【四】
翌日の朝、七時を回って、やっとなんとかベッドから這い出して、僕は重すぎる足を引きずって、風呂場へと向かった。
キッチンの前を通り、扉の壁にはちょっと目を向けられず、脱衣所へと入り、折り戸を押し開ける。
勢いだ。こういうのは勢い。ビビった分だけ溜まる。びっくりポイント的なものが溜まってびっくりする。これはホラゲーから得た世界の知見。
がら、と軽い音を立てて開かれた浴室は、バスタブはもちろんのこと、シャワー周りに水滴などは一ポタターリもなく、からりと乾いていた。
黒カビ赤カビがないのは、城主自らきちんとお掃除しているため。水回りが死んだら男は終わりだぞって父さんが言ってた。我が家の水回り担当大臣のありがたいお言葉である。なお、母さんによる監査はいまだにあるって。こわいね。
「…………」
から、と折り戸を戻す。
やっぱりあれは、……いや、昨夜、というか数時間前に聞いた音は、もしかしてそもそも現実ではなかったのかもしれない。
スマホを充電したのは本当。水の音が聞こえたのは夢の続きで脳がバグっていたせい。
汗をかいていたのは本当。ずっと水が落ちる音が聞こえていたのはバグ。
夢と現実がごっちゃになって、混乱していたんだろうな。
うん、と頷いて、脱衣所から廊下へと戻る。
正面、トイレのドアがほんの少し開いていた。
ドキリとしたのかもしれない。
息をのんだのかもしれない。
どちらにしろ、この時の僕はこんななんでもないことで心停止する勢いだった。
いや、いやいやあったじゃないか、今までも。ちょっと建て付け悪いのかなって。僕が後ろ手に適当にひょいってやって、ちゃんと閉まんなかったんだなって。
まったく、と思ってドアを押せば、ぐに、と変な返りがあった。
まるで
誰かの指が
挟まったかのような
下で
誰かの足が
つっかえているかのような
上で
誰かが
「っ……!!」
思わず手を引っ込めれば、その反動でドアがこちらにぱかりと開いて、我が城のトイレがお目見えした。
咄嗟に戸口周りを確認する。誰もいない。何もない。ドアの方の縁にも、なにもない。金具の部分にもなにも。
水回り担当大臣の指導を受けて、綺麗にしている真っ白いトイレがあるだけだ。
トイレマットはグレーのおしゃれなやつ。僕の家のトイレだ。僕の家のトイレ。
恐る恐る手を伸ばして、トイレのドアを指先で弾くように押す。遠心力と慣性の力で、茶色いドアはかちゃん、と閉まった。何にもつっかえることなく。
唖然。
開いたままだった口を閉じる。見開いたままだった目も、瞬きをする。それだけで、僕の生命活動が戻って来たかのような気がして、――からからの口でつばを飲み込んだ。何も潤わねぇ。
そのまま五分くらい、廊下で立ち尽くしていた。
すみません、五分は盛った、三十秒かもしれない。
でも体感では、もうほぼ地質年代だった。人類はこの間に火を使い、農耕を覚え、僕はトイレのドアの前で口を乾かしていた。わあ文明の差。
「……出るか」
呟いた自分の声が、やけに小さかった。
出る?どこに?わからない。でも、ここにはいたくない。
そう思った瞬間、身体が急に現実的な手順を取り戻した。
マジでやばい時間に起きた時って、謎のブーストがかかって身支度が異様に早く終わるでしょ。アレ。
顔を洗う。歯を磨く。寝癖を濡らす。適当なTシャツに着替える。財布、スマホ、モバイルバッテリー、イヤホン、家の鍵。それをリュックに詰め込んで。ナイフとランプも詰め込んでやろうか。
玄関で靴を履いて、鍵を閉める。ノブを回す。ガチン。OK。
でももう一回、確認する。ガチャガチャ。OK。閉まっている。
閉まっていることを確認したのに、扉の中で誰かが歩く音がしたらどうしようと思って、即座にエレベーターの方へ踵を返した。
廊下を走らなかっただけ褒めてほしい。僕は大人。大学生。バイトだってしてる。ぎりぎり社会人の卵。
一階に降りて、エントランスを出る。外は、朝から容赦なく暑かった。
昨日の夜の水の音とか、トイレのドアの変な感触とか、夢の中の時計とか、そういうものが全部、日差しに焼かれて薄っぺらくなる。
蝉が鳴いている。坂の下では車が走っている。どこかの家のベランダで布団を叩く音がする。人間社会、強い。最高。
僕はそのまま、重力に任せて坂を下りた。
コンビニに入って、朝飯として菓子パンとカフェオレを買う。
店員さんは眠そうだった。僕も眠い。奇遇ですね。
イートインはない系のコンビニなので、店の外の日陰に立って菓子パンを食べる。クリームがぬるい。うまいけどぬるい。
スマホを見れば、友達のグループラインが動いていた。
『今日ひまなやついる?』
『無理バイト』
『俺も』
『夜なら』
『課題終わってない』
『夏休み終わるの犯罪だろ』
僕はそこに、親指を置いて、少し迷った。
家にいたくない、と書くか……いいいいや書かない。何それ、怖い話?ってなるのが目に見える。こいつらにプライバシーは存在しない。
いやっ、怖い話なのかもしれないけど。いやいやいやいや。違う。僕の睡眠不足と生活リズムと反復夢と、集合住宅の生活音と、トイレのドアの建て付けの総合格闘技だ。怪異ではない。まだ怪異の判定は出ていない。これはもっぱら審議中。
結局、僕はスタンプだけ送った。
布団にくるまって震えているキャラクターのスタンプ。
『わかる』
『夏休み終わるのつらすぎ』
『お前今日バイト?』
『休み』
短く返すと、少しして返信が来た。
『じゃあ昼飯行く?』
行く。それは行く。行く行く行く。僕は即座に『行く』と返した。IQ2。
けれどその時の僕の親指の速さは、たぶん過去最高だった。短距離走ならいい線行ってた。親指短距離走。
昼はその友達と駅前のラーメン屋に行った。
ラーメン屋はいいぞ。
脂、塩分、湯気、騒がしい店内、壁に貼られた「大盛無料」の文字。あらゆるものが現実。
友達は夏休みの終わりを嘆き、海で声をかけた女の子たちとのその後が何もないことを嘆き、バイト先の先輩が怖いことを嘆き、結局ずっと嘆いていた。
僕も笑った。普通に笑った。
昨日の夜、夢の中でシャワーの音がしたとか、夜中に本当に水の音が聞こえた気がするとか、トイレのドアが何かに当たったみたいだったとか、そういう話はしなかった。
言ったところで、どうなる。「怖っ、引っ越せよ」で終わる。
引っ越せないよ。敷金礼金家賃保証会社契約更新。現実は呪いより手続きが重い。
ラーメンを食べたあと、友達はバイトに行った。
僕は駅前に残された。
さて。
帰――る、ない。
無理。帰れない。そう決めて、駅ビルをうろうろした。
本屋で漫画の新刊を眺め、雑貨屋で無意味にマグカップを見て、家電量販店で充電ケーブルを見た。
延長コードを買った。これは偉い。誰も褒めてくれないので自分で褒めていくスタイルは絶賛継続中。男は褒められて伸びるのよ。
フードコートで炭酸ジュースを飲みながら、スマホを充電した。隣の席では高校生らしい三人組が夏休みの宿題について地獄の顔をしていた。
がんばれ。君たちの未来には大学の課題がある。もっと地獄だぞ。先達からのありがたいお言葉である。
ゲームセンターに入った。
クレーンゲームで取れもしないぬいぐるみに三百円吸われた。これも一種の怪異ではないでしょうか。
アームが途中で脱力してしまう怪異。アーム先っちょの爪がぬいぐるみの側面をぬるんと撫でつけるだけの怪異。こええ。
音と光の中にいると、何も考えなくてよかった。でも長くいると頭が痛くなった。渋々退店。寝不足で来る場所ではなかったか……。
外に出ると、空が暗くなり始めていた。
八月の終わりの夕方は、まだ暑い。
でも日が落ちる気配はちゃんとあって、ビルの影が長く伸びている。
僕は駅前のベンチに座って、買ったばかりの延長コードの袋を膝に乗せていた。
帰るか。帰りたくないな。あたし今夜は帰りたくない。
でも、どこに行くってのよ。
友達の家。
いや、急に泊めては言えない。言えるほどの仲でもない。まだ大学一年の夏休み明け前で、僕らはお互いの好きなラーメン屋とナンパの進展とバイトの愚痴くらいしか知らない。
実家。
遠い。今から帰れば遅くなるし、母さんに何があったのと聞かれる。説明できない。
漫画喫茶。
金がかかる。あと、泊まるなら泊まるで身分証とか会員登録とか、なんかもう面倒くさい。
カラオケ。
一人で夜通し。いや、できなくはない。できなくはないけど、明日の朝には結局帰ることになる。
結局、帰る場所がそこしかない。
僕の城。
僕の、部屋。
「……城主、帰城」
口に出してみたら、ものすごく弱々しかった。
無駄な足掻きとして、牛丼屋で夕飯を食べた。
ねぎ玉牛丼にキムチとチーズ。王の食事。味はするよ、するする。ちゃんとおいしかった。
おいしかったのに、食べ終わったあと、空の器を見て少しだけ泣きそうになった。
寝不足のせいだと思う。人は寝不足だと牛丼で泣きそうになる。新発見。新発見に鼻を鳴らしながら店を出る頃には、すっかり夜だった。
坂を上る。
昼間の暑さがアスファルトに残っていて、夜なのに空気が重い。
坂の下から上を見れば、僕のマンションはいつものように建っていた。
五階建て。白っぽい外壁。三階の角部屋。――僕の部屋の窓は、暗かった。
当たり前だ。誰もいないんだから。
当たり前なのに、暗い窓を見て少し安心した。
誰もいない。電気はついていない。僕がいなければ、部屋は空っぽ。
そう思いながら、エントランスへと進む。
自販機の横を通った時、ガコン、と音がした。
足が止まった。
周りには、誰もいない。
自販機の取り出し口には、何も見えない。そもそも今、誰もボタンを押していない。
明るい自販機の百円パネルだけが、夜のエントランスを妙に元気に照らしている。
「……古いから」
声が、魚の小骨のように喉の奥に引っかかった。
「古いから、そういうこともある」
何が。どういう仕組みで。
知らない。自販機業界にも明るくない。
オートロックを開けて、一階にあったエレベーターに乗る。
三階のボタンは押されていなくて、それが当たり前なのに、僕は少しだけほっとして、自分で三階を押した。
三階で降りる。
廊下は白い。夜の廊下は、昼よりずっと白く見える。
蛍光灯のせいだろうね。もうピンクとかでいいんじゃないかな。うわあ、それってやらしいねかなり。
自分の部屋の前に立つ。
鍵を出す。
手が、少し震えていた。
馬鹿みたいだと思う。馬鹿みたいだけど、鍵穴に一回うまく入らなかった。
二回目で入った。
回す。
がちゃり。
扉を開ければ――、当然、部屋の中は、暗い。
皆さん、こちらが我が城、朝出たままの玄関です。向かって右には立てかけた傘。
こちら正面には脱ぎっぱなしではない靴。あちら廊下の奥に、洋室の闇。
僕は口を開きかけた。
――ただい……ま、を、……言いかけて、飲み込んだ。
絶対違う。言わない。言わないほうがいい。そんなことを考えた自分に、また少しだけぞっとする。
ひとり暮らしの部屋に帰ってきて、ただいまを言わないほうがいいなんて思うのは、どう考えても普通ではない。
普通ではないが、絶対に僕が正しい。何故ならこの城の主なので。僕が法律。僕が絶対。
靴を脱ぐ。玄関の鍵を閉める。チェーンも。
手探りで明かりをつければ、廊下が白く照らされる。
キッチンの前の壁には、扉なんてない。時計も、ない。
けれど僕は、そこを見ないようにして部屋へ入った。
――【四】




