新たなる謎
祐一は、部室で不可解な現象に遭遇していた。
***部室からの帰路***
「……なんだよ」
思わず漏れた声は、かすれていた。
祐一は活動記録を鞄に押し込み、西崎の地図を丁寧に畳むと、部室を後にした。
扉を閉める音が、やけに大きく廊下へ響く。
旧校舎一階の薄暗い廊下には、人の気配はなかった。
蛍光灯の白い明かりが、長く伸びた床板をぼんやりと照らしている。
祐一は足早に歩き出した。
革靴の音だけが、乾いた反響を繰り返す。
その途中。
背後で、こつ、と小さな足音がした気がした。
祐一の足が止まる。
振り返る。
誰もいない。
ただ、部室の並ぶ廊下が、まっすぐ闇の奥へ続いているだけだった。
数秒、耳を澄ませる。
何も聞こえない。
「……気のせいか」
小さく呟き、再び歩き出す。
やがて非常口の扉を押し開けると、冷たい夜気が頬を撫でた。
外は、いつもの大学だった。
街灯に照らされた中庭。
遠くで聞こえる自転車のベル。
サークル棟の窓から漏れる笑い声。
ついさっきまで部室で起きていた異常が、まるで幻だったかのような穏やかな夜。
だが。
胸元の鞄の中で、十五年前の活動記録だけが、まだ氷のような冷たさを放っていた。
祐一は無意識にそれを押さえた。
そして、いつものつばき荘へ向かって歩き出した。
***つばき荘・玄関***
つばき荘は大学から十五分ほど、小高い丘に面した住宅地の途中に建っている。
築五十年は軽く超えているだろう。
木の階段は軋み、外壁はところどころ塗装が剥げていた。
だが、不思議と嫌な感じはしない。
入学した頃は、夜ごと妙な物音がしたり、誰もいない廊下を足音が通ったりしていた。
祐一が風水の知識を活用してイヤシロチ化してからは、穏やかな何かに包まれているような感覚がある。
ここへ戻ると、霊的なざわつきが薄れる。
門をくぐり、玄関の引き戸に手をかけた時。
「あ、おかえり」
声がした。
桜だった。
玄関脇の郵便受けの前に立っている。
手紙を数枚持っていた。
桜は祐一と同じ三年生で、入学した時からつばき荘に下宿している。
二年以上を同じ荘で過ごした、気心の知れた同級生だ。
「おかえり。また疲れた顔してる」
「色々と忙しくてね。また新しい案件が入ったんだ」
「案件って、またオカルト系の?」
桜は眉をひそめつつも、慣れた様子で言う。
三年近く同じ荘に住んでいれば、祐一のサークルがどういうものか自然と知れてしまう。
「まあ、そう」
「ふうん」
桜は手紙をポケットに入れ、祐一を見た。
「そうだ、夜ごはんはまだでしょ。裏のカフェ、一緒にどう?」
祐一は空腹だったことを、その言葉で思い出した。
「そうだな。行こう」
***つばき荘カフェ***
つばき荘の裏手にある小さなカフェ。
荘の住人たちが気軽に使える落ち着いた店だ。
木のカウンターに、年季の入ったテーブルが四つ。
小さなランプが温かな橙色の光を落としている。
今では週に何度も訪れる、馴染みの場所だった。
祐一はカツカレーを注文した。
桜はハンバーグ定食を頼む。
「カツカレーって、なんか疲れた時に食べたくなるよね」
桜が笑う。
「……よく分かるな」
「二年も一緒にいれば分かるよ」
料理が出来上がるまでの間、二人はとりとめのない話をした。
授業のこと。
荘の住人のこと。
就職のこと。
他愛のない話が続く。
やがて、カツカレーとハンバーグ定食が運ばれてきた。
二人は向かい合って食べながら、話を弾ませた。
桜の笑い声が静かな店内に小さく響く。
祐一も、いつの間にか笑っていた。
部室で起きたことが、少しだけ遠くなる気がした。
食べ終わり、桜がデザートのメニューを開いた頃。
カフェの扉が開いた。
「おや」
穏やかな声がした。
三十代半ばほどの男だった。
すっきりとした顔立ちで、眼鏡はかけていない。
その目の奥には、年齢以上の落ち着きがある。
外出着のまま、片手に文庫本を持っていた。
二人を見つけると、軽く手を上げる。
「二人とも、ここにいたか」
「寮さん、夜ごはんですか?」
桜が尋ねる。
「読書のつもりだったんだが、小腹が空いてね」
寮は二人のテーブルへ歩み寄り、向かいの椅子を引いた。
「隣、いいかい」
「どうぞ」
寮がつばき荘に越してきたのは去年の春だった。
祐一や桜より後からの住人だが、その存在感は荘の中でも際立っていた。
オカルト専門誌の編集者で、この手の界隈ではそれなりに名の知られた人物だ。
普段は物静かで、必要以上のことは語らない。
だが、話す言葉には不思議な重みがある。
越してきてまだ一年ほどなのに、この場所に昔からいるような雰囲気を漂わせていた。
寮が席につき、コーヒーを注文する。
しばらく三人で他愛のない話をしていたが、やがて寮の視線が祐一へ向いた。
「どうだい、祐一くん。最近の調子は」
祐一は少し間を置いた。
「また、新しい案件が入って」
「ほう」
「それで……今日、緑大学から申し出がありました」
寮の手が、コーヒーカップの上で止まった。
「緑大学か」
静かに繰り返す。
「懐かしいな。僕も昔、通っていた大学だ」
桜がきょとんとした顔で寮を見る。
「そうなんですか」
「ああ。もうずいぶん前の話だけどね」
寮はコーヒーを一口飲み、祐一へ視線を戻した。
「どんな申し出だい」
祐一は鞄から西崎の名刺を取り出し、テーブルに置いた。
そして今日あったことを順に話した。
西崎の来訪。
広げられた地図の赤い線。
霊道と幽霊通り。
共同調査の依頼。
そして、部室で起きた不可解な現象を。
黒電話。
三回のベル。
紙片の言葉。
耳元で鳴った四度目の呼び出し。
受話器から這い出した指。
かすれた声。
東都大学オカルト探求部部長、西峰亜里沙からの警告。
十五年前の活動記録。
黒く塗り潰された記述と、余白の乱れた文字。
話し終えると、カフェの中がしんと静まり返った。
桜は途中からデザートのフォークを止めていた。
目が真剣になっている。
寮はコーヒーカップを両手で包んだまま、しばらく動かなかった。
やがて静かに口を開く。
「……その記録、見せてもらえるか」
祐一は冊子を取り出し、テーブルへ置いた。
寮がゆっくりと手を伸ばす。
受け取った瞬間。
指先がかすかに止まった。
ほんの一瞬だったが、祐一は見逃さなかった。
静かにページをめくる。
塗り潰された記述。
乱れた余白の文字。
寮の視線が、ある一行で止まった。
「……緑大学の記録だね」
呟くような声だった。
「知ってるんですか」
「少しだけ」
寮は静かに記録を閉じた。
「僕が大学に入った頃、当時の部長から話を聞いたことがある。ほんの少しだけどね」
祐一は身を乗り出す。
「どんな話ですか」
「十五年前、部に何かがあった、と」
一拍。
「それだけだ。詳しいことは、その部長も語りたがらなかった」
「青空大学と共同で何かをしていた話は?」
「知らなかった」
短く、静かに。
「そんなことがあったのか……」
遠くを見るような目だった。
「ほとんどすべてが秘密にされていたようだ」
寮は静かに続ける。
「僕が調べようとしても、何も出てこなかった。記録もない。話せる人間もいない」
一拍。
「あの塗り潰しも……ただ消しただけには見えない」
「あれ、何なんですか」
寮の手がテーブルの上で静止した。
一秒。
二秒。
「……無理に読もうとするな」
低く静かな声だった。
「なぜですか」
「何かを閉じ込める意図で、閉ざされているように感じる」
「分かるんですか」
「霊的な気配がある」
寮は静かに答えた。
「断言はできない。だが、普通じゃない」
少しの沈黙。
「当時の部長が消えたという話だけは聞いた。だが、それ以上は何も」
桜がぽつりと呟く。
「……それって、怖くなかったんですか」
寮は少し考えた。
「怖いというより」
ランプの橙色が、その横顔を柔らかく照らしている。
「気になって、仕方がなかった」
そして祐一へ向き直った。
「少し調べてみるよ。当時のことを知っている人間が、どこかにいるはずだ」
一拍。
「この件を、君たちだけに背負わせるわけにはいかない」
桜がそっと呟いた。
「気をつけてね、二人とも」
その時。
店内に流れていた静かなジャズが、一瞬だけ掠れた。
桜の手から、フォークが小さな音を立てて落ちる。
カフェの外で、夜風が一度だけ強く吹いた。
そして。
カウンターの奥、棚の隅に飾られていた古い置き時計が。
音もなく、止まった。
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