言い合う。
何年も前なら、それはきっと何でもない朝だった。
けれど今の晴には、その何でもなさが少し眩しかった。
失ったものが突然すべて戻ってきたわけではないし、昔と同じになったわけでもない。
二年間は確かにそこにあって、晴も惟人も、そのあいだを別々に生きてきた。
それでも今、向かいには惟人がいて、自分の食事が冷める前に食べろと言われている。
そんな小さなことに安心している自分を、晴はもう否定しなかった。




