【七】
六月に入って、僕の暮らす県では数日前に梅雨入りして、世間はどことなくぼーっとしていて。
大学の友達は頭痛持ちで、雨が降っては頭がいてぇとかなんとか大騒ぎして、けれどまだ距離感の定まらない新しい交友関係に、僕は適当な相槌で以て返して。
ああ、勉強もしなきゃいけない、バイトもしなきゃいけない、華の大学生として最低限の人付き合いもしなきゃいけない、一国一城の主って大変だな……と軽く現実逃避をして、僕はその日もバイトを終えて家路についていた。
僕のマンションはちょっと坂を上っていった先にあって、コンビニやスーパーや牛丼屋さんは坂の下にしかない。陸の孤島とは恐らくこういうこと也。……違うか。違うかもしれない。シッタカブッタ。
そんな坂の下のコンビニで夕飯ののり弁と炭酸ジュースを買い、雨がしとつく坂を上る。夜で、街灯はあれども水を抱いたコンクリートは光をほぼほぼ吸収して、夜道はまるで真っ暗だ。
しかも僕の傘ってビニ傘じゃなくてちゃんとした撥水布地の傘。結論、周りが見えない。
ああでもないこうでもないと傾けたり向きを変えたり、傘の持ち手にビニール袋をひっかけて安定化を図ってみたり、まぁあれやこれやと頭のわるい試行錯誤を繰り返しているうちに気が付いた、坂から降りてくる足音。まずい、他に人がいたのか。しかも見られていた可能性大。
だからといって傘を持ち上げて相手を確認するには至らない。何故なら試行錯誤を見られていたかもしれない。恥ずかしい。
すれ違いざまに見えた靴は学生に人気のブランドのスニーカーで、あ、それ知ってる、色違い買おうか迷ってたんだよね、と思いながら一応傘ごとぺこり。
「こんばんわ」
「――こんばんワァ」
相手の言葉の語尾が、物理的にすごい高いところから聞こえたような気がして、足が止まりそうになった。――え、なに、今この人すごい上空から僕に話しかけてる?
背後、足音は止まることなく規則正しく坂を下りていく。
坂を下りていく、ということは坂の上から来たのだ。坂の上には僕の城ああいやいや、僕のマンションがある。ということは、ご近所さん……か、ワンチャン住人の方でしょうか……。
坂を上り切ってからどうしても我慢できなくて、坂の上のフェンスに寄っていって下を覗き見る。
そこにはこちらを見上げる、異様に首が長い男が――!……ということもなく、先ほどすれ違ったのであろう男性はしずしずと坂を下りているところだった。
「……気のせいか……」
ひとつ胸を撫でおろして、自分の部屋へと向かった。
マンションのエントランスに着く頃には、靴の中がほんのり湿っていた。
ぐっしょりではない。ぐっしょりではないけれど、なんかこう、靴下の小指側が世界に裏切られた感じ。こういうところから人は梅雨を嫌いになるのだと思う。知らんけど。
オートロックを開け、ポストを確認する。チラシが二枚。ピザ屋と、不用品回収。どちらも僕の人生にいま必要かと言われると、かなり微妙。
宅配ボックスは空。
エレベーターは一階に止まっていた。
ボタンを押そうとして、三階の丸いランプがすでに光っていることに気づいた。
「お……」
……まぁ、ある。
うん、ほら、さっきすれ違ったあの人が降りてきたばっかりなら、筐は下にあって然るべきだし、ボタンがついているのは、今まさに誰かが上で呼んだとか、ある。エレベーターにはエレベーターの事情がある。僕はエレベーター業界に明るくない。
扉が閉まって、小さな密室が、ぶうんと低く震えて上がっていく。
三階でピーンと扉が開く。
誰もいない白い廊下に、雨の日特有の湿った匂いがうっすら流れていた。角部屋まで歩く間、持ち手にぶら下げたコンビニ袋が膝に当たって、のり弁の具材が偏っていないか心配になる。人間、雨の日の夜に考えることとしてはかなり平和だ。世界平和。
鍵を開けて、部屋に入る。
「ただいまぁ」
自分で言ってから、一瞬だけ固まった。
いや、違う。今のは普通。人は自分の家に帰ったらただいまと言うこともある。ひとり暮らしでも言う人は言う。僕は言う側だというだけだ。別に夢のことを思い出したとかではない。思い出したけど。
靴を脱いで、傘を玄関の端に立てかける。雫がぽたぽた落ちたので、慌てて雑巾を出した。こういうところ、ちゃんとしているのよ僕。えらい。誰も褒めてくれないので自分で褒める方式である。
部屋の電気をつけると、白い灯りが八畳の洋室に広がった。
カーテンは朝閉めたまま。雨の日はどうせ外も暗いし、開ける意味が薄い。向かいの建物の窓とこんにちはする趣味もない。
リュックを下ろして、コンビニ袋をテーブルに置く。
のり弁、炭酸ジュース、ついでに買ったプリン。今日はよく働いたのでプリンが許される。これは国で認めている――って母さんが言ってました。
濡れた靴下を脱ぎ、ついでにズボンも脱ぎ、洗濯機に放り込む。これは明日回す。明日の僕、そして明日の天気、がんばれ。
手を洗って、顔も軽く洗って、キッチンの前に立つ。
背中には、あの扉がある壁。
当然、扉はない。
「……はいはい」
誰に言ったのかわからないまま、僕は冷蔵庫からマヨネーズを出した。のり弁にマヨネーズを足すのは邪道かもしれないが、我が城の法律では合法。城主権限である。
テレビをつけ、適当に動画配信アプリを開く。前に見ていた海外ドラマは、主人公が政府機関に追われているあたりで止まっていた。
のり弁を食べ、プリンを食べ、炭酸ジュースを飲む。
スマホを見れば、大学の友達からグループラインが来ていた。明日の一限だるい、雨やばい、課題どこだっけ、みたいなやつ。僕はスタンプだけ返した。労力ゼロの便利文明万歳。
母さんからもラインが来ていた。
『ちゃんと食べてる?』
「…………」
うん、まぁ、食べている。のり弁を。あと国によって認められたプリンも。
写真を送るか一瞬迷ったけど、栄養の偏りについて長文が返ってくる未来が見えたのでやめた。
『食べてるよ』
それだけ返す。
少しして既読がついたけれど、返事はなかった。おそらく向こうも向こうで忙しいのだろう。父さんに何か指示を出しているのかもしれない。見えたね、うちの天下。
食べ終わった容器を片づけ、風呂を沸かす。雨に濡れた日は風呂が正義。シャワーではなく湯船。これはもう、人類が長い歴史の中でたどり着いた真理だと思う。
湯張りのボタンを押して、しばらく動画を見る。風呂が沸きました、という機械の声がしたので、着替えを持って脱衣所へ行く。
トイレの扉が、少しだけ開いていた。
「…………」
閉めた。朝出る時に閉めた。多分。さっき帰ってきた時も、――いや、見てはいないけど。
でもまあ、建て付けとかある。湿気で木が膨らむとか、そういうやつ。トイレの扉が木かどうかは知らない。城主が知らないことだらけだな、僕の城。
指先で扉を押すと、かちゃりと閉まった。
風呂を済ませて、髪を乾かす。
冷蔵庫の前で残りの炭酸を飲み、歯を磨いて、戸締まりを確認する。玄関の鍵。窓の鍵。カーテン。トイレの扉。
うん、閉まっている。
パソコンで動画をかけたまま、ベッドに潜る。
雨音が、窓の向こうで細かく続いていた。ざあざあではなく、さあさあでもなく、もっと細い音。無数の小さいものが建物を撫でているみたいな音。
スマホを見ると、二十三時四十八分。明日は一限。寝なければならない。
大学生として、社会の一員として、あと単純に眠い人間として。
雨の音と、ドラマの音と、冷蔵庫の低い音が混ざっていく。途中からはもうどれがどれだかわからない。
僕はそのまま、眠りに落ちた。
夢の中で、僕はキッチンの前に立っていた。
雨の音はしない。
部屋は明るくも暗くもなくて、いつもの夜の部屋みたいなのに、なぜか時間だけがぴたりと止まっているようだった。
後ろを振り返る。
扉がある。
茶色の扉。銀色の細長いノブ。こっち側に開く形。
ああ、ある。あるよな、ここに。
そう思ってから、自分がそれを当然みたいに思ったことに、ほんの少しだけ首を傾げた。けれど夢の中の僕は、その疑問を長く持っていられなかった。
扉の向こうから、かすかな音がした。
とん、とん、とん。床を歩く音。
しゃ、と布を引く音。多分カーテン。
それから、何か小さなものが机に置かれるような、軽い音。
僕はノブに触れようとして、やめた。その時には、冷たいことをもう知っていた。
そんで、アレ、ちゃんと言わないと。
そう思った。
「ただいま」
――少し、間があって、
扉の向こうで、誰かが息を吸ったような気がした。
「おかえり」
――【七】




