【二】
お前最近バイト入れすぎなんじゃね、とは、僕の大学の友人の言葉だった。
十一月に入って、秋は終わりに向かっていて、バイトはすっかり慣れた。だからそれはそう。
店長に頼りにされることも増えて、シフトもちょっと増えた。具体的にはクローズまでいることが増えた。
これは別に家に帰りたくないからとかそういうあれではなく、単純に金が必要だった。何故か。彼女ができたから。
そう、彼女である――。
デートをするにも金が要る。カフェに行くにも金が要る。マメな男と思われたい。一か月記念日にはなんかかわいいアクセサリーとかをあげるんだ。
えー、記念日とか大切にしてくれるんだ♡
当たり前だろ、俺は君と出会えて毎日がハッピーなんだから
やだー♡からのいちゃいちゃである。
シミュレーション終了。スパダリな僕。いける。全然いける。
あとはほら、来月にはクリスマスもある。付き合って初めてのクリスマスと誕生日とホワイトデーとあとなんか各種記念日は死んでも逃すなってよく父さんが言ってた。なんかトラウマでもあんのかな。先達の言葉はありがたく頂戴する。
だから、軍資金がいる。つまり、バイトが多いのだ。
彼女と遊ぶために家を留守にすることも増えた。
いや、なにも家の中にいたくないわけじゃない。
家の中で、玄関から、またあの「ただいま」が――、僕の声にも男の声にも女の声にも老人の声にも無機質にも聞こえるあの声が、あの時間以外にも聞こえてきたらと、思って、ビビってるわけじゃ、ない。
「…………無理だろ……」
……無理だ。心底びびってる。
だったら、まだ、夢の中であの扉に"ただいま"を言う側でいたい。
それなら、目が覚めればあの壁に扉なんてなくて、ああ、夢だったんだなで終わる。
肩を落として、今日もマンションのエントランスにたどり着く。
今日はちょっと早めに帰ってきてしまった。何故なら彼女がバイトでつかまらず、僕のバイトは急なシフト変更で明日に振り直しになったため。
オートロックを開け、自分の部屋のポストをがこんと開ければ、一枚の紙が入っていた。
「ん……」
『あなた宛の郵便物が誤って以下の住所に届けられました』
僕の眉間に皺が寄る。手書きとかじゃない、こう、郵便局の公的な通知書、みたいな、転居届けとかああいうやつみたいな、でも見たことのない紙。
あと、"以下の住所"が僕の住所。
「……なん、なにこれ」
なんか気持ち悪くて、思わずポストに戻す。思わずポストに戻したものの、ポストといえどその銀色の箱の中は僕のテリトリーなわけで、ちょっとそこにこの気味悪い紙があるのは大変にいただけない。
ちょっと迷ったのちに、指先でつまむようにして回収、…………どうし、どうしよう。
部屋には持って帰りたくない。その辺に棄てたら僕の個人情報が誰に渡るかわかんない。あ、返送?返送すればいいの?
そう思って試しに紙をひっくり返してみたものの、裏面には転写防止っぽい複雑な細かい模様があるだけ。なにこれ。どういうあれなのこれ。くそう名を名乗れ。僕は城の主ぞ。
「……大学に……シュレッダーあったな……」
限界に近い僕の脳みそが、せめてものフル回転でなんとかそれを導き出す。大学にもっていこう。細々にすればいい。明日。明日だ。
それまでは、ええと、やっぱり部屋にもっていくのは無理なので、もう一度ポストに戻す。
はたから見れば、自分ちのポストの郵便物を出したり入れたりしている不審者だ。誤解です。
その時ちょうど、上からエレベーターが降りてきていることに気づいた。
僕は反射的に郵便受けの前から離れる。
いや、別に悪いことはしていない。自分のポストを開け、自分宛のよくわからない紙を確認し、自分のポストに戻しただけである。何ひとつ法に触れていない。なのにこの犯罪者みたいな心拍数は何。
エレベーターから降りてきたのは、二階か四階か五階か、どこかの住人らしきおばさんだった。
手にゴミ袋を持っている。夜のゴミ出し。生活。正しい生活。
「あらこんばんは」
「あ、こんばんはっ」
人間、咄嗟に脳が必要と判断すれば、必要以上に爽やかな声が出るもの。ぼくの微笑みは最大瞬間風速。おばさんは思わぬ好青年に、まぁ、とにこりとして去っていく。僕のポスト前の不審行動はバレてはいなかった。あぶねぇあぶねぇ助かった。何から?
空になったエレベーターに乗る。三階のボタンが押されていなかったのを、よかった、と思ってしまった自分が心底嫌だった。
自分の部屋に入る時、また「ただいま」を飲み込んだ。代わりに、喉の奥で変な音だけが出る。「た」でも「お」でもない、言葉になり切れなかった湿った空気みたいな音。
靴を脱いで、鍵を閉める。ガチン。はい今閉めました。ちゃんと閉めました。
横向きになったつまみを見て、さらにドアノブを回して押して確認する。開かない。よし。チェーンもかけた。
僕はチェーンをかけたあと、しばらくその銀色の輪の連なりを見ていた。
これ、意味あるのかな。
意味あるだろ。防犯だぞ。
管理会社のサイトにも書いてあった。玄関の鍵は二重確認。帰宅後はチェーン。女性のひとり暮らし向けの記事だった気もするけど、男も自衛していい時代だ。
僕は自衛する城主。この城に攻め入るものは、母さんと父さんとあと彼女以外ナンピトタリとも許しはせんのが僕の外交。
部屋の電気をつけると、いつもの八畳があった。
ベッド。テーブル。パソコン。
洗濯物を放り込んだカゴ。床に置きっぱなしの雑誌。
元の場所にかかっている時計。
キッチンの前の壁には、何もないのを横目で見てきた。
何もない。けど。何もないのを、確認しすぎると、逆にそこに何かを探しているみたいになるので、横目で見てきただけ。
夕飯。夕飯どうしよう。今日はバイトのまかないの予定だったから、何も買っていない。
冷蔵庫には卵と、賞味期限が近い豆腐と、彼女がこの前「これおいしいよ」と教えてくれたコンビニのカップスープが一個。
彼女。そうだ、彼女。
スマホを見る。ラインを開く。数時間前に送ったメッセージにまだ既読がついていない。
まだ、バイト中なのかな。忙しい店だと言っていた。返信を待つ男は余裕がない。その点僕は余裕。スパダリは待てる。
待てるけれど、部屋は静かだった。
冷蔵庫の音。時計の針の音。坂の下の遠くを走る車の音。
聞こうと思えば聞こえてしまう。聞こえてしまうと、以降は聞こうとしなくても聞こえてしまう。
だから僕はテレビをつける。ええ、すみませんね、生まれつき賢いもので。
音量を少し大きめにして、テレビはニュース番組で、県内のニュースで、県内だけどちょっと遠くの県内の駅前の再開発について話していた。
知ってる県のあんまり知らない町の知らない工事。ううん、とても良い。僕と関係ない情報は、心にやさしい。
夕飯はあったもので適当に済ました。
食べ終わったカップスープと豆腐の容器を片づけて、風呂のスイッチを入れる。
『お湯張りをします』
おっと失礼、この女性は我が城の風呂沸かし外務大臣。クールで淡々としていて指示したことしかできないけど、湯量や湯温の管理など、その確かな仕事ぶりを城主が評価している。
その機械音が、今日に限ってやけに遠く、同時に怖かった。
心に温もりが足りなかったのかもしれない。風呂沸かしてんのにねっつって。はは。は。
沸くまでの間、僕はテレビの前でスマホを握りしめる。彼女からの返信は、まだない。
テレビではニュースが終わり、天気予報になり、明日は晴れだとお姉さんが言っている。それだけで、少しほっとした。
晴れなら、朝、ポストを見ても大丈夫だね。そう思って、それがどういう理屈かはわからないけど、漠然と太陽は強いと思った。これは世界の真理。昔からそういうことになっている。
風呂のメロディが鳴って、外務大臣から風呂が沸いた旨の報告を受け、僕は立ち上がる。無駄に咳ばらいをひとつ。浴室へと向かい、がらりと折り戸を開けた。
湯気。ちゃんと張られた湯。誰もいない浴室。
当然だ。当然。まず、それを確認することがおかしい。
この"当たり前"が確認できるたびに、僕は何かが少しずつ減っていく気がした。
安心で回復しているはずなのに、確認する回数分だけ、怖がっている自分の輪郭が濃くなる。
エレベーターのボタン。鍵。チェーン。白い壁。時計の位置。彼女のライン。風呂。もう、今日だけで、どのくらい、減ったんだろう。
何が?
何かが。
風呂に入って、髪を乾かして、歯を磨いて、戸締まりをもう一度確認した。
玄関の鍵。銀色のチェーン。窓の鍵。カーテン。トイレのドア。全部、閉まっている。
スマホを見ると、彼女から返信が来ていた。
『おつかれ~!急にシフト変わったの大変だったね』
僕はすぐ、猫がハートを抱えているスタンプを返した。
これはおつかれと会いたいと寂しかったよの意。時には甘えることも重要な手段だぞとは、僕の父さんの言葉である。ということは父さん、母さんに甘えてるのか……ちょっと知りたくなかった。
僕は画面を見ながら、ベッドに倒れ込んだ。彼女から、ゆるい猫がおにぎりを食べているスタンプが返ってくる。かわいい。現実かわいい。
僕はそのスタンプをしばらく見ていて、それから、電気を消した。
ニュースが垂れ流しになっていたテレビも消した。パソコンは今日はいいや。部屋は暗くなる。
ベッドの中でスマホを見ていると、彼女とのラインがぽこぽこ続いた。
バイト先で嫌なお客さんが来たとか、明日の昼に学食で新作メニューが出るらしいとか、そういう話。いやぁ、本当に、そういう話だけでいい。君こそ僕のオアシス。
日付が変わる頃、彼女が『そろそろ寝るね』と送ってきた。
『おやすみ』
僕も返した。……ちょっと少し迷ってから、もうひとつ送る。
『明日の昼いっしょに学食いこ』
『いいよ~』
間を開けずに返ってきた返事に、僕はスマホを胸元に伏せた。
よし。
大丈夫。
僕には、明日会う人がいる。
学食で昼を食べる。彼女に会う。ポストの紙は大学でシュレッダーする。授業を受ける。バイトは明日。普通。全部普通。
目を閉じる。
時計の音は、思ったより大きかった。
チッ。
チッ。
チッ。
僕はキッチンの前に立っていた。
扉がある。
茶色の扉。銀色の細長いノブ。こちら側に開く形。
その横には、時計がある。
午前二時十七分。
七月十九日、金曜日。
もう見なくてもわかる。わかるのに、見てしまう。
見てしまう自分が嫌だった。
扉の向こうは静か。
生活音がしない。
床を歩く音も、カーテンの音も、水の音もない。静かすぎて、逆に壁の向こうの風呂場の位置がわからなくなる。
ここは僕の城のキッチン前なのに、距離感だけが薄く伸びていく。
「ただいま」
扉へ声をかけたのは、早く終わらせたかったから。いつもなら、少し間があって、「おかえり」と返ってくる。その少しの間すら、いつの間にか覚えてしまっている。
でも、その日は返ってこなかった。
「…………」
あれ。
いや、言ってほしいわけじゃない。言われないなら言われないでいい。むしろそのほうがいい。そう思ったのに、胸のあたりが変に落ち着かない。
そうしたら、誰がこの夢を終わらせてくれるの。
僕はノブを見た。銀色の細長いノブ。
冷たいことを、知っている。触ってはいけない気がする。
でも、前に触ったときは、何も起きなかった。
何も。
起きなかったから。
僕はゆっくり手を伸ばした。
指先がノブに触れる。冷たい。やっぱり冷たい。
金属の冷たさではなく、冷蔵庫の奥に入れっぱなしにした缶飲料みたいな、内側まで冷えた冷たさだった。
夢の中の僕は、なぜか妙に落ち着いていた。
落ち着いているというより、恐怖の処理が間に合っていなかったのかもしれない。
現実の僕だったら絶対にやらない。……いや、現実でも午前二時十七分に壁の前で待機した勇気ある男なので、あまり自信はない。
手のひらでノブを包む。冷たい。
少しだけ、少しだけ回す。
少しだけ。
かち。
ノブがわずかに下に傾いて、その瞬間、玄関のほうで同じ音がした。
かち。
僕の息が止まった。夢の中なのに、玄関のほうを見た。
あれ、今まで、夢の中で玄関を見たことってあったかな。ないかな。ないかもしれない。わかんなくなっちゃった。
短い廊下の向こう。異様な暗がりの先。いや、異様じゃない、廊下の電気がついていないから、全然異様じゃない。自然な暗がりの先。
でも、確かに聞こえた。
僕の手の中のノブが、勝手に少し戻った。
「ッ――」
慌てて手を離す。
もう、指先が痛いくらい冷えていた。手だけ真冬。拳を胸元に引き寄せる。ノブは元の角度に戻っている。
壁の扉は開いていない。向こうの玄関も、たぶん、開いていない。
と思う。
ようやく声がする。
「おかえり」
いつもの声。男か女か、若いのか年寄りなのかわからない声。それにちょっとほっとしてしまう自分が、今一番嫌い。
でもその日は、この声が妙に近かった。扉のすぐ向こう?……もっと嫌な近さ?
右側。
玄関のほう?
ちゃり。
鍵が、振れるような音。それから、扉の向こうで、ぽた、と水が落ちる音。
ぽた。
ぽた。
ちゃり。
壁の時計が目に入る。
午前二時十七分。
七月十九日 金曜日。
部屋は暗い。
僕はベッドの上で仰向けになっていて、右手を胸元に押しつけていた。
指が冷たい。握りしめていたせいだと思う。寝ている間に変な力が入っていたのだと思う。
あれ、今の僕ってどっちにいる?
枕元を探って、スマホを見る。
午前二時十八分。
十一月六日。
画面の光が、やけに眩しかった。
かちゃ、と音がした。
僕は動かなかった。
今のは、どこだ。
玄関。
いや、家鳴り。
鍵。
いや、冷蔵庫。
ノブ。
いや、何かの音。
何かって何。
しばらく待つ。……次の音はなかった。
僕はベッドから降りられなくて、玄関にも行けなくて、キッチンの前の壁も見れなかった。
確認をすれば、安心できるけど、減るものも、あるから。
スマホを握ったまま、彼女とのラインを開く。最後のやり取りは、ゆるい猫のスタンプ。それを見て、少しだけ呼吸が戻る。
返信したりなんてしない。スパダリは、夜中に彼女を起こすわけにはいかない。
でも画面を開いているだけで、どこかと繋がっている気がした。
けど僕は、結局、画面を見ているのに見ていなかったようだった。いつの間にか朝になっていたことは、カーテンの隙間から朝の光が入ってきていて、ようやく気が付いた。
重たい頭と一緒に起きて、廊下へ向かう。
玄関の鍵は閉まっていた。チェーンもかかっていた。靴も、昨夜脱いだままの位置にある。
キッチンの前の壁には、扉なんてない。
当たり前。
洗面所で顔を洗って、大学に行く準備をする。
リュックに教科書を入れ、財布とスマホを確認し、昨日買ったまま放置していたペットボトルの水を突っ込む。
玄関で靴を履く。鍵を開ける。外に出る。鍵を閉める。
エレベーターで一階まで降りて、ポストの前に立つ。自分の部屋番号の銀色の小さな扉。
中は、空だった。
「…………」
チラシもない。マンションからのお知らせもない。
昨日戻したはずの紙もない。ほかの郵便物も、何もない。ありふれた光景。
でも僕はしばらく、ポストの中を覗いていた。
奥まで隅まで指を入れて、底と壁と天井をなぞる。扉の裏も。
何もない。
昨日、確かに戻した。
持って帰りたくなくて、でも捨てられなくて、大学でシュレッダーしようと思って、ポストに戻した。
「回収、された……?」
言ってから、自分でも変なことを言っているのかどうか、わからなかった。
誰に。
郵便局。管理人。他の住人。
僕。
最後の候補が浮かんだ瞬間、口の中が乾いた。
僕はポストの扉を閉めた。
がこん、と、やけに大きい音がした。
――【二】




