【八】
そこから二週間もすれば、僕はすっかりとこの城の主然とした風格を漂わせることができるようになっていた。
近所の牛丼屋のトッピングは全て制覇し、お気に入りのカスタマイズが定まる。ねぎ玉牛丼にキムチとチーズをオン。これぞ王。僕が王。
あの妙な夢はそれ以降特に見ることもなく、バイト先のうどん屋さんの仕事もちょっと慣れてきた。
バイト初日からてんぷらを揚げさせられたのはちょっとびっくりした。なんか液につけてタイマーでこう、あるんだ、マニュアルが。すごいよね。
ホントはダメなんだけど、たまーーに店長が余ったてんぷらをこっそり分けてくれる。大体はちくわとかかぼちゃとかナスとか。今度母さんに天丼の作り方を教えてもらおうかなと画策しているところ。
引っ越してきて二週間、炊飯器は二回くらいしか稼働してないけど。いいのかなこれ。だいじょぶそ?
そんなこんなで始まったばかりの大学生活と、夕方から夜、そして土日のバイト生活をこなしてくれば、夢のことなんてすっかり忘れていてもおかしくない。だから油断どころか、気にしてすらいなかった。
夢の中で、僕はまたあの扉の前に立っていた。
いや、その時は「これは夢だ」なんて気づいていなくて、「あ、扉がある」と思って。
そうそう、この壁さ、扉があるんだよね、でも中に入ったことあったっけかな。あったかな。ないかもな。
そう思って、細長い銀のノブに手をかけて、でもそれがびっくりするほどに冷たくて、思わず手を引っ込めた。
ああ、そうか、ダメじゃん、ちゃんと言わないと。
「ただいま」
「おかえり」
返ってきた声に、僕は既視感を覚えた。そうだ、うん、同じ声。前と同じ声。……だと思う。
男か女か、若いのか年寄りなのか、そういうのはよくわからない。けれど聞き覚えがあるような、ないような、スーパーのレジで「袋いりますか」と聞かれた時くらいの距離感の声。
つまり、知らないけど、知らないと言い切るほどでもない声。頭の中で物語が自動で音読されるときの声。
アホみたいなことを考えていれば、扉の向こうからかすかに音がしていることに気づいた。
とん、とん、とん。
床を歩く音。
近づいてくる感じじゃない。部屋の奥のほうで、誰かがただ普通に歩いているだけの音。
それから、しゃ、と布を引くような音がした。カーテン――、うん、カーテンを開ける音。いや閉める音かもしれない。どっちでもいい。夢だし。
なのに僕は、その場から動けなかった。
さっき銀色のノブに触れた指先が、まだ少し冷たかった。手を握ったり開いたりしてみる。ちゃんと動く。あれ、夢の中って冷たいとかあるんだっけ。ちょっとわかんないや。
扉の向こうでは、また、何か軽いものが置かれる音がした。コップとか、リモコンとか、そういう重さの音。
――生活音。
「…………」
怖いとかじゃなくて、ただ、あっちにも普通に部屋があって、誰かが普通に暮らしているんだな、という感じ。
そう思った瞬間、少しだけ変な気分になった。
だってここ、僕の部屋なのに。
僕の城なのに。
「……すみま……」
せん、となぜか謝りかけて、口をつぐんだ。
すみませんってなんだ。誰に。何を。しかも帰ってきた側が謝るの変じゃないか。いや帰ってきた側ってなんだ。
扉の向こうで、かち、と小さな音がする。電気のスイッチみたいな音だった。
そこで目が覚めた。
ほぼ骨身にしみた習性のようなもので、枕元のスマホを手に取る。朝の六時十二分。はっや。
部屋はまだ薄暗くて、カーテンの隙間から朝の光が細く入っていた。
カーテン、閉めたっけ。……いや、寝る前に窓を開けて、換気して、カーテンを閉めた。はず。
半分だけ体を起こして、窓のほうを見る。
真ん中がほんの少しだけ開いていて、そこから外の白い廊下みたいな朝が細く差し込んでいる。
まぁ、うん、あるある。そういうことはある。
布だし。揺れるし。エアコンの風とか。いやエアコンつけてないけど。気圧とか。地球の都合とか。
ちょっとスケールがどでかくなる気配を察知して、僕はもう一度ベッドに転がった。
右手の指先がまだ少しひんやりしていて、思い出す。あ、またあの夢見たな、扉の夢。
なるほどもしかして、布団から手を出して寝ていて、それで右手が冷え冷えになって、夢の中でノブに触れたという展開になったのか。そうかもしれない。そういうことにしておく。そういうことにした者が勝つ。
――二度寝しよ。
そう思った直後、窓の外でガコン、と音がした。自販機の音だ。
このマンションの一階、エントランスの横に百円自販機が置いてある。夜中でもやたら明るいやつ。
帰りに炭酸飲料を買うこともあるし、大変便利ではあるんだけれど、こういった明け方や夜中は誰かが買えばまあまあ音が響く。
朝っぱらから誰か買ったんだろう。
そう思って、僕は目を閉じたまま寝返りを打つ。
しばらく待っても、足音はしなかった。
缶を取り出す音も、なかった。
――【八】




