第二章 残してきたもの
晴の部屋へ向かう途中、惟人はほとんど何も聞かなかった。
聞きたいことなら、いくらでもあった。
今はどこで働いているのか。さっきの配達だけなのか。どれくらい稼いでいるのか。いつからこんなに痩せたのか。この二年間、どんな生活をしてきたのか。そして何より、どうして何も言わずにいなくなったのか。
問い質そうと思えば、いくらでも言葉は出てくる。
けれど隣を歩く晴は、配達を終えた安堵からか少しだけ気が抜けているように見えた。自転車を押しながら前を向く横顔を見ているうちに、惟人は今ここで何もかもを聞き出す気にはなれなくなった。
夜の住宅街は、大通りほど明るくない。
二人が街灯の下を通るたび、晴の黒い髪の輪郭が一瞬だけ白く浮かび、また暗がりへ溶けていく。
昔から、そうだった。
晴は黙って歩いているだけでも妙に目を引いた。
顔立ちのせいもある。切れ長で少し釣り上がった目に、整った鼻筋と細い顎。若い頃から、ただ端正というだけではない、どこか艶のある顔をしていた。
それがリンクへ上がると、さらに変わる。
ほんの少し伏せた目も、横を向くときに見える首筋も、音へ向かって伸びる指先も、晴自身は何か特別なことをしているようには見せない。それなのに、一度目に入れば視線を外せなくなる。
惟人は、その晴を長い間見てきた。
だからこそ、今の痩せ方が余計に腹立たしかった。
頬は落ち、顎の線は以前よりさらに細くなっている。それが皮肉にも晴の顔立ちを際立たせ、ときおり以前より美しく見えてしまう瞬間さえあることが、惟人にはどうしようもなく嫌だった。
こんなふうに痩せる必要などなかった。
晴はもともと細い。それで十分だったのに。
「あとどれくらい」
惟人が聞くと、晴は前を向いたまま「五分くらい」と答えた。
それから本当に五分ほど歩いたところで、晴が「あそこ」と古い建物を指さした。
惟人は足を止めた。
二階建ての木造アパートだった。
築何年なのか見当もつかない。外壁はところどころ塗装が剥げ、鉄製の外階段には赤茶けた錆が浮いている。
晴は惟人の反応など気にしていないように、自転車を建物の脇へ寄せた。
「ここ?」
思わず確認すると、晴は何でもないことのように頷いた。
「うん」
あまりにも平然としているから、惟人はもう一度聞かずにはいられなかった。
「……ここに住んでんの」
「そうだよ」
まるで、そう聞かれることを最初から予想していたような声音だった。
惟人はそれ以上何も言えないまま、晴のあとについて外階段を上がった。
足を置くたび、古い金属がかすかに鳴る。
二階の共用廊下は冷え切っていて、晴はその一番奥まで歩くと、ポケットから鍵を取り出した。
「狭いよ」
ドアを開ける前に晴が言った。
「いいよ」
「本当に狭いからね」
念を押すような言い方に、惟人の眉間へ皺が寄る。
「何回言うんだ」
「あとで文句言われても困るし」
「言わねえよ」
晴が小さく笑った。
鍵が回り、扉が開く。
その瞬間、惟人は言葉を失った。
晴の言葉は、大げさでも何でもなかった。
四畳半の部屋には、入ってすぐの場所に小さな流し台と一口のガスコンロがあり、あとは折り畳み式の机と布団、衣類を入れているらしい透明な収納ケース、小型の冷蔵庫と古い電気ストーブが置かれているだけだった。
生活するために必要な最低限のものしかない。
見回しても、風呂もトイレも見当たらなかった。
「……風呂、ないの」
思わず聞くと、靴を脱いでいた晴が振り返った。
「共同」
「トイレも?」
「うん」
「どこ」
「廊下の端」
惟人は黙った。
これ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
こんなところに、オリンピックの金メダリストが住んでいる。
冗談だと言われた方が、まだ納得できたかもしれない。
晴は惟人の沈黙を気にする様子もなく部屋へ入りながら、「家賃安いんだよ」と言った。
「あと、保証人とか色々面倒じゃなくて」
その言葉には引っかかったが、惟人は今は聞かなかった。
晴は収納ケースを開け、服を何枚か取り出し始める。
「一泊なら、これくらいでいいかな」
「一泊?」
「え?」
惟人が見る。
晴も振り返る。
二人の視線が合った。
「今日泊まるんでしょう?」
「誰が一泊って言った」
晴がきょとんとする。
「……言ってないけど」
「じゃあ勝手に決めるな」
「惟人」
「何」
「僕、明日仕事」
それが今日と同じ配達の仕事なのかと聞こうとして、惟人はやめた。
「休め」
「簡単に言うなあ」
晴はへらりと笑った。
「じゃあ俺んちから行け」
「自転車どうするの」
「持ってけばいいだろ」
「どうやって」
「知らん」
晴が少し呆れた顔をした。
その表情が昔と変わらなさすぎて、惟人は一瞬だけ笑いそうになった。
けれど、改めて部屋を見回せば、笑う気にはなれない。
ここで一年以上、晴は一人で暮らしていた。
そう考えた途端、胸の奥へ鈍いものが沈んだ。
晴は服を何枚か畳み、リュックへ詰めていく。
惟人はそれを見ながら言った。
「もっと持ってこい。全部じゃなくていいから、しばらく分」
晴の手が止まった。
「しばらく?」
「そう」
晴は惟人を見たあと、複雑そうな顔でため息を吐いた。
「……惟人」
「何」
「まだ僕、何も話してないよ」
その言葉に、じゃあ話してくれるのか、と聞きかけた。
けれど惟人は飲み込んだ。
「知ってる」
「何があったかも」
「知ってる」
「じゃあ」
「それでもだよ」
惟人は晴を見た。
自分でも、かなり強引なことを言っているとは思う。
それでも、今この部屋へ晴を置いて帰ることだけはどうしてもできなかった。
「話はあとで聞く」
惟人は言った。
「でも、今夜ここに戻すつもりはない」
晴は何も答えず、少しだけ目を伏せた。
その沈黙が何を意味するのか、今の惟人には読めなかった。
嫌なのかもしれない。
困っているだけかもしれない。
あるいは、ほんの少しだけ安心しているのかもしれない。
昔なら、たぶん分かった。
晴が何も言わなくても、目の動きや声の調子でそれくらいは判断できた。
今は、その間に二年分の空白がある。
惟人はそれ以上何も言わず、部屋を見回した。
そこで、隅に積まれた三つの段ボール箱に気づいた。
ほかの荷物とは明らかに扱いが違う。
床へ直接置かず、低いすのこの上に載せられ、その上から布までかけてある。
「晴」
「ん?」
「あれ何」
晴が振り返った。
そのとき、ほんの少しだけ表情が変わった。
「……ああ」
何とも言えない、微妙な表情が気にかかる。
「昔のもの」
惟人は布に手をかけた。
晴は止めなかった。
一番上の箱を開けて、中に入っていたものを見た瞬間、惟人は息を止めた。
メダルだった。
一つずつケースに収められ、丁寧に並べられている。
世界ジュニアで取った二つの金メダル、その次の銀。グランプリファイナル、四大陸、世界選手権、そしてオリンピック。
惟人は何も言えないまま、箱の中を見つめた。
競技者にとって、メダルというのは不思議なものだ。
取るまでは命がけで欲しい。
取った直後は何度も触る。
けれど何年か経てば家の棚やケースの奥へしまわれ、数が増えるほど、一つ一つを取り出す機会も減っていく。
それなのに、全部きちんと残っていた。
惟人の指が、オリンピック金メダルのケースに触れた。
四年前。
自分が銀で、晴が金だった大会。
あのときの悔しさは、今でも覚えている。
惟人は先に滑り切った。
自分でも悪くないと思った。
得点が出て、暫定一位。
そして最終滑走が晴だった。
四回転ルッツを跳び、ループとサルコウを決め、それらの大技すら音楽の一部でしかないように滑り続けた。最後のステップへ入る頃には、惟人はもう、点数が出る前から負けたかもしれないと思っていた。
あの日の晴は、世界一だった。
悔しかった。
それでも、そう認めるしかなかった。
惟人はそっと箱を閉め、次の箱を開いた。
今度は衣装だった。
黒や深い青、赤に、銀糸の刺繍。
どれも知っている。
この衣装はあの世界選手権で着ていた。こちらはNHK杯。その下にあるのはグランプリファイナル。
一つ一つ、惟人には思い出せた。
たぶん晴本人より、そのくらい見ていた。
三つ目の箱には、楽譜や音源、振付ノート、構成表、衣装のデザイン画、過去のプログラムに関する資料がまとめられていた。
惟人は一枚の紙を手に取った。
晴の字で走り書きが残っている。
ここの入り嫌。音、遅い。コーチと相談。
それを見た瞬間、昔の練習リンクが鮮明に蘇った。
音楽を止め、晴が眉をしかめながら「ここ嫌い」と言う。
何が、と聞けば、入りにくいと返す。
惟人が「お前が遅れてるだけ」と言えば、晴はすぐに「違うよ」と反論してくる。
「じゃあ惟人やってみて」
「なんで俺が」
「ほら、できない」
「うるせえ」
そんな、どうでもいいやり取りだった。
今となっては、そのどうでもよさが妙に懐かしい。
惟人は紙を元の場所へ戻した。
「……捨てなかったんだな」
晴は少し離れた場所に立ち、惟人を見ないまま服を畳んでいた。
「うん」
それから、ほんの少し間を置く。
「父さんが、昔のものを全部しまってたから」
それから小さく、
「僕には捨てられなかった」
静かな声だった。
惟人は晴を見る。
晴はもう次の服へ手を伸ばしている。
ただ、それだけだった。
それなのに、胸の奥へ何かが刺さった。
惟人は三つの箱を見て、決めた。
「これも持ってく」
晴がすぐ振り返った。
「え?」
「三箱」
惟人が持ち上げようとすると、晴が慌てて止める。
「いやいや、重いよ」
「持つ」
「惟人、明日腕死ぬよ」
「この程度で死なねえ」
「スケーターが何してんの」
「うるさい」
惟人の強情さに、晴が少し笑った。
「置いてても大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない」
「なんで」
聞かれて、惟人は一瞬答えに詰まった。
本当は、この部屋へ置いておきたくなかった。
理由は、それだけだった。
晴の競技人生そのものみたいな箱を、まるで誰にも見つからないように、この四畳半の隅へしまっておくのが嫌だった。
けれど、そんなことをそのまま言うのも違う気がして、ようやく出てきたのは別の言葉だった。
「……湿気る」
晴が目を瞬いた。
それから笑う。
「何それ」
「いいから」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
その返事まで昔と同じだった。
惟人は、それだけで少し救われたような気がした。
惟人の家に着いた頃には、日付が変わりかけていた。
配達バッグは晴が持ち、三つの段ボール箱は惟人がタクシーのトランクへ押し込んだ。自転車だけは結局、晴のアパートへ置いてきた。
「明日取りに行けばいいよ」
晴がそう言えば、惟人は「明日も戻る前提で話すな」と返す。
晴はすぐに「だから仕事あるって」と言い返した。
そんなやり取りをしながら、惟人は不思議な気分だった。
ほんの数時間前まで、晴はどこにいるのかも分からない人間だった。
それが今は、自分の隣でタクシーの窓の外を眺めている。
惟人は何度か、確かめるように横を見た。
そのたびに、晴はちゃんとそこにいた。
マンションへ着き、部屋へ入る。
晴は玄関へ足を踏み入れたところで、ふと立ち止まった。
「どうした」
惟人が聞くと、晴は室内を見ながら言った。
「……あったかい」
惟人は何も返せなかった。
晴は靴を脱ぎながら、廊下の奥にあるリビングや洗面所、浴室へ視線を向けている。
どこにでもある普通の部屋だ。
それなのに、少し珍しいものを見るような目をしていた。
「風呂入れ」
惟人が言うと、晴が振り返った。
「いいの?」
「駄目って言うと思う?」
「浴槽ある?」
「ある」
晴の表情がぱっと明るくなった。
「やった」
風呂に入れる。
ただそれだけのことで、子どものように嬉しそうな顔をする。
その表情を見た途端、惟人の手はほとんど無意識に動いていた。
頭を撫でるつもりだったのだと思う。
昔なら、そんなことに理由などいらなかった。
遠征先で晴が寝癖をつけていれば勝手に直したし、いい演技をしたあとなら頭をぐしゃぐしゃにした。晴も嫌そうな顔をすることはあっても、本気で拒むことはなかった。
だからこそ、伸ばした手が途中で止まった。
あと少しで晴の髪へ触れる。
その距離まで来て、惟人はようやく我に返った。
目の前にいるのは、間違いなく昔から知っている九条晴だ。
けれど、二年間がある。
その二年に何があったのか、自分はまだ何一つ知らない。
どんなふうに暮らしてきたのかも、なぜ誰にも連絡を取らなかったのかも、今夜こうして自分の家へ連れてこられたことを晴が本当はどう思っているのかさえ分からない。
まして惟人は、晴に対してもうずっと昔から、友情だけでは説明できない感情を抱いている。
弱っている晴へ、その気持ちまで勝手に重ねるのは違う。
惟人はそっと手を下ろし、その代わりに晴の肩を軽く押した。
「着替え出しとくから。行ってこい」
「うん」
晴は何も気づかなかったように浴室へ向かった。
扉が閉まり、しばらくすると水音が聞こえてくる。
惟人はその場に立ったまま、ゆっくり目を閉じた。
抱きしめたかった。
交差点で晴を見つけた瞬間から、ずっと。
いや、本当はもっと前からだったのかもしれない。
この二年間、もしもう一度会えたら何を言うのか、何度も考えた。
怒鳴ってやるつもりだった。
殴ってやってもいいと思ったことさえある。
どうして何も言わずに消えたのか問い詰めて、二度とこんなことをするなと言ってやるつもりだった。
けれど実際に会ってみれば、何一つできなかった。
ただ触れて、本当にここにいるのだと確かめたかった。
二年前と同じ体温が、今もこの身体にあるのだと知りたかった。
それでも、今はそれをしていいときではない。
晴はここにいる。
少なくとも今夜は、自分の家にいる。
それだけでいい。
そう言い聞かせ、惟人はようやくキッチンへ向かった。
何か食べさせなければならない。
冷蔵庫を開きながら、まずそれを考える。
晴は朝にパンを食べただけだと言っていた。
あの痩せ方を見る限り、まともな食生活をしていたとは思えない。胃が弱っている可能性もあるし、いきなり脂の多いものを食べさせるのはやめた方がいいだろう。
米と卵、野菜、鶏肉。
惟人は手早く材料を取り出し、鍋に火をかけた。
米を煮ながら野菜を細かく刻み、鶏肉も食べやすい大きさへ切る。
包丁を動かしていても、頭から離れないのは晴の身体だった。
競技をしていた頃、晴の体重は六十キロ前後だった。
細身ではあったが、あれは世界最高峰のジャンプを跳び、四分間のフリープログラムを最後まで滑り切るために作られた身体だった。
今は、とてもそうは見えない。
五十キロあるだろうか。
下手をすれば、それすら切っているかもしれない。
数字にすれば十キロ程度なのかもしれない。
けれど、もともと余分なものなどほとんどなかったアスリートの身体から、それだけの重さが失われている。
何をすれば、そこまでになる。
どんな生活をしていたら、こんな身体になる。
考えるほどに、惟人の胸の奥はざらついた。
ちょうどそのとき、浴室の扉が開く音がした。
惟人は包丁を置き、振り返る。
晴が、惟人から借りたスウェット姿で立っていた。
濡れた黒髪から水滴が落ち、以前より細くなった首筋を伝っている。
昔から惟人の方が背は高かったから、晴が自分の服を借りれば多少大きいのは当たり前だった。
それでも、今目の前にいる晴の姿は記憶とは違う。
肩が落ちている。
袖が余る。
腰回りもひどく細く、服の上からでも、身体から筋肉が削げ落ちていることが分かった。
晴は惟人の視線に気づいたのか、余った袖を少し引っ張って見せた。
「大きい」
ほんの少し笑う。
その笑顔に、惟人はすぐ返事ができなかった。
二年前なら、同じ服を着てもこんなふうには見えなかった。
細身でも肩や背中には、四回転を跳ぶための身体があった。
リンクの上で細く美しく見えることと、弱々しいことはまるで違う。
「……お前が痩せすぎなんだよ」
思ったより低い声が出た。
晴の目が、わずかに伏せられる。
言った瞬間、惟人は後悔した。
責めたいわけではない。
むしろ逆だった。
どうしてこんなになるまで、と聞きたい。
何があったのか知りたい。
けれど、その問いを今の晴へぶつけたところで何の意味もないと分かっているのに、感情だけが先に出た。
「悪い」
惟人が言うと、晴は首を振った。
「別に」
いつものような軽い返事だった。
けれど、その言葉で本当に気にしていないのかどうか、今の惟人には判断できない。
二年前までは、晴の小さな表情の変化を読むことに自信があった。
機嫌が悪いときも、疲れているときも、緊張しているときも分かった。
本人が「大丈夫」と言っていても、どこかを痛めているときには気づいた。
自分だけは分かると思っていた。
今は、その確信がない。
それが少し寂しかった。
「座ってろ。もうできる」
「何作ってるの?」
晴がテーブルにつきながら鍋の方を覗く。
「雑炊」
「へえ」
晴が少し目を見張った。
その反応が妙に居心地悪くて、惟人は眉を寄せる。
「なんだよ」
「惟人、料理できるようになったんだなと思って」
「できるよ、そのくらい」
「昔、卵焼き焦がしてた」
「いつの話してんだ」
「十七くらい?」
「十年前だぞ」
「覚えてる」
晴が少し笑った。
その言い方があまりにも自然で、一瞬だけ二年間の空白が消えたような気がした。
海外遠征先のキッチン付きの部屋で、惟人が適当に作った朝食。
晴が味見をして「ちょっと焦げてる」と言った。
そのくせ、結局全部食べた。
そんな、どうでもいい記憶だった。
今は、そのどうでもよさが妙に懐かしい。
惟人は雑炊を器によそい、晴の前へ置いた。
湯気がふわりと立ち上る。
晴は少し目を見開いた。
「ちゃんとご飯だ」
その一言に、惟人の胸がまたざらついた。
「普段、何食ってたんだよ」
なるべく普通に聞いたつもりだった。
晴は箸を取ったまま、ほんの一瞬動きを止めた。
それだけで、惟人には分かった。
たぶん、聞きたくない答えが返ってくる。
「晴」
「ん?」
「一日、何食」
晴はすぐには答えなかった。
湯気の向こうで視線を少し逸らし、それから困ったように笑う。
昔から、言いにくいことがあるときの顔だった。
「日によるよ」
「何食」
「……二食食べられたら、いい方」
惟人は黙った。
晴は惟人の表情を窺うようにしてから、さらに続ける。
「一食の日もあったけど」
あまりにも何でもないことのように言う。
惟人は声を抑えて聞いた。
「何食ってた」
「おにぎりとか」
「一個?」
「うん」
「それだけ?」
「カップ麺とか。あとはスーパーのお惣菜」
晴は相変わらず平然としている。
「閉店前だと安くなるでしょう。半額とか」
惟人はしばらく何も言えなかった。
晴の生活を想像した。
夜遅く、一日の仕事を終え、スーパーで値引きシールの貼られた総菜を選ぶ。
あるいはコンビニへ寄り、おにぎりを一つだけ買う。
そしてあの四畳半の部屋へ戻り、一人で食べる。
それを何日も、何か月も、一年以上。
「一日いくら」
惟人が聞くと、晴は首を傾げた。
「何が?」
「食費」
「ああ」
晴は少し考えてから答えた。
「五百円くらい」
惟人は、今度こそ何も言えなくなった。
五百円。
数字だけを見れば小さい。
けれど、その数字が、晴の落ちた頬やスウェットの余った肩、さっき目に入った荒れた指先と全部つながった。
九条晴が、一日五百円で食べていた。
かつて世界中を転戦し、最高のトレーナーに身体を管理され、競技のために栄養まで細かく調整されていた男が、今は食べることそのものを削っていた。
腹の底から何かが込み上げた。
怒りだった。
けれど、それは晴に向けるものではない。
この状況に腹が立った。
晴をそこまで追い込んだ何かに腹が立った。
そして何より、この二年間、何も知らなかった自分に腹が立った。
惟人はテーブルの下で手を握りしめ、問い詰めたくなる気持ちを押し込んだ。
「食え」
出てきた声は、自分でも驚くほど静かだった。
晴は少しだけ惟人を見たあと、素直に雑炊を口へ運んだ。
一口飲み込んで、ほんの少し目を見開く。
「おいしい」
その言葉が、惟人にはたまらなかった。
嬉しいはずなのに、胸が痛い。
こんなもので、そんな顔をするなと思う。
ただ米を煮て、鶏肉と野菜を入れただけだ。
昔なら、もっといいものをいくらでも食べていた。
遠征先のホテルでも、スポンサーとの会食でも、試合後の祝勝会でも、食べ物に困ることなどなかった。
差し入れも山ほど届いた。
「もう食べられない」と言いながら、自分の皿から惟人の方へ勝手に料理を移してきたことだってある。
それなのに今は、雑炊を一口食べただけで、本当に嬉しそうな顔をする。
惟人は向かいの椅子へ座った。
「ゆっくり食え」
「うん」
「無理して全部食わなくてもいい」
「食べられるよ」
「本当に?」
晴が小さく笑った。
「惟人、心配しすぎ」
「するだろ」
思わず返す。
晴が少しだけ目を瞬いた。
惟人はそれ以上言わなかった。
二年もいなかったくせに。
こんな身体になっていたくせに。
心配するなという方が無理だった。
晴はまた雑炊を口へ運ぶ。
二口、三口と食べていくうちに、温かいものが身体へ入っていくせいか、表情が少しずつ緩んでいく。
惟人はその様子を見ていた。
昔と変わったところもあれば、変わっていないところもある。
頬は痩せた。
目の下には薄い影がある。
髪も少し長い。
それでも、熱いものを食べる前に必ず少し息を吹きかける癖は変わっていない。
箸の持ち方も、食べる速度も、昔の晴のままだった。
その一つ一つを確かめるように見ている自分に気づき、惟人は少しだけ目を伏せた。
この二年間、晴がどう生きていたのか、自分は何も知らない。
何を食べ、どこで眠り、何を考えて一日を終えていたのか。
聞きたいことは、まだいくらでもある。
全部知りたい。
けれど、今すぐでなくてもいい。
晴はここにいる。
温かい部屋で、自分の作った飯を食べている。
今夜は、それだけでも十分なのだと思った。
半分ほど食べたところで、晴の箸が止まった。
惟人はすぐに気づく。
「もう無理か?」
「違う」
晴は首を振った。
それからしばらく、湯気の向こうを見つめていた。
何かを言おうとしている。
けれど、どう言えばいいのか迷っているようだった。
惟人は急かさず、黙って待った。
やがて晴が口を開く。
「惟人」
「ん?」
晴はまだこちらを見なかった。
膝の上へ視線を落としたまま、静かな声で言う。
「父さんがね」
その声を聞いた瞬間、惟人の中で何かが切り替わった。
もう問い詰めようとは思わなかった。
ただ、聞こうと思った。
晴が自分から話そうとしている。
二年間、自分には何も見えなかった空白を、ようやく晴自身の言葉で聞けるのだと思った。




