【三】
結局あれ以来何事もなく、世間は秋を迎えていた。
夏休み明けのテストは、まぁ散々だった。手加減してくれって命乞いまでしたのに。城主自ら。ちくしょう情けねぇ……。
何事もなく月日が流れれば、心に余裕もできるというもの。心に余裕ができると人間どうなるかというと、図に乗り始める。
大学で僕はカレーサークルに所属していて、この日はサークルのメンバーと、え、カレサーについて……?
それはまぁ、どこそこのカレーが美味いだとか、あのレトルトカレーにあうアレンジはなんだとか、カレーは飲みものか食べ物かを議論することに貴重な時間を費やしたりだとか、そういうあれですよ。
カレサーに所属すること、これすなわち人生の幸福度を底上げするための重要な……、まぁとにかく、サークルのメンバーの家で土曜の昼から狩りゲーをして遊んでいて、エナジードリンクを飲んでブーストをかけて、そりゃもう中学か高校に戻った勢いで遊んだ。カレー関係なかったわ。人生は幸福也。
そんな頭とお目めがぎんぎらぎんになった状態で我が城に舞い戻れば、もう僕は万能感に支配されていた。
時刻は二十一時を過ぎたところ。風呂も流れるように済ませ、ドライヤーで謎に髪型を決め、一通り自分の可能性に満足したのちにベッドに寝転がる。もう網戸を開けて寝ることはない。風邪ひいちゃう。
スマホを掲げて時間を見れば、あれやこれやとしているうちに二十三時を回っていた。ドライヤーのヘアセットで遊び過ぎたか。社会人の卵たるいい大人がすることじゃなかった。恥ずかし恥ずかし。
いやーーーーしかし目がぎんぎらぎんである。
エナドリってすごい。ゲームをするならエナジーをと謎の使命感に駆られてみんなで飲み交わしたけど、これもう全員ぎらぎらだろ。
案の定、今日集ったメンツのグループラインはまだはつらつとしている。あ、既読が一人減った。落ちたな。ふふ。
ぽこぽこと無駄なスタンプの応酬をして、明日は大学が休みでバイトは午後からで、全然眠くない。
とくれば、健全な男子大学生ならちょっとセクシーなものをみてヒトリの時間を楽しむのが王道、なんだろうけれども。
もう一度言う、僕は図に乗っていた。
「……あの時間まで起きててみちゃう?」
二時十七分。
午前二時十七分。
試したことはなかった。思い付きすらしなかった。
夢の中で、扉の横で、今はもうそこにはない壁掛け時計がずっと指し示しているその時間。
その瞬間に、あそこの壁に扉が現れたりしてな。
それか、僕が気を失って現実世界から強制的にログアウト、そして夢にログインさせられるのかもしれない。おっとゲーム脳。失礼失礼。
とはいえ、例の時刻まではまだまだ余暇がある。動画サイトで今日遊んでいた狩りゲーのプレイ動画をちょっと探してみれば、出てくるわ出てくるわ、うわ、そんな攻略方法あったのかよ、オイオイそのルートは知らねぇぞ、と僕は夢中に。
おっと、と思い、忘れないうちに午前二時十二分にタイマーまでかけた。何故なら、何度でも言う、この時の僕は調子と図に乗っていたから。
だからタイマーをかけた時点で、もう勝った気でいた。
何に勝ったのかはわからない。睡魔か。怪異か。自分のチキンハートか。いやチキンハートに関しては勝てていない。城主はちょっと物音がしただけで心拍数がフェス会場になる男である。
それでも僕は、動画を見ながら、時々スマホの上部に表示された時刻を確認した。
一時三十四分。一時五十八分。二時五分。
眠気は、ない。
うううん、エナドリすごい。
文明が生んだ合法の妖薬である。いや、合法だから妖薬ではない。妖薬って何。
二時十二分。
ぶるぶると共に、初期設定のタイマー音が深夜の部屋に鳴り響く。
「うわっ」
――、自分で設定したタイマーに普通にびっくりした。馬鹿なのか。
いや違う。これは罠を仕掛けた本人が罠にかかっただけで、つまり僕は狩られる側の才能がある。狩りゲーなら即乙。せめて剥ぎ取りに価値のある狩られる側であれ。
タイマーを止めて、動画も止めれば、部屋は急に静かになった。
パソコンのファンの音。冷蔵庫の低い音。どこか遠くで、なんかが鳴く音。
秋の夜は夏よりもずっと音が薄い。網戸にしていないから外の音は遠くて、部屋の中の音だけが妙にくっきりしている。
スマホの画面には、二時十三分。
あと四分。
「……やるか」
何を?
脳内で自分に突っ込みながら、ベッドから降りた。
足の裏が床に触れる。ひやっとしてびっくり、とかはない。普通のフローリングの温度。僕の部屋の床。僕の城の床。
洋室の扉を開けるころには、僕は調子と図から片足を下ろしていた。まだ片足は乗っている。まだ舞える。
だから、廊下の電気はつけなかった。つけたほうがいいに決まっている、でもつけなかった。
怖いからこそ、明るくしたほうがいい。そう思う一方で、明るくしたら明るくしたで、あの壁がはっきり見えるのが嫌だった。あっ、怖いって堂々と言っちゃった。まぁ怖いんでね。しゃーないね。
キッチンの前まで歩く。
それではご紹介いたしましょう、左手に見えますのが夢の中で扉がある壁。現実では、何もない壁でございます――。
「…………」
……一応、手で触ってみる。
指先に、壁紙のざらりとした感触。うん、普通。硬い。木でも金属でもない。ノブもない。継ぎ目も変な凹凸もない。当たり前だ。
「はい、壁~」
声に出した。
「普通の壁ですっ」
さらに言った。声に出せば、それが現実になる。あとしんとしたこの部屋に、僕のイケてる声があると、少し落ち着く。
部屋の中でひとりで壁に話しかけている大学生という現実はさておき、落ち着くものは落ち着く。
スマホを見る。
二時十五分。
――あと二分。
僕は、キッチンのシンクに腰を預けるようにして立った。
正面に、問題の壁。右手側には玄関へ続く短い廊下。左手側には洋室の入り口。背後に小さなキッチン。
うーん、この場所、改めて立つと狭い。夢の中ではもう少し広かったような気がする。
いや、夢の中でも狭いのかもしれない。ただ、扉があるぶん、あっちのほうが奥行きがあるように感じるだけで。
スマホを見る。
二時十六分。
ここからの一分が、やけに長かった。
壁を見る。
何もない。
もう一度スマホを見る。
まだ二時十六分。
壁を見る。
やっぱり何もない。
「……まあ、そうだよな」
言ってみる。声に出せば、以下略。
何も起きない。当たり前だ。現実なんだから。
午前二時十七分になったところで、壁から扉が生えるわけがない。そんな便利な建築技術があったら、ワンルーム界隈はもっと広々している。
スマホの数字が変わった。
二時十七分。
その瞬間、僕は息を止めた。
壁は、壁のままだった。
白っぽい壁紙。小さな凹凸。廊下の照明をつけていないので、洋室から漏れるパソコンの画面の光だけがぼんやり当たっている。あれ、部屋の電気って僕が消してたんだっけか。消してたか。消してたかもしれない。
壁に扉はない。ノブもない。
時計もない。何もない。
「……はっ」
思わず笑いそうになった。
ほら。ほら。ほら見ろ。何もない。
夢は夢。現実は現実。エナドリで目がぎんぎらぎんの大学生が夜中に壁を見つめていただけ。何この時間。返してほしい。いや自分で使ったんだけど。
そう思った時だった。
玄関のほうで、鍵が鳴った。
ちゃり、と。
僕の喉が、きゅっと閉まった。
鍵。鍵の音。
外から鍵を差す音ではない。もっと小さい。
金属が触れ合うような、キーホルダーが揺れたみたいな音。
玄関には、僕の鍵がある。
帰ってきてから、いつもの場所に置いた。下駄箱の上の小さい皿の上。大学の先輩にもらった謎に渋い焼き物の皿。そこに置いた。
だから、鍵が鳴ることはある。
地震とか。
いや揺れてない。
風とか。
窓は閉めてる。
家鳴りとか。
鍵しか鳴ってないけど。
思考が、ばらばらに散った、そのあと。
玄関の向こうから、声がした。
「ただいま」
いや、違う。違うと言いたい。
声は低くも高くもなくて、男か女かもよくわからなくて、でもいつもの扉の向こうの「おかえり」とは違う。
けれど、なんとなく、僕かなって思った。
僕が、この部屋に帰ってきた時の、力の抜けた「ただいま」。
玄関の外から?
玄関の中から?
僕はもうとてもじゃないが動けなくて、壁の前で、スマホを握りしめたまま、足の裏が床に貼りついたみたいになっていた。
心臓は動いている。うるさい。動きすぎ。ちょっと落ち着いてほしい。こちらは全停止しているのに、心臓だけ労働意欲が高すぎる。
言うべきか?
(……おかえり、って?)
言うべきなのか?
夢の中では、僕が「ただいま」と言うと、向こうが「おかえり」と返す。今は、玄関から「ただいま」が聞こえた。……なら、今、返すのは僕?それが、ルール?ルールって、誰が決めたやつ?
「……、……」
言ったらどうなる。
言わなかったらどうなる。
そもそも、誰に……。
僕は、まるで口の水分が全部なくなったように、口を開けなかった。
開けたら、何かが勝手に出てきそうだった。
玄関のほうは暗い。廊下も暗い。洋室のパソコンの光が、僕の足元だけを薄く照らしている。
いや、いや靴を脱ぐ音はしなかった。当然ドアが開く音もしなかった。それに鍵を回す音もしなかった。
なのに、帰ってきた声だけはあった。
のどがカラカラで、ひりつくくらいで、スマホという名の文明の灯りを見る。
二時十七分。
画面の数字は変わらない。
おい。おいお前が裏切ったら僕はどうなる。ただでさえ目がぎんぎらぎんで、寝落ちどころか気絶すらできそうにない。
エナドリのせいで頭も冴えている。頭が冴えているのに、なにひとつ解明できない。
液晶の光で、指先が白く見えた。
手が震えているせいで、画面の数字も少し揺れている。
二時十七分。二時十七分。二時十七分。玄関のほうで、また鍵が小さく鳴った。
ちゃり。
「ただいま」
さっきより少し近い気がした。
僕は弾かれるように壁を見た。白い壁。いつも扉がある壁。なのにそこに、扉はない。
ではここは現実だ。では玄関に帰ってきたのはなんだ。夢なら夢で、夢なら夢で、夢、
では、
ないのに、
その壁の向こうから、ぽた、と水の落ちる音がした。
ぽた。
ぽた。
それは風呂場の音にも聞こえた。
扉の向こうの音にも聞こえた。
僕の部屋の中の音にも、玄関の外の音にも聞こえた。
「……お」
掠れた声が、喉に引っかかった。
え、だめだよ。言うな。いや、言わないと。帰ってきた人には、おかえりって言うものだ。
ひとり暮らしでも、家族でも、恋人でも、友達でも。帰ってきたなら、返す言葉は決まっている。
でも、ここに帰ってくるのは僕だけだ。
だって、ここは、僕の部屋で、僕の城で、僕の、はずだ。
僕、なら――じゃあ、いいのかな。
「お、か」
その瞬間、ぶぶ、と手の中で現実が暴れた。
「っ!」
反射的に見下ろした画面に、グループラインの通知が出ていた。
『まだ起きてるやついる?』
カレサーのメンバーだ。エナドリぎらぎら組、の。その通知の上で、時刻が二時十八分に変わった。
冷蔵庫の音が聞こえる。パソコンのファンの音が聞こえる。自分の心臓の音がする。
玄関は、静かだった。
鍵の音もしない。ただいまも聞こえない。水の音もしない。
僕はそこでようやく、咳をするように息を吐いた。
吐いた息が震えていて、自分でも引いた。引いたけど、それどころではない。
スマホを握ったまま、玄関のほうを見る。
見に行くべきだ。
鍵が閉まっているか。誰もいないか。何も落ちていないか。
見に行くべきだ。
でも、足は動かなかった。
代わりに、僕はその場でしゃがみ込んだ。
キッチンの前、夢の中で扉がある壁の前で、スマホを握ってしゃがみ込んだ。
グループラインには、別の友達が返していた。
『起きてる』
『エナドリ抜けん』
『明日死ぬわ』
僕は、震える指でスタンプを送った。布団にくるまって震えているキャラクターのスタンプ。
それを送った瞬間、なぜか少しだけ泣きそうになった。
返信が来る。
『お前もかよw』
僕はその文字を見て、声を出さずに笑った。笑ったまま、玄関のほうを見た。
誰もいない。いるわけがない。鍵はかけたもの。チェーンも。
僕はしばらくしてから、ゆっくり立ち上がってみた。玄関には行けない。壁にも触れない。ただ洋室へ戻って、ベッドの上に座った。
パソコンの画面は、止めた動画のまま。狩りゲーの巨大なモンスターが、口を開けたところで停止している。
そのおっかない顔を見たら、急に馬鹿馬鹿しくなって、少しだけ安心した。
スマホの時刻は、二時二十三分。
時間は動いている。大丈夫。動いているなら、大丈夫。そう思った。
そう思いながら、僕は朝まで、玄関のほうを見ないようにしていた。
――【三】




