【一】
人間ってきっと、いつの間にか、知らないうちに、追い詰められていくんだと思う。
はじめに、あんまりラインを返せなくなった。最初が友達のグループライン。つぎに家族のグループライン。既読をつけて、スタンプを返して、それだけ。
その次に、バイトのシフトがちょっと減り始めた。シフト希望表はいっぱいに出しているんだけど、多分僕の顔がやばかったんだと思う。
「ちっと頼りすぎてた、悪かった。無理すんな。家帰ってしっかり休め」
そんな店長の優しい言葉は、僕のどこにも響いてくれなかった。
大学は、履修科目だけ、とりあえず行った。
行ったけど、ノートは半分も取っていなくて、今は何の授業で、僕はなんでこんなことをしているんだろうとぼんやりと思っていた。
そうしてそのうち、家から出られなくなった。
人間、追い詰められると思考回路が狭まっていく。
僕はこの時、「ただいま」が発生しうる状況がダメなのだと悟った。
僕が家を出る。帰ってくる。「ただいま」。これがダメなんだ。
じゃあ「ただいま」をしなければいい。誰にも「おかえり」を言わせなければいい。
もちろん現実世界で僕は帰宅時に「ただいま」を言うことはもうなく、現実世界で僕に「おかえり」を言う声ももちろんなく。でも僕は、半ば夢と現実がごっちゃになっていた。
それくらい、追い詰められていた。
「家から出なければいいんだ」
呪文のように、自分に言い聞かせる。かろうじて、彼女とのラインで"平静"を保つ僕。
『大丈夫?具合悪い?』
『うん、ちょっと風邪ひいて。心配しないで』
『心配だよ~!家に帰ったら電話してもいい?』
『うん、待ってるね』
ほら、ね、大丈夫だ。僕はまだ大丈夫。
あの夢だって、毎日見るわけじゃない。見ない日もある。夢を見た回数は、……もう、数えてないな。
家を出ないと決めれば、気持ちは楽なものだ。
今までは家に帰ってくるたびに、エレベーターのボタンは点いているか、鍵はかかっているか、朝と違って不自然なところはないか、扉は全部閉まっているか、――神経質になりすぎていたのだ。
気が楽になれば、腹が減る。カップ麺があったはず。
キッチンへ立ち、電気ケトルに水を入れて、意味もなく背後の壁を睨みつけて、ついでに玄関も睨みつける。我が城主ぞ。
ホントに僕の城なのかな、ここ。
カップ麺を食い、スマホで動画サイトを開き、流れてきたショートをそのまま観る。
何も頭に入ってこない。
学生がバカやってても、起業家がなんかのコツを詳しくはプロフ欄を見てねってしてても、外国のカップルのおふざけが出てきても、何一つ、入ってこない。
のに。
ちゃり。
玄関の方で聞こえた音に、僕は肩が跳ねた。
金属が揺れてぶつかったような音。小さい音。
ショート動画の音に潰されてもおかしくないような音。
思わず時計を見る。針は、午後十九時を過ぎたところ。
違う。じゃあ違う。
きっとお隣さんが僕の家の前を通り過ぎて、その時に鍵かキーホルダーの音が鳴って、
でも僕の部屋って角部屋なんだよな。
――しん、と部屋が静かになる。
スマホから、ショート動画がエンドレスで流れているのに、僕の体温は静かだった。
玄関から、続きの物音はしない。あの水が落ちるような音も、しない。当たり前だ、あれは夢の中の出来事なんだから。
だから、気のせい、か。
そう思ったその時、ラインの通話の音が鳴って、僕は咄嗟にスマホを手で払った。
フローリングに、ごとっと勢いよく、それが叩きつけられる。
上向きに倒れた画面には、彼女の名前があった。
「……あ……」
――急に、息ができるようになった気がした。ああ、した、約束した。電話するねって。待ってるねって。ドカドカと心臓が胸を打つ。
息も荒くスマホを拾い上げて、応答のトグルをくいとスライドした。
『あ、もしもし?ごめんね、寝てた?』
「ううん、ちょっと……スマホ落としちゃって。ごめんね。帰ってきたの?」
『うん、ついさっき!疲れた、ただいまぁ』
「ッッやめろ!!!」
弾けるように部屋に響いた怒声は、よもや、僕の口から出ていた。
『……え?』
電話の向こうで、彼女の声が固まる。
「あ、ちが、違う、ごめん、今のは」
『え、なに、びっくりした……』
「ごめん、ほんと、ごめん、違う、いや違わないけど、違うんだよ、言わないでほしくて」
『なにを?』
「た、"ただいま"……」
自分で言って、喉の奥がひゅっと縮んだ。
言った。
言ってしまった。
電話の向こうが、少し黙った。
沈黙の中で、僕の部屋の冷蔵庫が低く鳴る。スマホの向こうからは、彼女の家のほうの音がかすかに聞こえた。バッグを置く音。たぶん上着を脱ぐ音。普通の生活音。
普通の、帰宅の音。
『……ごめん、なんか、よくわかんない』
「違う、あの、僕もわかんないんだけど」
『怒鳴られるとは思わなかった』
「ごめん」
『うん……』
ああ、だめだ、離れていく。
彼女の声が、離れていく。だめだ。それはだめ。
「ごめん、本当に、ごめん」
『……疲れてるんだね』
その言い方が優しくて、余計にどうしようもなかった。
『ごめんね、今日、電話しないほうがよかったね』
「違う、違う違う違う、だめ」
『うん、違うのはわかった、でもやっぱ今日ちょっと怖いよ』
怖い……?
その言葉が、変にまっすぐ刺さった。僕は怖がっている側のつもりだった。
僕の方がずっと怖い。僕の部屋が怖くて、夢が怖くて、玄関が怖くて、あの言葉が怖くて。
でも今、電話の向こうで、彼女が僕を怖がっている。
「……ごめん」
もう、それしか言えない。電話の向こうのため息が、まるで処刑宣告みたいに聞こえた。
『今日は切るね』
「待って」
『ごめん、落ち着いたらまた電話しよ』
「待って、ほんとに、」
ふつ、と通話は切れた。
たぶん、二分にも満たない、外とのつながり。
ショート動画は止まっていた。
部屋は静かだった。
玄関も、壁も、風呂場も、全部黙っていた。
なのに、耳の奥で彼女の声だけが繰り返されていた。
疲れてるんだね。怖いよ。落ち着いたらまた電話しよ。
「……落ち着くって、どうやって」
誰も答えなかった。
だから、ラインを開く。
『ごめん』
『本当にごめん』
『怒鳴るつもりなくて』
『ちょっと変な夢見てて』
『なんて言えばいいのかわかんなくて』
『ごめん』
『ごめんね』
既読は、つかなかった。
当然だ。
今切ったばかりで、怖かったと言われたばかりで、そこで追撃する男はスパダリどころか迷惑の化身である。わかっている。わかっているのに、指が止まらなかった。
『明日ちゃんと謝らせて』
送ってから、スマホを下ろした。息が苦しかった。
家から出なければいいと思った。帰ってこなければ、「ただいま」は発生しないと思った。
でも違う。外から帰ってくるのは僕だけじゃない。
誰かがどこかで普通に帰ってきて、普通に「ただいま」と言う。そのたびに、僕はこんなんなんの?
――じゃあ、もう、どこにも繋がらなければいいのか。
友達にも?家族にも?彼女にも?
そんなの無理だ。そんなの絶対無理なのに、今の自分がまさにそうだった。
僕は立ち上がった。
キッチンの前へ行く。
壁を見る。
白い壁。何もない壁。僕の部屋の壁。
「……なんなんだよ」
声は、震えて、掠れていた。けど、自分で思った以上に、強い声だった。
「出てくるなら、出てこいよ」
何を言っているんだろうと思う。
壁に向かって怒鳴って、彼女には謝れなくて、店長には心配されて、大学ではノートも取れなくて、僕はいったい何をしているんだろう。
「僕の部屋だぞ」
言いながら、とっくに自分でもわからなくなっていた。
本当に。
ここは本当に、僕の部屋なんだろうか。
玄関のほうで、ちゃり、と音がした。
僕は振り向かなかった。
もう、驚く力もあまり残っていなかった。
というよりは、半ば喧嘩腰、言い方を変えれば、自棄。
ちゃり。鍵の音。
かちゃ。ノブの音。
午後十九時を少し過ぎた、僕の部屋の玄関で。
「ただいま」
右側から、声がした。
僕は壁を見ていた。夢の中なら、この壁に扉がある。現実にはない。
でも玄関から声がする。夢の中の扉の向こうからではなく、現実の玄関から、帰ってくる声がする。
じゃあ、今、僕はどっちにいるんだ。
扉の外か。中か。
現実か、夢か。
帰ってきたのは誰で、待っているのは誰だ。僕は誰?
ぶぶ、と手の中でスマホが震えた。
反射的に画面を見る。――彼女からだった。
『ごめん、今日は返せない』
『ちょっと距離置きたいかも』
文字が滲んだ。
かも。かもだって。そんなの、僕はもう何回も通ってきた。夢かも。気のせいかも。外の音かも。なんかの手違いかも。
これも全部夢かも。
ただ、画面を見ているはずなのに、焦点が合わなくなっていく。
「ただいま」
右側……玄関からもう一度、聞こえて、僕は笑った。
笑った、と思う、かも。
喉から変な息が漏れただけかもしれない。
僕はスマホを置いた。キッチンの横の小さな作業台に、伏せるように置いた。
玄関の方は見なかった。目の前の壁だけを見ていた。
夢の中では、ここに扉がある。
茶色の扉。銀色の細長いノブ。こっちに開く形の。
横には、外したはずの時計。時間だって覚えてる。
午前二時十七分。
七月十九日、金曜日。
でも今は夜の七時過ぎで。
十一月で。
僕は起きていて。
電話は切れて。
彼女には怖がられて。
部屋から出られなくて。
それでも。
ここに、扉がある気がした。
手を伸ばす。
壁紙に触れる。
ざらりとした感触。普通の壁。
そのまま、指先を滑らせる。
何もない。何もないはずなのに、指が、冷たいものに触れた。
銀色のノブ。
見えていない。見えていないのに、ある。
手の中で、ノブがかちゃりと回った。
同時に、玄関のノブも、かちゃりと鳴った。かも。
僕は逃げなかった。
逃げる場所がなかった。
僕はこの夢の終わりの言葉を知っている。
いつもそう。あの声が教えてくれていたあれ。
これを終わらせられる、あれ。
僕の真横で声がした。
「ただいま」
――ああ、
「おかえり」
――【一】




