緑大学からの提案
数日後、オカルト研究会の部室に緑大学 オカルト部 部長の西崎が訪れた。
***緑大学の提案***
数日後の午後。
空は鉛を流し込んだような鈍色に沈み、秋の終わりを告げる冷たい風が、青空大学旧校舎一階の窓枠をかすかに軋ませていた。
オカルト研究会の部室は、その校舎の最も奥まった角にある。
壁一面には代々の部員たちが残した地図や心霊写真、調査記録が幾重にも貼られ、天井まで届く本棚には、色褪せた文献や手書きの報告書が無造作に押し込められている。
薄暗い室内には、古紙と湿気、それに何か焦げたような匂いがわずかに漂っていた。
数日前、公園から持ち帰ったあの奇妙な空気が、まだこの部屋のどこかに澱んでいる。
岡村には、そう思えてならなかった。
一年生四人が報告書を提出してから、部室の空気は明らかに変わった。
先輩たちの視線に、これまでになかった緊張が宿っている。
誰もその理由を口にしない。
だが、何かが始まりつつあることだけは分かった。
その時。
控えめなノックが、静まり返った室内に響いた。
「どうぞ」
部長・田中祐一の声。
扉がゆっくりと開く。
現れた男を見た瞬間、岡村の指先が強張った。
見覚えがある。
公園で、遠くからこちらを見ていた男だった。
長身で痩せぎす。
黒いチェスターコートには皺ひとつなく、銀縁の丸眼鏡の奥にある瞳は、水を張った井戸の底のように静かだった。
静かすぎて、かえって不気味だった。
「はじめまして。緑大学オカルト部部長、西崎誠一です」
低く、よく通る声。
抑揚がないのに、不思議と耳に残る。
祐一が立ち上がった。
「青空大学オカルト研究会部長、田中祐一です」
二人が向き合う。
それだけで、室内の温度が一度下がったように感じた。
岡村は無意識に袖口を握りしめる。
「ご用件を」
祐一が促すと、西崎は頷き、黒い革鞄から一枚の地図を取り出した。
机上に広げられたそれに、全員の視線が吸い寄せられる。
赤い線が、街を縫うように走っていた。
まるで、巨大な血管が地図の下で脈打っているようだ。
その周囲には青や黄色の染みが、不自然なほど鮮やかに滲んでいる。
「共同調査の依頼です」
西崎の指先が、線をなぞった。
「この地域で、怪奇現象が連鎖的に発生しています」
「……かなり広いですね」
祐一が眉をひそめる。
「一点なら対処も可能です」
西崎は淡々と続けた。
「ですが、これは線だ」
指先が滑る。
「廃病院。廃ビル。河川敷。住宅街。そして——学校」
一拍。
「ここまで長く、生きた街を貫く霊道は見たことがありません」
岡村は地図を見つめた。
その瞬間。
背筋に、公園で感じたあの冷気が這い上がった。
ぞわり、と。
肩が震える。
西崎の視線が、すっと岡村へ向いた。
「あの公園で最初に異変を察知したのは、あなたたちですね」
岡村は頷く。
喉がひどく乾いていた。
「一年生が感じ取った」
西崎が小さく呟く。
「見過ごせません」
指が、赤い印の密集した一点で止まる。
「ここです」
全員の視線がそこへ集まった。
「通称——幽霊通り」
誰も息をしなかった。
「不可解な事故。原因不明の体調不良。凶悪事件の急増」
西崎の声だけが響く。
「すべて、この地点を中心に起きています」
「……霊道ですか」
祐一が低く問う。
「おそらく」
窓の外で風が唸った。
しばしの沈黙。
やがて祐一が口を開く。
「正直に言います」
机の端を握る手に力が入る。
「そこまで期待されても困る。うちには……昔みたいな人はいない」
その言葉に、空気が微かに沈んだ。
西崎だけが静かに首を振る。
「違います」
平坦な声。
だが、断定だった。
「田中部長。あなたには素質がある」
祐一の目が揺れる。
さらに視線は松井、小川へ。
「あなたたちも」
そして最後に。
岡村の上で止まった。
まるで値踏みするように。
岡村の背筋が凍る。
「少し、いいですか」
祐一が言う。
「どうぞ」
「僕たちは安全第一です」
低いが、揺るがない声だった。
「仲間を危険に晒すつもりはありません」
西崎は数秒黙り込んだ。
やがて、静かに告げる。
「正しい」
一拍。
「ですが、目を背け続ければ——必ず向き合う時が来る」
その声は、底なしの井戸へ沈んでいくようだった。
「霊的な問題は、放置して消えるものではありません」
さらに低く。
「あなた方の先輩も、そう判断しました」
祐一の視線が、壁際の古い集合写真へ一瞬だけ向く。
そこには、十五年前の部員たちが写っていた。
その中央だけが、鋭利な刃物で切り取られている。
岡村は息を呑んだ。
長い沈黙のあと。
「……続きを」
祐一が言った。
西崎は頷き、説明を再開する。
話が終わる頃には、窓の外は完全な闇に包まれていた。
街灯の橙色が差し込み、地図の赤い線を血のように照らしている。
「少し考えさせてください」
「もちろん」
西崎は立ち上がる。
「ただし、時間は多くありません」
それだけを残し、去っていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
岡村はテーブルに残された名刺へ手を伸ばしかけた。
だが、触れる寸前で止めた。
妙な圧迫感があった。
白地に墨で記された名前。
『西崎 誠一』
その文字だけが、まだ乾いていないように黒々と濡れて見えた。
***東都大学への連絡***
夜。
部室に残ったのは祐一ひとりだった。
蛍光灯の白い光が、静まり返った室内を照らしている。
机には、西崎が残した地図。
赤い線だけが、不自然なほど鮮やかだった。
祐一はスマートフォンを取り出し、東都大学の亜里沙へ発信する。
数回のコール。
「あら、祐一くん」
柔らかな声。
それだけで少し肩の力が抜ける。
だが。
「……西崎さん?」
その名前を告げた瞬間、声が凍った。
「彼が動いてるの」
祐一は思わず姿勢を正す。
「知っているんですか」
「ええ」
短い沈黙。
「資料を送って。それまで絶対に現地へ行かないで」
「分かりました」
通話は切れた。
その直後。
——ブゥッ。
着信。
非通知。
眉をひそめた、その時。
背後で、ぱさり、と紙の落ちる音がした。
振り返る。
本棚の足元。
一冊の古びた冊子。
青空大学オカルト研究会活動記録
――十五年前
祐一は拾い上げる。
氷のように冷たい。
開く。
黒く塗り潰された記述。
その余白に、乱れた筆跡。
『電話が鳴ったら、本棚を見ろ』
その下。
『非通知には出るな』
着信が止む。
履歴はない。
静寂。
そして。
——リリリリ。
呼び出し音。
スマートフォンではない。
本棚の奥からだ。
祐一はゆっくり振り返る。
本と本の隙間。
さらにその奥。
暗闇の中で、小さな赤い光が規則正しく点滅していた。
一回。
二回。
三回。
その時。
本棚の奥から、かすれた女の声がした。
「……やっと、気づいた」
祐一の全身から血の気が引いた。
赤い点滅が、ふっと消える。
次の瞬間。
耳元で、はっきりと囁く声。
「十五年前と、同じだよ」
***十五年前の着信***
祐一の全身が、凍りついた。
耳元に残る、かすれた女の囁き。
冷たい吐息が、確かに首筋を撫でた気がした。
反射的に振り返る。
誰もいない。
蛍光灯の白い光が、本棚と机の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせているだけだった。
だが。
手にした冊子だけが、異様な冷たさを放っていた。
まるで、氷水に沈められていたかのように。
祐一は喉を鳴らし、本棚へ視線を戻す。
暗がりの奥。
さっきまで点滅していた赤い光は消えている。
そこには、ただ黒い隙間が口を開けていた。
部室は静まり返っていた。
自分の呼吸だけが、不自然なほど大きい。
祐一は意を決して、本棚へ歩み寄った。
一歩。
床板が軋む。
二歩。
空気が、ひどく冷たい。
三歩。
鼻先に、湿った鉄の匂いが触れた。
本棚の前で立ち止まり、スマートフォンのライトを点ける。
白い光が、隙間の奥を照らした。
「……っ」
息が止まる。
そこにあったのは、黒いダイヤル式電話だった。
古びた電話機。
受話器には細かなひびが走り、黄ばんだコードには黒ずんだ染みがこびりついている。
こんなもの、この部室にあったはずがない。
祐一は二年間、この部室を使ってきた。
本棚の整理だって何度もした。
こんなものを見落とすはずがなかった。
電話機の横に、折り畳まれた紙片が一枚。
震える指で拾い上げ、開く。
そこには、乱れた文字で一文だけ記されていた。
『三回までは、待て』
その瞬間。
——リリリリ。
電話が鳴った。
祐一は肩を跳ねさせる。
一回。
乾いたベルの音。
二回。
鼓膜の奥を直接叩くような響き。
三回。
祐一の指先が、無意識に受話器へ伸びかける。
だが。
紙片の文字が視界に入った。
『三回までは、待て』
ぴたり、と鳴り止む。
静寂。
重たい沈黙だった。
祐一は荒い息を吐く。
その時。
スマートフォンが震えた。
亜里沙からのメッセージ。
『今すぐ部室を出て』
短い文。
続けて、もう一通。
『四回目が鳴る前に』
祐一の喉がひくりと鳴った。
さらに通知。
『もし鳴ったら』
そこで文章は途切れていた。
圏外。
「……なんだよ」
思わず漏れた声は、掠れていた。
その瞬間。
蛍光灯が明滅する。
ばちっ。
一度。
ばちっ。
二度。
そして。
闇が落ちた。
窓の外の街灯だけが、かろうじて部室の輪郭を浮かび上がらせている。
暗闇の中。
祐一は動けなかった。
耳鳴りのような静けさ。
その中心で。
——リリリリ。
四回目が鳴った。
すぐ後ろで。
耳元だった。
祐一の全身から血の気が引く。
ゆっくりと振り返る。
机の上。
そこに、黒電話が置かれていた。
さっきまで本棚の奥にあったはずのそれが。
受話器が、かたかたと震えている。
ベルはもう鳴っていない。
それでも震え続けていた。
受話器と本体のわずかな隙間。
その暗がりから。
白いものが、ゆっくりと這い出してくる。
指だった。
細く。
異様に長い。
爪だけが、不自然なほど赤い。
一本。
また一本。
そして。
受話器が、ひとりでに持ち上がった。
受話口の暗闇から。
女の声が、はっきりと響いた。
「——次は、あなた」
購読、ありがとうございました。




