第一章 見つけた
榊惟人が九条晴を見つけたのは、世界選手権から帰国して三日目の夜だった。
三月も終わりに近い東京は、日中ならコートが邪魔に思えるほど暖かくなったくせに、陽が落ちるとまだ冷える。高層ビルの間を抜けてきた風が頬を撫で、惟人は信号待ちをしながらコートの襟を少しだけ引き寄せた。スポンサーとの打ち合わせを終えた帰りで、迎えの車は断った。ホテルまでそう遠くはないし、何より今日は少し一人になりたかった。
帰国してからというもの、ひっきりなしに人に会っている。連盟の関係者に祝われ、スポンサーに頭を下げ、取材を受け、テレビカメラの前で同じ質問に何度も答えた。二十七歳でオリンピック金メダル。出場3回目の雪辱。若い選手たちが次々と高難度ジャンプを投入し、男子シングルの競技年齢がますます下がっていく中で、榊惟人はなお世界の頂点に立った。
緻密な構成。正確無比なジャンプ。エッジエラーも回転不足もほとんど出さず、スピンとステップのレベルを取りこぼさない。四分のプログラムを、まるで最初から最後まで設計図どおりに組み上げていくような演技——昔からそう評されてきたし、今年の世界選手権も、惟人らしい勝ち方だった。大きな失敗をしない。できることを確実にやる。相手のミスを待つのではなく、自分で取れる点を一つずつ拾いきる。それで、勝った。
嬉しくなかったわけではない。今季だって楽ではなかった。右足首の違和感は何度も出たし、フリー後半のコンビネーションはシーズン途中で配置を変えた。二十代前半の頃なら一晩眠れば抜けていた疲労が、今では翌々日まで残ることもある。それでも身体を作り、滑り込み、勝った。金メダルを首にかけた瞬間には、確かな達成感もあった。
けれど、表彰台の中央に立って国旗を見上げたとき、胸のどこかに、いつもの空白があった。
——晴がいたら。
まただ、と惟人は思った。もう二年も経った。それでも勝つたびに、負けるたびに、何か大きなことがあるたびに、そこに晴を置いてしまう。今の演技を見たら何と言うだろう。後半、少し守っただろ、とでも言うか。スピンの入り、前の方がよかった、と平然と水を差すか。あるいは何も言わず、キスクラの後ろから妙に嬉しそうな顔だけするか。
惟人は自嘲気味に息を吐いた。二年も消息不明の男に、いまだに演技評を求めてどうする。
信号が青になった。人波が動き始める。惟人もそれに合わせて足を踏み出した。会社帰りらしい人々が横断歩道を埋めていく。旅行客。学生。スマートフォンを覗き込みながら歩く人。大通りには車のライトが連なっている。
その間を、一台の自転車が横切った。黒いフードを深く被り、背中に大きな四角いバッグを背負った男だった。フードデリバリーの配達員。それだけなら、目に留める理由などなかった。東京の街なら一晩に何十人も見る。惟人も一度は、そのまま通り過ぎた。
けれど二歩、三歩進んだところで、足が止まった。
何だったのだろう。自転車を漕ぐ脚の角度だったのか。右へ曲がる直前、わずかに肩から先に身体が傾いたことだったのか。あるいは、ペダルを踏み込んだあとに上半身の力がふっと抜けた、その一瞬だったのか。理屈では説明できない。けれど惟人は知っていた、あの身体の使い方を。氷の上だけではない。歩くところも、走るところも、眠そうに身体を引きずっているところも——何年見てきたと思っている。
「……晴?」
名前が、口からこぼれた。小さすぎて誰にも届かない。自転車は遠ざかっていく。
そんなはずがない、と惟人は自分に言い聞かせた。この二年間で何度間違えたか。空港で黒髪の男を見つけて追いかけた。駅のホームで、似た背丈の後ろ姿に心臓が跳ねた。海外遠征先で、晴に似た歩き方をした人間を目で追ったことすらある。全部、違った。今回だってそうだ。九条晴がこんなところにいるはずがない。
十二歳で世界ジュニアを制し、その翌年も勝った。十五歳でシニアに上がり、十七歳で世界王者。四種類の四回転を跳び、代名詞の四回転ルッツは世界でも屈指の質を誇った。高難度ジャンプを持ちながら、それ以上に異常だったのは演技構成点だった。スケーティングスキル、構成、プレゼンテーション——どこにも穴がない。ただ美しい、というのとも違った。九条晴の滑りを評して、ある海外解説者が言った言葉がある。
——音楽そのものがスケートしている。
それ以来、晴を語るとき、何度も使われるようになった。あれほど、あの男を的確に表した言葉を惟人は知らない。
その九条晴が、東京の夜、配達バッグを背負って自転車を漕いでいるはずがない。それなのに。
「晴!」
惟人は叫んでいた。何人かが振り返る。自転車の男も、止まった。惟人の心臓が、大きく一つ打った。
男はすぐには振り返らなかった。ハンドルを握ったまま、ほんの数秒。それから、ゆっくりと顔をこちらへ向ける。街灯の下に輪郭が浮かんだ。黒い髪は記憶より少し伸びている。切れ長の目、わずかに釣り上がった目尻、黒い瞳。頬はひどく痩せていた。けれど、間違えるわけがなかった。
「……惟人」
二年ぶりに聞いた声だった。
惟人は動けなかった。生きていた——最初に、そう思った。それから、どうしようもない怒りが湧いた。次には泣きそうになった。殴りたいと思った。どうして連絡しなかったのかと怒鳴りたかった。そして、何もかもより先に、抱きしめたいと思った。
信号が点滅している。惟人は車道を横切りかけ、すぐ近くでクラクションを鳴らされた。
「惟人、危ない!」
晴の声。昔と変わらない。人のことになるとすぐそう言う。
惟人はようやく歩道へ上がった。晴との距離が縮まる。そこで初めて、惟人は、どれほど晴が変わっているかをまともに見た。
痩せている。競技時代の晴も細身だった。百六十八センチの身体は、衣装を着れば華奢に見えたし、もともと繊細な顔立ちもあって、アスリートらしくないと言われることもあった。だが実際には、当然そんなことはない。四回転を跳ぶ脚。深いエッジを支える体幹。スピンの軸を最後まで維持する背中。衣装の下には、必要な筋肉が隙なくついていた。
今は違う。ダウンジャケットの上からでもわかる。肩が薄い。顔も細い。顎の線が以前より鋭く、首まで長くなったように見える。
晴の方は、そんな惟人の視線に気づいているのかいないのか、自転車を押したまま、少し困ったように笑った。
「久しぶり」
その一言に、惟人の胸の奥で何かが切れた。
「久しぶり、じゃない」
強い声に、晴の笑みが少し弱くなる。
「……うん」
「どこにいた」
「東京」
「それは今わかった」
「そうだね」
短く切り返してくる晴に、惟人はますます苛立ちを募らせた。
「連絡先、変えたのか」
「うん」
「なんで」
晴は答えなかった。惟人はしばらく待った。晴は昔から柔らかい。話し方も、表情も。氷を降りれば、世界トップアスリートとは思えないほど気が抜ける。だから、一見すると押せばどうにかなりそうに見える。実際は逆だ。一度「言わない」と決めた晴ほど頑固な人間を、惟人は知らない。
「……晴」
呼んでも、晴は目を伏せたままだった。
そのとき、惟人は晴の手に目を留めた。安物の手袋。少し擦り切れている。指先のあたりから覗く皮膚が荒れて赤くなっていた。以前の晴なら、こんな手をしていなかった。スポンサーから山ほど届くケア用品を面倒くさがりながらも、撮影前にはスタッフに言われて使っていた。昔、惟人が無理やりハンドクリームを塗ってやったこともある。
その記憶に引かれるように、惟人の手が動いた。晴の手を取ろうとする。けれど、途中で止まった。
二年。長すぎる。昔なら躊躇しなかった。腕を引っ張ることも、頭を撫でることも、肩を抱くことも、自然にやっていた。今は、どこまで触れていいのかわからない。それに惟人は、自分がなぜ晴に触れたいのかを知っている。ただ心配だからではない。昔からずっと、好きだった。その感情を、今ここで持ち出していいはずがない。
惟人は手を下ろした。代わりに、
「今日、何食った」
と聞いた。唐突な問いに、晴が目を瞬く。
「え?」
「飯」
「食べたよ」
「何」
「パン」
「いつ」
晴の視線が泳いだ。
「……朝」
惟人は腕時計を確認した。二十一時半。
「それだけ?」
「あとで食べるよ」
「あと何件」
「配達?」
「それ以外何がある」
「二件」
「キャンセルしろ」
晴はほとんど間を置かず首を振った。
「嫌だよ」
「俺が払う」
「そういう話じゃない」
「受けた仕事なんだろうけど、今は——」
「だからだよ」
晴の声は大きくなかった。けれど、惟人はその一言で止まった。晴はスマートフォンの配達画面を確認しながら続ける。
「もう受けたから。届けるって決まってるものを、途中でやめるの嫌だ」
惟人は晴を見た。そこだけは、何も変わっていなかった。変なところで律儀。自分が引き受けたことは途中で放り出さない。ジュニアの頃からそうだった。練習後の片付けを任されたら、誰より最後まで残る。アイスショーで子どもに「後でサインする」と約束したら、スタッフに時間だと言われても全員分書く。体調が悪くても、出ると決めたショーには出ようとして、惟人やコーチに止められる。晴は昔から、そういう男だった。
「……何分」と惟人が聞いた。
「え?」
「終わるまで」
晴が少し考える。
「四十分くらいかな。場所によるけど」
「俺も行く」
「来なくていいよ」
「行く」
「自転車だよ?」
「だから?」
「惟人、歩きでしょう」
「タクシー拾う」
晴が呆れたような顔をした。
「なんでそこまで」
「お前がまたいなくなるかもしれないからだよ」
言った瞬間、晴の顔から、一瞬だけ表情が消えた。惟人は気づいたけれど、撤回しなかった。
「二年だぞ」
声が低くなる。
「二年探した」
晴の睫毛が下がる。
「……うん」
「目の前で見つけて、じゃあ仕事行ってきますって言われて、素直に見送れると思うか?」
「でも」
「信用ないぞ、お前」
少しだけ、晴の口元が緩んだ。
「それは……そうかも」
「笑うな」
「ごめん」
晴はスマートフォンを見て、それから惟人を見た。
「じゃあ」
少し迷って、「ここで待ってて」
「は?」
「二件ともそんなに遠くないから。終わったらここ戻ってくる」
「何を根拠に俺がお前を信用するんだ」
「戻るよ」
「二年前もそんな感じでいなくなっただろ」
「今度は戻る」
その声だけは、妙に真っ直ぐだった。惟人は言葉を失う。
晴は自転車にまたがった。
「絶対?」
自分でも子どもじみていると思った。それでも聞いた。
晴は少し目を丸くして、それから「うん」と頷いた。
「絶対」
惟人は晴を睨んだ。
「四十分」
「たぶん」
「一時間経ったら探す」
「どこを」
「知らねえよ。でも探す」
晴が笑った。ほんの少し、昔と同じ顔で。
「わかった」
そう言って、走り出した。
惟人はその背中を見送った。角を曲がる。黒いバッグが見えなくなる。そして、いなくなった。たったそれだけで、胸の内側が冷えた。惟人は自分でも呆れるほど長く、その曲がり角を見つめていた。
今度は戻る。晴はそう言った。それでも、晴が視界から消える、ということに、身体のどこかが怯えていた。二年前の記憶は、それほど簡単には消えないらしい。
惟人は近くの建物の壁際へ移動した。ポケットからスマートフォンを出す。時計を見る。二十一時四十三分。まだ三分しか経っていない。
「……馬鹿か、俺」
呟いて、画面を消した。待つしかない。昔から、晴を待つ時間は、嫌いだった。
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初めて九条晴を見た日のことを、惟人は覚えている。自分が六歳、晴は四歳だった。リンクサイドに、小さな男の子が立っていた。黒い髪。母親の手を握っている。晴の母親は、穏やかな人だった。
「今日からこちらでお世話になります」
そう頭を下げた横で、晴はリンクばかり見ていた。惟人にはあまり興味がないようだった。ただ、一緒に氷へ出るようになってから、なぜか、ずっと惟人の後ろをついてきた。
「惟人くん」
最初はそう呼ばれていた。
「なに」
「これどうやるの?」
「知らない」
「惟人くんできるでしょう」
「先生に聞けよ」
「惟人くんに聞く」
面倒くさい子どもだと思った。転べば起き上がる。また滑る。惟人がやったことを見て、真似をする。最初は全然できない。それでも翌週には少しできるようになっている。一か月後には、かなりできる。半年後には——惟人は少し気味が悪くなっていた。速い、覚えるのが。何を教えても。ジャンプも、スピンも、ステップも。
最初の頃こそ、二歳年上の惟人の方が圧倒的に上手かった。当然だ。二歳差というのは、小さな子どもにとっては大きい。けれど晴は縮めてきた。一年、また一年、追いついてくる。九条晴という名前が、少しずつ競技関係者の間で知られるようになった。やがて国内だけではなく、世界にも。
晴が十二歳になった年。世界ジュニア金メダル。惟人は銀だった。翌年、晴はまた金だった。惟人もまた銀だった。二つ下の子どもに、二年続けて負けた。腹が立った。悔しかった。何より怖かった。最初は、自分の後ろをついてきただけの子どもだった。惟人くん、惟人くん、と呼んでいた。それがいつの間にか前にいる。
三度目。晴十四歳、惟人十六歳。世界ジュニア。ようやく惟人が勝った。表彰台の中央。隣には、銀メダルを下げた晴。式が終わったあと、惟人は晴を見て、
「やっと勝った」
と言った。晴はむっとした顔をした。
「次、僕が勝つよ」
その言葉どおり、それから先も、ずっと二人は競った。ジュニアからシニアへ。国内から世界へ。グランプリシリーズ、ファイナル、四大陸、世界選手権、オリンピック。勝った。負けた。また勝った。また負けた。晴が上にいれば、次は追った。惟人が上に立てば、晴が追いついてきた。どちらかが圧倒的に上だった時代など、ほとんどない。晴には晴の勝ち方があった。惟人には惟人の勝ち方がある。
晴は、どう説明すればいいのかわからない選手だった。技術は強い。四回転ルッツ、ループ、サルコウ、トウループ。ジャンプの質も高い。けれど、ジャンプだけの選手ではない。スケーティングも、スピンも、ステップも、そして何より、音楽が、晴の身体を通った瞬間に、別のものになる。
十七歳の世界選手権。その年、惟人は十九歳だった。自分の演技を終え、暫定首位にいた。悪くなかった。むしろかなり良かった。残るは最終滑走、晴。リンクへ出てきた晴を、惟人はキスクラの奥から見ていた。
普段の晴を知っている人間ほど、リンク上の九条晴を見ると、奇妙な気分になる。あれほどぼんやりしている男が、氷に乗った瞬間、別人になる。晴が最初の位置についた。黒い衣装。細い身体。伏せた睫毛。音楽が始まる。晴が顔を上げた。最初の一蹴り。その瞬間に、惟人は勝敗を忘れた。
四回転ルッツを降りた。美しいジャンプだった。それでも、そこではない。晴の腕が開く。指先が音を拾う。エッジがカーブを描く。首がわずかに傾く。視線が流れる。音楽が鳴って、晴が動くのではない。晴が動くから、音楽がそこに存在するように見える。
誰かが言った。音楽そのものがスケートしている。惟人には、その意味が痛いほどわかった。演じているのではない。見せようとしているのでもない。晴自身が、ただ音楽の中にいる。ジャンプすら、スピンすら、ステップすら、技に見えない。一つの旋律の中に溶けている。
惟人は、その演技を見ながら、ぼんやり思った。
——ああ。綺麗だな。
何度も晴の演技は見ている。昔から、練習でも、試合でも。なのに、その夜は、どうしようもなく、綺麗だと思った。そして、同じくらい自然に、次のことを思った。
——俺、こいつが好きなんだ。
遅すぎる自覚だった。たぶん、もっとずっと前から特別だった。大事だった。勝ちたい相手で、負けると誰より腹が立つ相手で、演技を一番見てほしい相手で、不調のとき、最初に気づいてほしい相手だった。それが、恋なのだと、ようやく知った。
晴はその夜、世界王者になった。惟人は負けた。悔しかった。それなのに、晴が表彰台の一番上に立つ姿を見て、やっぱり綺麗だと思った。救いようがない。
それから何年も、晴はいた。当然のように、惟人のすぐ近くに。勝てばいた。負けてもいた。遠征へ行けばどこかにいた。選手村でも、ホテルでも、公式練習でも、キスクラでも、表彰台でも。だから、一度も、想像したことがなかった。晴がいなくなる日が来るなんて。
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二十二歳の晴は、グランプリファイナルで優勝した。そのあと、全日本を棄権した。何かあったらしいということしか、惟人にはわからなかった。聞いても、晴は詳しく言わなかった。世界選手権には出場した。銀メダル。それが、最後だった。
世界選手権が終わって、晴はいなくなった。連絡がつかない。電話。メッセージ。メール。全部。惟人は最初、怒っていた。何をふざけている。連絡くらいしろ。どこにいる。晴、返信しろ。次第に、文面は短くなった。
〈晴〉
〈どこにいる〉
〈頼むから連絡してくれ〉
既読にはならなかった。番号も、やがて使われなくなった。探した。所属先。連盟。昔のコーチ。共通の知人。誰も知らない。惟人は理解できなかった。晴がいない。それまで十年以上、どこを見てもいた男が、世界から、綺麗に消えた。
翌シーズンも、惟人は滑った。戦績は過去にないくらいガタガタだった。
そして今年、二十七歳、三度目のオリンピック。今度こそ、金を取った。表彰台の中央に立った。四年前、晴に奪われた場所だった。あのとき惟人は銀、晴は金。今度は、惟人が金だった。晴はいなかった。
表彰台の上で、世界中から祝福されながら、惟人は、ほんの一瞬だけ、思った。
——晴。俺、取ったぞ。
伝える相手はいなかった。
世間は、榊惟人の競技人生を称えた。長い。強い。崩れない。男子シングル史に残る選手だと。そのすべてが間違いではない。けれど惟人の中には、まだ二年前で止まった場所があった。九条晴がいなくなったまま、動かなかった場所。
それが今日、突然、交差点の向こうから、配達バッグを背負って戻ってきた。
惟人はスマートフォンを見る。二十二時十九分。
「……遅い」
口に出した瞬間、自転車のブレーキ音がした。惟人の身体が先に反応した。顔を上げる。角を曲がって、晴が戻ってきた。黒いフード。大きなバッグ。少し息を切らしている。自転車を押しながら、惟人を見つける。そして、笑った。
「惟人」
二年前と同じ声。
「終わったよ」
惟人は、その姿を見た途端、自分でも気づかないほど深く、息を吐いた。戻ってきた。約束どおり、戻ってきた。
晴は惟人の前まで来る。
「待たせた?」
「一時間経ってねえ」
「よかった」
「よくない」
「どっち」
「うるさい」
晴が少し笑う。それを見ながら、惟人は思った。今度こそ、何があったのか聞く。どうして消えたのか。なぜこんな仕事をしているのか。なぜこんなに痩せているのか。全部、聞く。けれど今夜、まず、この男を、ちゃんと温かい場所へ連れて帰らなければならない。
惟人は晴の背中の配達バッグを見た。そして、
「帰るぞ」
と言った。
晴が首を傾げる。
「どこに?」
惟人は、今度は迷わなかった。
「俺んち」
二年前、何も言わずに消えた男が、今、自分の目の前にいる。それなら、少なくとも今夜だけは、もう一人にするつもりはなかった。
10周年でユーリon ICEのみてたら書きたくて止まらなくなりました…
完結まで書ききっているのでお付き合いいただければ幸いです。
勢いで書いたので適宜リライトしていきます。




