【五】
夏休みの一か月半は、本当にあっという間だった。
もう、何をして過ごしていたのか定かではない。別に、心ここにあらずだったわけではない。
起きる。バイト。遊ぶ。飯。寝る。
起きる。遊ぶ。飯。遊ぶ。帰る。
起きる。遊ぶ。バイト。飯。遊ぶ。寝る。
ええ、はい、まぁあの、アホみたいな生活をしておりました。思い出と言えるほどの大層な記憶がない。ほぼバイトか遊ぶ。貴重な夏休みは溶けた。
華の大学一年生としては至極まともな夏休みだという意見も一部出ております。主に友達とのグループラインで。世論が狭い。
あの綿密に料理をする人みたいな位置にかけた壁掛け時計は、翌日の昼には接収ののちに、元あった壁にご退去いただいた。
あんな場所にかけていても不便極まりないが三割。
もし母さんが家に来たら「壁に余計な穴を!」と怒られそうが五割。
存在しない彼女を家に呼んだ時に変なレイアウトだったらかっこ悪いなが三割。
夢の中であの時計を確認するのはすごく心臓に悪いが三割だ。
割合なんか多いな。まぁいいか。
ともかく、もうじき大学がまた始まる。夏休み明けに人生の休暇から戻ってこれない学生も多いそうだから、僕も気を付けなければ。
まぁ僕はバイトもしてるし友達とも遊んでいるし女の子たちと花火もしたし大変うまうまなバケーションをエンジョイしたので大丈夫ですよ。
だがな休み明けのテスト。お前は許さん。手加減してください。
残暑厳しい中、寝る支度をする。
でも夜通しのエアコンはちょっと明け方にお腹が冷えちゃってんねってことで、寝る前に文明の力で少し部屋を冷やすくらいにして、あとは網戸にして寝るのが最近の僕のスタイル。
僕の部屋三階なので不審者もおりませんしね。意外と坂の上の夜風がこれまた気持ちいいんですわ。車も通らんし。
眠りに落ちる直前、スマホに充電ケーブル挿し忘れた――と思ったけど、僕のまぶたはもう動かなかった。
夢の中で、僕はキッチンの前に立っていた。
ああ、はいはい。この夢ね。まぁ、扉がある。
茶色の扉。銀色の細長いノブ。こちら側に開く形。
もう見慣れたものである。なお見慣れる予定などなかったと、僕は供述しております。
その横に、時計もあった。
「……あれ……」
いや、ない、はずですが。
ないはずだ。あのあとちゃんと外して、元の場所に戻した。
ピンも抜いた。穴が目立たないことも確認した。えらい。敷金を守る男。賃貸の勇者。いや城主。
なのに、夢の中の壁には、時計が掛かっていた。
白い文字盤。黒い針。下のほうの小さな液晶。
時計の針は、午前二時十七分を指している。
液晶には、七月十九日 金曜日、と出ていた。
「もう……夏休み、終わるけど」
口に出した声が、自分のものなのに、少し遠く聞こえた。
七月十九日。
金曜日。
午前二時十七分。
それはもう、今日ではない。
今は八月の終わりで、大学が始まる前で、僕のスマホは充電されていなくて、明日の僕は朝からたぶん絶望する予定で。
なのに時計は、あの日のままだった。僕が時計をひっかけた日。係わってみようかと思っちゃった日。まるで、そこに、……ここ、に、アンカー、を……。
「……。考えすぎだろ」
右手の指先が、ひやりとした温度を思い出していた。これは、あれだ。
起きている間の僕の記憶を頼りに、寝ている間の僕がそれを再生しているだけの、そういう夢。
そういうこと。
そういうこと、で済ませようとしたところで、扉の向こうから音がした。
しゃあああああ、と――水の音だった。
僕は一瞬、普通に「あ、シャワー」と思った。
風呂場のシャワー。
蛇口のレバーを上げると出る、あの音。浴室の床に当たって、少しこもって聞こえる音。
けれど、ここはキッチンの前で、扉の向こうから聞こえているようにも思えたし、そもそも現実ならこの壁の向こうは風呂場なのだから、壁の向こうから聞こえているだけのようにも思えた。
つまり、位置関係としては正しい。
正しいのってこんなに嫌なんだなって、気づいた。
ここは夢の中で、この扉の向こうに部屋があるなら、その奥で誰かがシャワーを浴びている。
扉なんてなくて、壁の向こうが風呂場なら、僕の部屋の風呂で誰かがシャワーを出している。
「……水、止めてくれませんかね」
呟いた声は、誰に言っているのか自分でもわからない。
大家さんか、管理会社か、水道局か、いや水道局は悪くないか。いつも大変お世話になっております、毎日きれいな水をありがとう。
僕の必死の現実逃避も空しく、水の音は続いている。夢の中で現実逃避ってなんなんでしょうかね。
しゃあああああ。
水音は、途切れない。強くも弱くもならない。
誰かが頭を洗っているとか、身体にかけているとか、そういう動きの変化もない。ただ、一定の勢いで水が流れている。
もうひとつ。今日は、扉の向こうで、床を歩く音はしない。
カーテンの音もない。コップやリモコンみたいなものが置かれる音も、なかった。
水の音だけ。
時計は二時十七分のまま。
喉が、じわっと乾いた。あれ、いつもこの夢を、どうやって終わらせていたんだっけ。
いつもは、生活音を少し聞いて、いるのかいないのかわかんない気配を感じて、それで、
――ああ、そうだ。
「ただいま……」
水の音が止まった。
ぶつり、という感じではなかった。蛇口をひねった音もしなかった。
ただ、最初から流れていなかったみたいに、急に静かになった。
扉の向こうは、しんとしている。
「おかえり」
返ってきたのは、いつもの声。
男か女か、若いのか年寄りなのかわからない。
スーパーのレジで聞く声みたいな、管理会社の電話口みたいな、大学の事務室から呼ばれた時みたいな、どこかで聞いたようで、どこにも残らない声。
ただその日は、声のあとに、ぽた、と音がした。
床に水が落ちる音。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
僕は足元を見た。
キッチンの床は乾いている。
いつもの、ちょっと安っぽいクッションフロア。引っ越した時に母さんが「ここ汚しやすいからマット敷きなさいね」と言って、僕は「うん」と空返事をして結局まだ何も敷いていない、床。
濡れてなんかない。でも音がする。
ぽた。
ぽた。
「…………」
時計を見る。
二時十七分。
七月十九日 金曜日。
僕の視線が、操作もしていないのにノブを見た。
開ける、という選択肢が、勝手に頭に浮かんだ。浮かんだだけで、体温が少し下がった気がした。
開けない。開けるわけがない。だってあのノブ、めちゃ冷たいんだって。それこそ、右手が冷え冷えになるくらい。
それに、それにホラー映画なら、ここで開ける人間がいちばん怒られる。テレビの前の視聴者に。僕も怒る。なんで開けた、と。逃げろ、と。そもそも引っ越せ、と。
でも夢の中の僕は逃げなかった。
逃げる、という発想もなかった。
ただ、扉の前に立っていた。
ぽた。
ぽた。
水の落ちる音が、少しずつ近くなる――違う、……違う。
音が近づいているのではなく、僕の耳が慣れてきただけ。気のせい。そう、気のせい。
そう思った瞬間、扉の向こうで、すう、と何かを引く音がした。
シャワーカーテン。
いや、僕の部屋の風呂にシャワーカーテンはない。浴室は折り戸だ。
じゃあカーテン。窓のカーテン。いつもの、いつもの生活音。いつもの。
しゃ、と布が滑る。
その音に混ざって、遠くで水が流れた。――排水口へ吸い込まれていくような、細い音。
そこで目が覚めた。
部屋は、暗かった。
網戸にした窓の向こうから、夜風が入っている。エアコンは切れていて、空気はぬるい。少し汗をかいていた。タオルケットは役目を放棄して腹から落ちて、足元で丸まっている。拗ねてるのかコノヤロウ。戻って来てくれ。
――ひとまず、手がスマホを探した。
すぐ枕元にあり、むち、と画面をつける。
充電は、二パーセント。
「うわ」
思わず声が出た。怪異より先に電池残量が僕を殺しに来ている。こいつめ、現代人の急所をわかっている。
時刻は、午前二時十八分だった。
日付は、八月二十九日。
ちゃんと、今の日付。注視すべきはそこじゃないかもしれないが、今僕の全てを救ってくれるのは日付だけだ。お前が全て。
画面を見つめた指先は、動かなかった。
二パーセントの表示が、ものすごく心許ない。変な夢に対抗できる文明の光が、いまにも消えようとしている。
ハッと意識を引っ張り戻して慌てて充電ケーブルを掴み、スマホに挿す。ぽん、と命が繋がった音がした。今僕の全てを救ってくれるのはスマホだけだ。お前が全て。更新。
その時、しゃあああああ、と、音がした。
僕は動かなかった。
動けなかったというと大げさで、心機能が停止しかけたというと当たらずといえども遠からず。嘘だ、心臓ひっくり返りそうだった。
水の音。……外だ、外。
網戸にしているから、どこかの部屋の水音が聞こえているのかもしれない。
なんてったって三十年選手、このマンションは古い。配管が近い。水の音くらい響く。深夜にシャワーを浴びる人だっている。夏だし。暑いし。仕事終わりかもしれない。お疲れ様です。
しゃあああああ。
僕はベッドの上で、スマホを握りしめていた。
充電ケーブルが五十センチくらいしかないやつで、短くてもう変な角度になっている。こういう時に限って、延長コードを買っていない過去の自分を殴りたくなる。
「……気のせい」
声に出す。
「配管」
声に出せば、それが現実になる。
「マンション。集合住宅。生活音」
言葉は魔法。言葉には魂が宿る。知らんけど。でもこうして現実の形になったものは、たいてい大丈夫だ。メイビー。
水の音は、しばらくして止まった。
けれど僕はそのまま、しばらくベッドから降りられなかった。
降りて、風呂場を確認するべきだとは思っていた。蛇口が開いていたら困る。
水道代。あと階下への水漏れ。現実的な恐怖はとんでもなく強い。怪異より管理会社からの電話のほうが具体的に怖い。いくら父と母というスポンサーがいるとはいえど。
でも、風呂場を確認しに行くには、キッチンの前を通らなければならない。
そこには、夢の中で扉がある。
現実にはない。ない、はず。
ちなみにスポンサーも、今この現実空間にはいない。親の力って偉大だったんだなぁ……。
布団をかぶった。
朝になったら確認する。
朝になれば、風呂場はいつもの風呂場で、キッチンの壁はいつもの壁で、時計は元の場所にあって、僕は寝不足で、大学開始前の憂鬱に文句を言うだけの普通の大学生に戻る。
そういうことにした。
そういうことにした者が勝つ。
勝ったはずなのに、目を閉じた僕に、ずっと水が落ちる音が聞こえていた気がした。
――【五】




