【九】
僕は同じ夢をよく見る。
部屋の中にある、ひとつの扉の前に立ち続ける夢。
夢の中の僕は、扉の向こうに「ただいま」と言い。
扉の向こうからは、誰かの声で「おかえり」と返ってくる。
それだけ。
初めてその夢を見たのは、この部屋に引っ越してきて三日目の夜だった。
大学の帰りにバイトの面接に行って、まぁしどろもどろになりながら面接をこなして、けれども感触は良くて。
僕はすっかり一仕事を終えた気分になって、コンビニでお気に入りの炭酸飲料と夕飯のおにぎりを買って、慣れない家路についた。
住宅街から少し坂を上った場所にある僕の"城"は、築三十年くらいのマンションで、五階建て。僕の部屋は三階の角にあった。
一応オートロック。宅配ボックスは空。郵便物は無し。小さなエレベーターで三階まで上がり、白い廊下を角まで歩く。
母さんにめちゃめちゃ言われて、引っ越し当日にお隣さんと下の階の人にはご挨拶に行ったけれど、多分もう係わらないと思う。あんまりご近所づきあいとかね、最近はね。
鍵をあけて部屋に入れば、申し訳程度の廊下があり、正面には八畳の洋室へつづく扉。
手前左手にはトイレの扉があって、その正面は脱衣所と洗面台と風呂。トイレの扉の横にちっちゃいキッチン。
IHが二口ついているけど、越してきて三日、スイッチすら入れてない。それどころか、その上にジュースの空き缶やら洗ったカップ麺の容器が置いてある。一応洗ってる、一応。……母さんに怒られそう……明日片づけよう。
洋室が引っ越し三日目にして片付いているのは、完全に父さんと母さんのおかげ。
主に母さんが司令塔で、父さんがハイハイって従ってる感じ。見えたでしょ、うちの縮図。
そのおかげか、引っ越し当日にものすごい速さで荷ほどきが完了、物の配置ももうパッパ、パッパと。
「あと自分で、好きなように動かしなさいね!」
そう言い残して、颯爽と去っていく二人の後ろ姿は、さながら戦士だった。親ってすげぇとは思ったものの、昨日もうすでに配置換えさせていただいた。まぁそんなもんだよね。
部屋の電気をつければ、真っ暗だった室内に白い灯が広がった。窓の向こうはバルコニーで、向かいの建物が見える。カーテンを閉める。
がさり、コンビニの袋をテーブルに置きながら、リュックを下ろす。明日は土曜日、大学はない。
テレビをつけて、おにぎりと炭酸飲料を取り出して、地上波……は最近何見ても面白くなくて、ネトフリをかける。
海外のドラマの、なんかちょっとSF系のやつを、"つづきから"で惰性で見る。
僕だけの部屋、僕だけの城というバフがかかっているおかげで、こんなだらだらした時間もちょっと気分がいい。
いつまでも動画を見ててももう何も言われないし、何時まで起きていても全部自己責任。
もちろん風呂は自分で沸かさなきゃ沸いてないし、飯も自分で用意しなきゃならないし、洗濯も……洗うのも干すのもたたむのもしまうのも全部自分、という監獄かな?みたいな状況ではあるけれど……それでもここが僕の城だった。
そんな三日目の、夜中。
風呂に入って、ちゃんとお湯も抜いて、浴槽洗うのは明日にして。
洗濯機は明日回すことにして、ネトフリはパソコンでかけることにして、ベッドに入った。
日本語字幕で見ていたもんだから、耳に聞こえてくるのはあんまり得意ではない英語のリスニング。これがまたほどよい睡眠導入剤となり、また、バイトの面接でちょっと疲れたな、というのもあり、あっという間に僕は眠りに落ちた。
夢の中で、僕は家のキッチンの前に立っていた。ちっちゃいキッチン。IHが二口の。
何とはなしに後ろを振り返れば、扉。茶色で、銀色の細長いノブのついた、こっち側に開くようになっている扉。
ここは風呂場の壁で、この向こうは風呂場で、こんなところに扉なんてない。けど夢の中の僕は"夢の中"だと気づいていなくて、「ああ、ここに部屋がある」としか思っていなかった。
そうして何故か、自然と口をついた。
「ただいま」
「おかえり」
――誰かの声でそう返ってきたのを聞いて、朝起きた。
頭皮の感覚で、寝癖がついている予感がする。枕元のスマホを手に取れば、朝の九時が過ぎたところ。
パソコンでかけていたネトフリは止まっていて、――ああ、洗濯するんだったと起きて、うぐあと伸びをして、腹をかく。
カーテンを開ければ、いい天気。洗濯機は脱衣所にあるので、脱衣所へと向かう。
その、途中で、キッチンの前を通る。そこで思い出した。あ、ここの壁に扉あったな。
ぴたりとその場所で立ち止まって、壁を見る。
ホラー映画によくある、何かが埋め込まれた跡とか、不自然な壁紙の剥がれとか、そういったものはまったくもってない。何故なら入居三日……あいや、今日で四日目。そんなものがあったら、管理会社に母さんが文句言いに行きそうだ。
だいたい、"ただいま"ってなぁ……。
壁を見ながら、がしがしと頭をかく。頭に触れた手に、四方八方へとっ散らかっている髪の毛の気配がして、神妙な顔で髪を撫でつけた。
脱衣所へ行って洗濯機を回す。引っ越し祝いに父さんが奮発してくれて、洗剤自動投入のやつである。
ちょっとドラム式とかかっこいいなってお願いしたんだけれど、脱衣所におけるサイズじゃなくてそちらは断念した。まぁドラム式は扉開けるスペースないとね。しょうがない。
洗濯機が回っている間、隣の洗面台で頭を濡らすこととする。いくら家から出る予定がないといえど、このとっ散らかった髪型は城の主にふさわしくないので……。
独立洗面台のシャワーが温水になるのを待つ間、カツン、と小さな音がした。
――なんだろう、洗濯機の中で服のボタンでも当たったかな。
そう思って洗面台の鏡を見れば、背後の風呂の折り戸が見える。
うわ、待ってこれはちょっと嫌かもしれない。内見の時に気づかなかったけど、ホラーでよくあるやつじゃん。洗顔してて顔を上げたら後ろの風呂場に人影が、みたいな。
ひえ~と思いながら、頭を濡らす。鏡で見た自分の寝ぐせは、やはりだいぶ前衛的な部類に入るヘアースタイルになっていた。
洗濯機の上でガタガタゆれるタオルを引っ掴んで、洗面ボウルの上で髪を拭く。顔を上げなければいけない。さっきなんかの音もしたし、これは来る。
ああ、来るだろ。――来い!と思いながら顔を上げれば……、……まぁ、何もいない。いても困る。
首にタオルをかけ、キッチンへ戻って、空き缶やカップ麺の容器をまとめる。僕が住んでいる市は、燃えるごみと燃えないゴミさえ分ければいいやつ。正直とても助かる。
ゴミ袋にがさがさと入れていきながら、背中に扉があった壁を感じる。別に怖いとかじゃない。今はちょっと敏感になっているだけ。
――そういえば、「おかえり」って言われたな。
それを最後に起きたような気がする。
がさ……、と袋を落ち着けて、もう一度その壁を見る。壁の向こうは風呂場。当然目の前に扉なんてない。あったらキッチン湿気だらけ。ふふ。
夢は、それが"一回目"だった。
――【九】




