第三章 父さんがね
「父さんがね」
晴はそこまで言うと、また少し黙った。
さっきまで勢いよく立っていた雑炊の湯気は、もうずいぶん薄くなっている。表面も少しずつ冷め始めていたが、惟人は何も言わなかった。
続きを促すこともしない。
晴が自分から話し始めたのだ。ならば、言葉になるまで待とうと思った。
惟人はもともと、待つことが得意な方ではない。こと晴に関しては、なおさらだった。演技についてなら気づいた瞬間に口を出すし、無理をしていれば止める。言いたいことがあるなら黙っていないで言えと、昔から何度も晴に言ってきた。
けれど今は、それをしてはいけない気がした。
晴は箸を置き、器の縁へ軽く指先を触れたまま、しばらくそこを見つめていた。
やがて、ゆっくり口を開く。
「グランプリファイナル、あったでしょう。僕が最後に優勝した年」
「……うん」
惟人はもちろん覚えていた。
忘れるはずがない。
あのシーズンの晴は強かった。
すべての試合ですべてが完璧だったわけではない。それでも、勝負どころをほとんど外さなかった。代名詞だった四回転ルッツも安定していたし、演技構成点も高かった。
グランプリファイナルも、いかにも晴らしい勝ち方だった。
ただ高難度を押しつけるのではなく、ジャンプもスピンもステップも、最後まで音楽の中から切り離されない。技術と表現のどちらかが片方を支えるのではなく、それらが最初から一つのものとして成立していた。
滑り終えた瞬間、惟人も「ああ、これは勝ったな」と思った。
その夜、晴からメッセージが届いた。
〈勝った〉
たったそれだけだった。
惟人が〈見ればわかる〉と返すと、すぐに〈褒めてよ〉と返ってきた。
だから、〈ルッツはよかった。後半のステップ少し重かった〉と送ったら、返ってきたのは〈最悪〉だった。
そんなやり取りまで、今でも覚えている。
あの日の晴は、少なくとも惟人には、いつもと変わらないように見えていた。
「帰ってきて、そのまま家に帰ったんだ」
晴が静かに続ける。
「夜だった。そんな遅くなかったと思う。十時くらい」
感情を押し殺しているというより、遠くに置いてきた記憶を、一つずつ手繰り寄せるような話し方だった。
惟人は晴の顔を見ていたが、晴は一度もこちらを見なかった。
「玄関、開いてた」
「……鍵が?」
「うん。閉まってなかった」
その一言を聞いた瞬間、惟人の胸の奥が強く縮んだ。
晴の父親を、惟人もよく知っている。
もちろん、息子である晴ほど深く知っていたわけではない。それでも、二人が同じクラブで滑り始めた幼い頃から、何度も顔を合わせてきた人だった。
まだ晴が一人でリンクへ通える年齢ではなかった頃には、練習の送り迎えをしていた。仕事帰りなのだろう、少しくたびれたスーツ姿のままリンクサイドへ現れ、晴の練習が終わるまで静かに待っていた姿もよく覚えている。
特別に目立つ人ではなかった。
声が大きいわけでもなければ、リンクサイドから熱心に指示を出すタイプでもない。ただ、晴が滑っているあいだは、いつも真剣に氷を見ていた。
そして晴が勝てば、本人以上に喜んだ。
十二歳の晴が初めて世界ジュニアを制したときなど、表彰式で笑っていた晴より先に父親の方が泣いていたくらいだ。晴が金メダルを持って戻ってきて、「父さん、泣きすぎ」と呆れていたことまで、惟人は覚えている。
晴よりずっと、感情の分かりやすい人だった。
晴の母親が亡くなってからは、あの人が一人で晴を育て、競技を支えてきた。
食事を用意し、学校へ行かせ、練習へ送り出し、遠征の準備をして、費用を工面する。惟人が目にしていたのは、そのうちのほんの一部にすぎなかったのだろう。
それでも、晴の人生の土台を父親が一人で支えていたことくらいは分かっていた。
その人が、晴が帰宅したとき、リビングの床に倒れていた。
「最初、寝てるのかと思ったんだ」
晴の声が、そこで初めてわずかに掠れた。
「リビングの床にいて。荷物置いて、父さん、って呼んで。でも返事がなくて」
器の縁に触れていた指先が、ほんの少し動く。
晴はそこを見たまま続けた。
「近くまで行って触ったら、まだあったかかったから。大丈夫だと思った。救急車呼べば、助かるって」
惟人は無意識に呼吸を浅くした。
その先を想像したくなかった。
それでも晴は、できるだけ平静を保つような声で、救急車を呼んだこと、病院までついて行ったことを話した。
そして最後に、静かに言った。
「翌々日に、死んだ」
晴はそれ以上、詳しいことを話さなかった。
惟人も聞けなかった。
父親が亡くなったこと自体は知っていた。晴が姿を消してから、人づてに聞いたからだ。
けれど、いつ亡くなったのかも、晴が最初に倒れている父親を見つけたのだということも、何も知らなかった。
「……そうだったのか」
ようやく口にできたのは、それだけだった。
晴は小さく頷いた。
「うん。それで、全日本は無理だった」
その言葉で、二年前の出来事がようやく一本につながった。
あの年、晴はグランプリファイナルで優勝した直後、突然全日本を棄権した。
発表された理由は、たしか体調面を考慮して、といった曖昧なものだった。
惟人は当然、何度も連絡した。
電話には出ないし、メッセージにも返事がない。
数日後、ようやく届いたのが、
〈ごめん。今ちょっと無理〉
という一文だった。
当時の惟人は、それに腹を立てた。
何が無理なのか。怪我なら怪我と言えばいい。体調が悪いのなら、せめてそう言えばいい。なぜ自分にまで何も話さないのか。
そう思っていた。
けれど今になって考えれば、あれは怒りだけではなかったのかもしれない。
晴に何が起きているのか分からないことが怖くて、その怖さを怒りへ変えていただけだった。
まさかあのとき、晴は父親を亡くしたばかりだったなどとは考えもしなかった。
「……俺に言えばよかっただろ」
気づけば、そう口にしていた。
責めるつもりではない。
今さら言っても何も変わらないことも分かっている。
それでも、その言葉だけは飲み込めなかった。
晴が少し顔を上げる。
黒い目が、まっすぐ惟人を見た。
「言えなかった」
「なんで」
思ったより強い声が出た。
「なんで俺にまで言わなかったんだ」
晴はすぐには答えなかった。
一度視線を落とし、何かを考えるように黙り込む。
惟人はまた言葉を重ねそうになったが、今度は止めた。
しばらくして、晴がぽつりと言った。
「言ったら、惟人、来たでしょう」
「行くに決まってる」
答えに迷う余地などなかった。
晴はそれを聞くと、ほんの少し困ったように笑った。
「だから」
「だから何だよ」
「来てほしかったから」
惟人は言葉を失った。
晴は笑っている。
けれど、それは楽しそうな笑みではなかった。
昔から、困ったときや、自分の弱いところを隠したいときに見せる笑い方だった。
「来てほしかったし、いてほしかった。でも、惟人に言ったら、本当に全部頼りたくなりそうだった」
「頼ればいいだろ」
ほとんど反射で返した。
晴が目を上げる。
惟人はその目をまっすぐ見返した。
「俺にくらい頼れよ」
そこだけは譲れなかった。
何年一緒にいたと思っている。
誰より競い合ってきた。
晴がどれほど強い選手なのかも、その強さの裏側に、人へ見せないものを抱え込む癖があることも知っていたつもりだった。
だからこそ、せめて自分にくらいは頼ってほしかった。
晴の表情が、ほんのわずかに揺れた。
それから視線を落とし、小さく答える。
「……うん」
あまりに弱い返事だった。
惟人は、それ以上責めることができなくなった。
二年前の晴に、今の言葉が届くわけではない。
それでも、もしあのときこの話を聞いていたら、自分は何をしたのだろうと考えずにはいられなかった。
少し間を置いて、惟人は聞いた。
「そのあと、どうした」
晴も一つ息を吐く。
「葬式とか、いろいろ終わらせて。それから父さんのものを整理し始めた」
そこまでは、ごく普通の話だった。
問題は、その先にあった。
「そこで分かったんだ。借金があるって」
惟人は黙って晴を見た。
「どれくらい」
思わず聞く。
晴はゆっくり首を横に振った。
「今は言いたくない」
惟人は一瞬迷ったが、すぐに頷いた。
「……分かった」
額を知ることは、今でなくてもいい。
数字を聞いたところで、晴がこの二年間に何を感じてきたのかまで理解できるわけではない。
「父さん、一言も言ってなかったんだ」
晴は器の中へ視線を落としたまま続けた。
「僕の競技費用、ずっと出してくれてたでしょう」
それは惟人も知っている。
フィギュアスケートは、上を目指せば目指すほど金がかかる。
リンク代やコーチ料だけではない。靴とブレード、衣装、振付、身体のケア。海外遠征が始まれば航空券や宿泊費も必要になる。
晴が世界ジュニアへ出るようになり、スポンサーがつくよりずっと前から、父親はその費用を払い続けていた。
「世界ジュニア出るようになってからはスポンサーも増えたし、シニアに上がってからは僕もかなり稼ぐようになった。でも、それまでにかかった分もあったし、生活費もあったし……母さんの治療費も残ってたみたい」
晴の母親は、晴が幼い頃に病気で亡くなった。
惟人の記憶にある彼女は、いつも穏やかに笑っていた。
まだ小さかった晴の手袋を直したり、マフラーを巻き直したりしながら、惟人にも「いつも晴がお世話になってます」と笑っていた。
その人がいなくなったあと、残された父親が一人で晴を育てた。
「本業だけじゃ足りなかったみたいで、副業もしてた」
「……知らなかった」
「僕も」
晴が少し笑った。
その笑みには、さっきとはまた違う苦さが混じっていた。
「全然知らなかった」
その言葉が、惟人にはひどく重く聞こえた。
きっと、晴に知られないようにしていたのだろう。
競技へ集中させたかったのかもしれない。
もし晴が知れば、自分の練習を減らそうとすることも分かっていたのかもしれない。
だから父親は黙って、自分が何とかすればいいと思いながら働き続けた。
そして、倒れた。
「父さんね」
晴が少し間を置いた。
「僕が勝つと、本当に喜んでた」
声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
それは惟人も知っていた。
「子どもの頃からそうだった。大会で一位になると、僕より嬉しそうだったでしょう」
「ああ」
「最初の世界ジュニアのときなんか、号泣してた」
「お前より泣いてたな」
「世界選手権のときも」
「泣いてた」
「オリンピックはひどかったよね」
その場面を思い出し、惟人も少しだけ口元を緩めた。
晴がオリンピックで金を取った日、父親は人目もテレビカメラも構わず泣いていた。
表彰式を終えた晴が戻ってきて、「父さん、僕より目立ってる」と呆れたように言っていたが、晴自身の目も少し赤かった。
「たぶん、父さんは僕が滑ることが好きだったんだと思う」
晴がそう言った。
惟人は答えられなかった。
きっと、そうだったのだろう。
世界一になったから好きだったわけではない。
金メダルを取るから応援していたのでもない。
もっとずっと前、晴がまだ小さく、リンクの端を必死に滑っていた頃から、あの人は晴が滑る姿を見ていた。
「だから、相続放棄できなかった」
晴は静かに言った。
「できたんだよ。弁護士にも言われた。全部背負わなくていいって」
惟人は黙って聞いていた。
「分かってた。父さんが勝手にやったことだって言われたら、その通りだと思う。僕には何も言わないで、身体壊すまで働いて」
晴の眉が、わずかに寄った。
そこへ、これまでほとんど見せなかった怒りに似た感情が浮かぶ。
「馬鹿だよ」
吐き出すような声だった。
「ほんとに馬鹿だと思う」
それは父親を責めるための言葉ではなかった。
どうしてそんなことをしたんだと、もう答えの返ってこない相手へ向かって言っているようだった。
「でも、僕のためだった」
その一言で、惟人にも分かった。
晴にとっては、それがすべてだったのだ。
合理的な判断かどうかではない。
法律上、何を選ぶべきだったかでもない。
父親が、晴のために人生の時間を使った。
身体を使い、金を使い、自分には何も言わずに支え続けた。
その結果として残ったものが借金だったとしても、それだけを「自分には関係ない」と切り離すことが、晴にはできなかった。
もし当時相談されていたなら、惟人は相続放棄を勧めただろう。
それはお前の責任じゃないと言ったと思う。
今だって、晴の判断が正しかったとは思っていない。
けれど、二年前の晴が何を背負ってそう決めたのかも知らずに、間違っていると切り捨てることもできなかった。
「……続けて」
惟人はそれだけ言った。
晴は少しだけこちらを見て、それから話を戻す。
「連盟には相談したよ」
「いつ?」
「世界選手権の前」
それは惟人にも意外だった。
「連盟は知ってたのか」
「全部じゃないけど。父さんが亡くなったことと、競技を続けられないかもしれないってことは」
「何て言われた」
「世界選手権が終わったら、ちゃんと話そうって。力になれることを考えるから、一人で決めないでくれって言われた」
「なら、なんで――」
そこまで言って、惟人は止まった。
もしかすると、その時点の晴はまだ、完全にすべてを捨てるつもりではなかったのかもしれない。
「世界選手権、出たんだな」
「うん」
「出なくてもよかっただろ」
「そうだね」
「なんで出た」
晴はしばらく黙った。
視線だけが、窓の向こうにある何かを見るように遠くなる。
「父さんが最後に見た試合、グランプリファイナルだったから」
惟人は何も言えなかった。
「僕が勝ったやつ。あれから帰ったら、父さん倒れてて」
晴は自分の手元を見つめている。
「だから、世界選手権だけは出ようと思った」
父親は、晴を世界のリンクへ送り出すために働き続けた。
そして、その父親が最後に見た試合が、晴の優勝したグランプリファイナルだった。
だから最後にもう一度だけ、世界のリンクへ立つ。
晴にとって、あの世界選手権にはそういう意味があったのかもしれない。
「ちゃんと滑って、終わりにしようと思った」
その言葉に、惟人の胸が揺れた。
あの世界選手権の時点で、晴はもう終わるつもりだった。
自分は、何も知らなかった。
同じ大会にいて、同じリンクに立っていたのに。
「……俺、知らなかった」
声が少し掠れた。
晴は困ったように笑う。
「言ってないからね」
その言葉には、腹が立った。
今さら怒る資格があるのか分からなくても、それだけは腹が立った。
けれど同時に、晴を責めることもできなかった。
「あの大会、銀だったな」
惟人が言うと、晴は頷いた。
「うん。最後」
惟人は、あの演技を何度も見ている。
当時だって、決して悪い演技だとは思わなかった。
むしろ十分に晴らしかった。
今こうして事情を知ってしまえば、あの状態で最後までよく滑れたと思う。
「ルッツはよかった」
惟人が言うと、晴が少し目を細める。
「うん」
「サルコウも」
「うん」
「ステップ、最後ちょっと遅れたけど」
晴がようやく顔を上げた。
「……今それ言う?」
惟人はほんの少し笑った。
晴も、つられるように笑う。
何年経っても、どんな話をしていても、演技のことになるとどうしてもこうなってしまう。
互いの滑りを見てきた時間が、長すぎるのだ。
だから褒めるだけでは終われない。
惟人は少し間を置いてから付け足した。
「でも、綺麗だったよ」
晴の表情が止まった。
言った惟人自身も、妙に居心地が悪くなる。
昔なら、もっと何気なく言えたはずだった。
今は、自分がその言葉へどんな意味を重ねているのかを知っている。
晴は少しだけ目を伏せた。
「……そう」
短い返事だった。
けれど、その顔には一瞬だけ、昔の晴が戻ったように見えた。
それも、すぐに消えた。
「世界選手権が終わって、日本に帰ってきて。連盟とちゃんと話す前に……逃げた」
惟人は眉を寄せる。
「みんな、助けるって言ってくれたんだよ。連盟も、コーチも、スポンサーも」
「だったら」
「でも無理だった」
晴の声が、そこで初めて明らかに変わった。
それまで押さえていたものが、少しずつ表面へ滲み出してくる。
「父さんが死んで、父さんが僕のためにあんなに働いて、借金まで残して、それなのに僕だけ何もなかったみたいにスケート続けるのが……」
晴は一度、言葉を止めた。
喉が小さく動く。
「できなかった」
惟人は何も言えない。
「リンク立ったら思い出すから。靴も、コーチも、遠征も、衣装も、全部にお金がかかってて。そのお金を父さんが作ってくれてたって」
晴の目が、少しだけ赤くなっていた。
それまで淡々と話していたのが嘘のようだった。
「みんな助けてくれるって言った。でも、僕だけ助かるのが嫌だった」
そこで惟人は、ようやく少し分かった気がした。
晴はスケートを嫌いになったわけではない。
競技を捨てたかったわけでもない。
父親を亡くしたことで、自分がそれまで立っていたリンクそのものが、父親の犠牲の上に成り立っているように見えてしまったのだ。
だから、戻れなかった。
助けの手がなかったわけではない。
連盟も、コーチも、スポンサーも、晴を助けようとしていた。
けれど、その手を取ることが、晴には自分一人だけそこから逃げることのように思えてしまった。
それが正しいか間違っているかではない。
当時の晴には、そうとしか感じられなかったのだ。
「……馬鹿」
惟人は低く言った。
晴が少し目を見開く。
「お前、本当に馬鹿だな」
怒っていた。
けれど、それと同じくらい悲しかった。
「そんなの、お前が全部背負うことじゃないだろ」
晴は黙っている。
「助けてもらえばよかった」
「うん」
「俺にも言えばよかった」
「うん」
「勝手にいなくなるなよ」
最後だけ、声が少し掠れた。
晴はゆっくり惟人を見た。
そこにはもう、ここまでの話をしているあいだ必死に保っていた強さが、あまり残っていなかった。
「……ごめん」
その一言を聞いた途端、惟人は何も言えなくなった。
謝ってほしかったわけではない。
二年分の怒りを、今の晴へぶつけたかったわけでもない。
ただ、もし二年前にこの顔で自分へ話してくれていたら、何かできたのではないかと思ってしまう。
何も変えられなかった可能性だってある。
借金も、父親の死も、晴が感じた罪悪感も、惟人にはどうにもできなかったかもしれない。
それでも、少なくとも一人にはしなかった。
惟人の視線が、テーブルの上に置かれた晴の手へ落ちる。
荒れた指先と、以前より明らかに薄くなった手首が見える。
今度こそ、手を伸ばしたくなった。
けれど惟人は、まだ止めた。
今夜は、それでいい。
二年分の距離を、一晩ですべて取り戻す必要はない。
「……食え」
惟人が言うと、晴が少しだけ笑った。
「またそれ」
「冷めるだろ」
「うん」
晴は箸を取り直した。
惟人は、もう何も聞かなかった。
父親が亡くなり、借金が残った。
晴は世界選手権を最後にスケートを終わらせ、そのまま姿を消した。
今夜、ようやくそこまでは分かった。
けれど、その先にはまだ二年間がある。
世界の頂点にいた九条晴が、どうして一日五百円程度の食費で暮らし、あの四畳半の部屋へたどり着いたのか。
それについては、まだ何も聞いていない。
それでも今夜はもう十分だった。
晴が自分から、ここまで話した。
二年間閉ざされていた場所を、ほんの少しだけ自分に見せてくれた。
惟人にとっては、それだけでも十分すぎるほど大きなことだった。
晴はそのあともしばらく、黙って雑炊を食べていた。
さっきまでの話の重さが嘘のように、食卓には静かな時間が戻っている。
もっとも、晴が食べる速度は少しずつ落ちていた。
最初のように一口ごとに目を細めることもなくなり、半分を過ぎたあたりからは、箸を動かす間隔も目に見えて長くなっている。
惟人は向かいからその様子を見ていたが、やがて晴が器を見つめたまま動かなくなったところで声をかけた。
「もういいぞ」
「まだある」
「明日食えばいい」
晴は少しだけ顔を上げた。
残った雑炊を惜しむように器へ目を落とし、それから惟人を見る。
「食べられるよ」
「無理して食うな。急に入れたら胃がびっくりするだろ」
それでも晴はすぐには箸を置かなかった。
しばらく迷った末に、ようやく諦めたらしい。
「じゃあ、明日」
そう言って箸を揃えた。
その言い方に、惟人はほんの少しだけ安堵した。
晴が何気なく口にした「明日」が、今夜だけではなく明日もここにいることを前提にしているように聞こえたからだ。
もちろん本人は、そこまで深い意味で言ったわけではないのだろう。
晴はただ、残った雑炊のことを言っただけだ。
それでも、二年間、明日どころか次の一時間にどこにいるのかさえ分からなかった男が、自分の家で明日の話をしている。
その事実は、惟人が思っていた以上に胸の奥を緩ませた。
晴は、惟人が淹れた温かい茶を両手で包むように持っていた。
風呂に入り、温かいものを腹に入れたせいだろうか。
それまで身体のどこかに残っていた緊張が、少しずつほどけているように見える。
父親の話をしていたあいだ、晴はできるだけ淡々としていた。
声が揺れそうになるたびに一度息を置き、苦しいところほど笑ってごまかした。
話し終えて、もう無理に姿勢を保つ必要がなくなった途端、身体の方が先に限界を訴え始めたのかもしれない。
もともと晴は、眠気に強い方ではなかった。
リンクの上にいるときしか知らない人間なら、意外に思うだろう。
何万人もの視線を浴びても、氷へ上がれば周囲の音が消えたように自分の世界へ入れるくせに、リンクを下りれば驚くほど無防備だった。
遠征先の車ではよく眠った。
長いフライトでは、飛行機が離陸する前から寝ていることも珍しくなかった。
ホテルのロビーでコーチを待っているうちに、座ったまま少しずつ首が傾いていく晴を見つけ、惟人が肩を叩いて起こしたことも何度もある。
昔から、眠くなると少しずつ返事が遅くなる。
今も同じだった。
「晴」
惟人が呼ぶと、少し間を置いてから「ん」と返ってきた。
返事はしたものの、晴の瞼はかなり重そうだった。
茶の入ったカップを持ったまま、もう半分ほど目を閉じている。
「寝るなよ」
「寝てないよ」
「その顔で言うな」
「起きてる」
本人はそう言い張ったが、声にはすでに眠気が混じっていた。
惟人は立ち上がり、晴の手からカップを取った。
晴は取られてからようやく気づいたように、自分の手元を見る。
「まだ飲んでたのに」
「今にも落としそうだっただろ」
「落とさないよ」
「信用できねえ」
晴は不満そうな顔をしたが、その直後に小さく欠伸をしたので、何の説得力もなかった。
惟人はカップを流し台へ置きながら、少し笑いそうになった。
こういうところは本当に変わっていない。
二年前まで何度も見てきた、眠くて思考が鈍くなっている晴そのものだった。
そのことが嬉しい。
同時に、そんな些細なことで嬉しくなっている自分に気づくと、少し情けなくもなる。
「もう寝ろ」
「うん」
晴は素直に頷いた。
そこで惟人は、何の気なしに言った。
「ベッド使え。俺はソファで寝るから」
すると、閉じかけていた晴の目が少し開いた。
「惟人はソファなの?」
「そうだけど」
「なんで?」
惟人は振り返った。
最初は、質問の意味が分からなかった。
「なんでって、ベッド一個しかないだろ」
「広いじゃん」
そこで惟人は、嫌な予感がした。
晴は眠そうな顔のまま、何でもないことのように続けた。
「一緒に寝ればいいでしょう」
惟人は黙った。
やはり、そう来た。
晴にとっては、本当に何でもないことなのだろう。
昔から二人は距離が近かった。
海外遠征で同室になることも多かったし、まだジュニアだった頃など、ツインルームなのに晴がいつの間にか惟人のベッドへ入り込んでいたこともある。
なぜ自分のベッドで寝ないのかと聞けば、枕がこっちの方がいいとか、テレビが見やすいとか、寒いとか、その程度の理由しか返ってこなかった。
晴はそういう距離に無頓着だった。
少なくとも、惟人に対しては。
その頃の惟人も、別に気にしていなかった。
狭いと文句を言いながら押し返したり、寝ているあいだに蹴られて腹を立てたりするだけだった。
惟人が十九歳になるまでは。
問題は、その年に自分が晴を好きなのだと自覚してしまったことだった。
あの世界選手権以来、それまで何でもなかった距離が、突然意識せずにはいられないものになった。
晴が肩へ寄りかかってくる。
練習後に疲れたと言って、惟人の腕を枕にする。
ホテルの部屋で着替えながら、平然と話しかけてくる。
それまで何とも思わなかった一つ一つのことに、いちいち意識を持っていかれるようになった。
しかも、晴の方は何一つ変わらない。
自分だけがおかしくなったような気がして、あの頃は本当に調子が悪かった。
その原因の一部が恋愛だなどと、当時のコーチが知ったら怒るのか笑うのか、惟人にも分からない。
そして今、二年ぶりに見つけた晴が、自分の家の風呂に入り、自分の服を着て、自分の作った食事を食べたあとで、昔とまったく同じ感覚のまま「一緒に寝ればいい」と言っている。
惟人には、とても同じようには受け取れなかった。
「嫌だ」
晴が少し眉を寄せる。
「なんで?」
「なんでも」
「ソファで寝たら身体痛くなるよ」
「大丈夫」
「明日、練習あるでしょう」
「あるけど」
「だったらちゃんと寝た方がいいよ」
惟人は思わず晴を見た。
まともな食事もせず、自分の身体をここまで削ってきた本人が、よくそんなことを言える。
「お前はまず自分の心配しろ」
「僕はベッドで寝るよ」
「だから俺はソファでいい」
「二人で寝れば二人ともベッドなのに」
晴は本気で、何が問題なのか分からないらしい。
惟人は額を押さえたくなった。
それでは解決どころか、そちらの方がよほど困る。
けれど、その理由を説明できるはずもない。
お前が好きだから一緒に寝たくない、というのも妙な話だった。
正確には嫌なのではない。
むしろ近くにいたいし、抱き寄せたいと思っているからこそ駄目なのだ。
そんなことを、今の晴へ言えるわけがない。
今日見つけたばかりで、ついさっきまで父親の死について話していた男へ、自分が長年抱えてきた恋愛感情までぶつけるなど論外だった。
惟人が黙っていると、晴が眠そうな目でこちらを見る。
「そんなに嫌?」
惟人は反射的に答えた。
「嫌なんじゃない」
言った瞬間、失敗したと思った。
案の定、晴の目が少し開く。
「じゃあいいじゃん」
「そういう意味じゃない」
「難しいなあ」
晴は本当に分からないらしい。
それが腹立たしくもあり、少し可笑しくもあり、何より惟人には苦しかった。
結局、説明は諦めた。
「とにかく、お前はベッド。俺はソファ」
「やだ」
「なんで今度はお前が嫌がるんだよ」
そう言うと、晴はすぐには答えなかった。
眠気のせいで、考えるのにも少し時間がかかっているらしい。
目を伏せたまましばらく黙り、それからぽつりと言った。
「久しぶりだから」
惟人は動きを止めた。
「何が」
「惟人といるの」
その言葉に、胸の奥を掴まれたような感覚がした。
晴はもう、ほとんど目を閉じている。
きっと深い意味はない。
二年ぶりに会って、昔のように一緒にいる。
だから、昔と同じようにすぐ近くで眠りたい。
晴にとっては、そのくらいのことなのだろう。
けれど惟人にとっては、それだけでは済まなかった。
この二年間、晴のいない夜をどれだけ過ごしたのか。
遠征先のホテルで一人ベッドへ入り、昔のことを思い出した夜もある。
試合前、以前なら晴から届いていたどうでもいいメッセージが来なくなったスマートフォンを、意味もなく何度も見たこともあった。
その相手が今、自分の目の前で「久しぶりだから一緒に寝たい」と言っている。
断るのは、思っていたよりずっと難しかった。
それでも惟人は首を横に振った。
「駄目」
「けち」
「何とでも言え」
「昔は一緒に寝たのに」
「昔は昔」
「何が違うの」
惟人は答えなかった。
答えれば、これまで隠してきたものまで全部出てしまいそうだった。
晴はしばらく不満そうに惟人を見ていたが、やがて眠気の方が勝ったらしい。
立ち上がろうとして、少し身体が揺れる。
惟人は考えるより先に手を伸ばした。
肘のあたりを掴んで支える。
触れた瞬間、改めてその細さが分かった。
服越しなのに、腕の厚みが以前とはまるで違う。軽く支えただけなのに、身体が簡単にこちらへ寄ってくる。
惟人は眉を寄せた。
「危ないだろ」
「眠いんだもん」
「見れば分かる」
「ベッドどこ?」
「こっち」
惟人は一度、支えていた手を離そうとした。
すると、晴の指が惟人の袖を掴んだ。
強く握ったわけではない。
ただ、離れないように軽くつまんでいるだけだった。
その仕草が昔とあまりに変わらなくて、惟人は一瞬何も言えなくなった。
幼い頃、海外の空港などで人が多いと、晴はよくこうして惟人の服を掴んでいた。
本人はもう覚えていないかもしれない。
「……何してんの」
「連れてって」
「歩けるだろ」
「眠い」
晴はそれ以上説明する気もないらしい。
惟人は長く息を吐いた。
結局、そのまま袖を掴ませて寝室まで連れていった。
ベッドの端へ晴を座らせる。
まだ髪が少し湿っているのが気になった。
「髪乾かせ」
「乾いてるよ」
「乾いてない」
「大丈夫」
「風邪ひくだろ」
惟人はドライヤーを取りに行った。
けれど、戻ってきたときには、晴はもう横になっていた。
枕へ頬を沈め、身体を少し丸めるようにして目を閉じている。
「晴」
返事はない。
惟人はベッドの横まで歩いた。
ついさっきまで一緒に寝ると言い張っていたくせに、もう眠りへ落ちかけている。
本当に、こういうところは昔と変わらない。
眠ってしまえば、なおさらだった。
頬は痩せているし、目の下には疲れの影もある。
それでも、閉じた瞼も、眠ると少しだけ力の抜ける口元も、惟人が昔から知っている晴だった。
その顔を見ているうちに、今日一日ずっと押さえていた気持ちが、また浮かび上がってくる。
触れたいと思った。
交差点で見つけたときから、ずっとそうだった。
本当に晴なのか確かめるように。
本当に生きていて、自分の目の前にいるのだと、自分自身を納得させるために。
惟人はしばらく迷ったあと、晴の額へ落ちている濡れた前髪へ指を伸ばした。
今度は止めなかった。
指先で、そっと髪を払う。
ほんの一瞬だけ。
それ以上のことはしない。
晴が弱っているからでも、自分が怖いからでもなく、今はまだこれくらいがいいと思った。
二年分の距離を、一晩ですべて元に戻す必要はない。
晴がここにいるのなら、時間はある。
そう思えること自体が、少し前までの惟人にはあり得ないことだった。
「おやすみ」
聞こえないだろうと思って、小さく言った。
すると、目を閉じたまま晴が答えた。
「惟人も」
惟人は一瞬固まった。
起きていたのか、と言おうとしたが、もう晴から返事はない。
やがて、呼吸がゆっくりと規則正しくなっていった。
今度こそ眠ったらしい。
惟人は毛布を肩まで引き上げ、しばらくその寝顔を見ていた。
それから静かに寝室を出る。
今夜はソファでいい。
多少身体が痛くなったところで、それはどうでもよかった。
問題があるとすれば、眠れるかどうかの方だった。
二年間探し続けた男が、壁一枚向こうの自分のベッドで眠っている。
その事実だけで、たぶん今夜は簡単には眠れそうになかった。




