鎮魂
祐一達は、どこか不思議な世界に入り込んでしまったようだった。
***鎮魂***
静寂が支配する異空間。
春香の指先が、数珠の一粒一粒を辿る。
「これは……」
吐息のような声。
「今から、鎮めます」
その言葉は、決意というより祈りに近かった。
瞼を閉じる。
意識を研ぎ澄ます。
そして――口が、ゆっくりと開く。
「オン……アビラウンケン……ソワカ……」
声は低く、澄んでいる。
だが、震えていた。
恐怖ではない。
悲しみ。
深い、深い悲しみ。
経文が空間に溶け込んでいく。
見えない波紋のように、静かに広がっていく。
すると、赤く染まっていた空が、脈打つように明滅した。
ドクン……
ドクン……
まるで心臓の鼓動。
止まっていたはずの血が、一滴。
ポタリ……
地面に落ちる。
時間が、動き始めた。
いや、時間そのものが、歪んでいる。
その瞬間――
亜里沙の呼吸が、止まった。
「……っ」
息が、吸えない。
肺が、動かない。
見下ろすと――
自分の手が、透けている。
指先から。
ゆっくりと。
まるで、存在が薄れていくように。
「亜里沙!」
寮の声が遠い。
とても、遠い。
亜里沙の視界が揺れる。
そこに映ったのは――
自分。
だが、違う。
白い着物を着た、自分。
うつむいて、立っている。
死んだ、自分。
ゾクリ。
背筋を冷気が駆け上がる。
これは――
「……黄泉……」
亜里沙の唇が、震える。
「私たち……侵されてる……」
生者と死者の境界。
それが、溶けている。
このまま居続けたら――
戻れなくなる。
寮は、その変化を感じ取り静かに告げる。
「陽菜」
囁くような声。
「これは……悪霊だ。浄化を頼む」
「早く……!」
陽菜は無言で頷く。
両手を胸の前で合わせ、ゆっくりと前に突き出す。
深く、深く息を吸う。
肺の奥まで、冷たい空気が満ちる。
「……霊光弾」
その言葉は、呪文というより――祈りだった。
刹那。
周囲の闇が震えた。
そして――
光が生まれた。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて数十。
白く、儚い光。
それらは宙に浮かび、ゆらゆらと揺れている。
蛍火のように。
魂のように。
「……行って」
陽菜の声は、あまりに静かだった。
光の粒が、ゆっくりと動き出す。
音もなく。
ただ、静かに。
霧の中へ。
影たちへ。
光が、白い女たちに触れた瞬間――
ァ……ア……
声にならない声。
苦痛ではなく、解放。
女たちの身体が、光に包まれていく。
輪郭が溶ける。
霧のように薄れていく。
落ち武者たちも。
首のない影も。
腕のない兵も。
全てが、静かに消えていく。
光の中へ。
一人。
また一人。
音もなく。
ただ、静かに。
亜里沙の身体が――戻り始める。
透けていた指先に、色が戻る。
呼吸ができる。
「……ハッ……ハァ……」
荒い息。
生きている。
まだ、生きている。
寮が亜里沙の肩を支える。
「大丈夫か」
亜里沙は震えながら頷いた。
「ここは……異空間……いえ、違う……」
目を見開く。
「……黄泉……」
その言葉が落ちた瞬間、全員の身体が凍りついた。
黄泉。
死者の国。
生者が決して踏み入れてはならない、境界の向こう側。
祐一の首筋が、じわりと熱くなる。
五本の指の痕。
それが、まるで生きているかのように脈打つ。
黒い紋様が、血管を這うように広がっていく。
痛い。
熱い。
そして――
祐一の記憶が、揺らいだ。
誰かの名前。
大切な、誰か。
それが――
思い出せない。
「……誰だ……?」
祐一の口から、かすれた声が漏れる。
春香?
いや、違う。
もっと――
「祐一!」
春香の声。
その声で、記憶が戻る。
ハッとする。
今、忘れかけた。
大切な人の名を。
祐一は春香の隣に膝をついた。
「春香さん……僕も」
手を、強く握る。
離したら――
消えてしまいそうで。
春香が、薄く目を開ける。
その瞳に、祐一の姿が映る。
二人の声が、重なり始める。
「オン……アビラウンケン……ソワカ……」
「オン……アビラウンケン……ソワカ……」
声が共鳴する。
空間が、大きく震えた。
赤い空が、色を失い始める。
まるで血が抜けるように。
地面に落ちていた血が――
逆流した。
一滴、また一滴。
空へ戻っていく。
時間が、巻き戻っている。
いや。
違う。
これは――
「結界が……ほどけている」
寮の声は、あまりに静かだった。
霧が薄れていく。
影たちが消えていく。
空間そのものが、透明になっていく。
だが。
その中心に――
彼女は、まだそこにいた。
白い着物の女。
だが、もう歪んでいない。
もう、裂けていない。
生前の姿。
若く、美しく、そして――
あまりにも悲しい顔をしている。
女は、五人を見ていた。
その瞳には、もう何もない。
怒りも。
憎しみも。
ただ――
深い、深い悲しみだけが、そこにあった。
「……ありがとう……」
唇が、かすかに動く。
声は、もう聞こえない。
ただ、その口の形で分かる。
「……やっと……」
涙が、一筋流れた。
「……終われる……」
そして――
女の唇が、もう一度動いた。
「……あの夜……私は……」
それ以上は、聞こえない。
言葉にならない。
ただ、その表情だけが。
あまりにも悲しい表情だけが。
全てを物語っていた。
その瞬間。
女の身体が、光に包まれた。
それは、霊光弾とは違う光。
柔らかく。
温かく。
静かに。
女の姿が、透けていく。
まるで、朝霧が消えるように。
「……何百年も……」
声が、遠くなる。
「……待っていた……」
もう、輪郭が見えない。
「……もう……いい……」
そして――
女は、微笑んだ。
初めて。
本当の、安らぎの笑顔。
次の瞬間。
光が――弾けた。
音もなく。
ただ、静かに。
白い光が、空間全体を包み込む。
五人は、ゆっくりと目を閉じる。
耳鳴りがする。
身体が、浮いている。
重力が、消えている。
落ちている――
いや。
戻されている。
静かに。
とても、静かに。
そして――
***帰還***
意識が戻る。
ゆっくりと。
五人は、朽ちた建物の前に立っていた。
赤い空は、もうない。
青い空。
白い雲。
風が、優しく頬を撫でる。
鳥が、どこかで鳴いている。
「……戻った……」
亜里沙の声は、震えていた。
祐一は、そっと首に手を当てる。
痕は――
まだある。
薄くなったが、完全には消えていない。
黒い紋様は消えている。
だが――
指先に、ほんの一瞬。
黒い影が走った気がした。
気のせい、だろうか。
春香が、ゆっくりと立ち上がる。
「浄化……できました」
その声は、涙を堪えているようだった。
だが――
春香の手の中の数珠。
その一粒に、髪の毛ほどの細いひびが入っている。
春香は、それに気づいていない。
陽菜は、静かに頷く。
「気配が……もう、ない」
寮は、朽ちた建物を見上げる。
崩れた壁。
落ちた屋根。
だが――
もう、何もいない。
ただの廃墟。
静かな、廃墟。
そのとき。
遠くから、声がした。
「おーい!!」
峯川の声。
五人は、ゆっくりと振り向く。
山道を、峯川たちが走ってくる。
橘美紀。
小川。
松井あゆみ。
星川。
全員、無事だった。
「大丈夫か!?」
峯川が、息を切らしながら駆け寄る。
祐一は、小さく頷いた。
「……ああ」
「終わった」
峯川は、一瞬だけ目を見開く。
そして静かに、頷いた。
「……そうか」
橘美紀が、建物を見つめる。
「気配が……ない」
星川も、静かに言う。
「もう……」
小川が、言葉を継ぐ。
「どうやら、静まったみたいだ」
沈黙が落ちる。
風だけが、木々を揺らす。
葉擦れの音。
それだけが、この場所に響いている。
春香が、空を見上げた。
「安らげたんですね……」
その声は、とても穏やかだった。
寮が、静かに歩き出す。
「よし、先に進もう」
全員が、無言で従う。
山道をさらに登り、広場を目指す。
祐一は、一度だけ振り返った。
「あの廃墟の奥の霊は救われたみたいだ……おやすみなさい」
山は、何も答えない。
ただ、静かに、そこにあるだけだった。
松井あゆみが祐一に尋ねる。
「どうかした? 部長」
「いや、さっきの霊たちの事が気になって……」
春香が静かに答えた。
「成仏しました」
その声には、安堵と――わずかな悲しみが混じっていた。
峯川が前を向く。
「よし、先を進もう。慎重にな」
一行は再び歩き出す。
山道を。
頂へと。
祐一は、ふと空を見上げた。
青い空。
白い雲。
だが――
山頂の方だけ。
ほんのわずかに。
空が、紫がかっている気がした。
まるで――
夕暮れでもないのに。
「……気のせい、か」
祐一は小さく呟き、前を向く。
だが。
首の痕が、ほんの少しだけ。
じわり、と熱を持った。
一瞬だけ。
すぐに冷える。
やはり、気のせいだろう。
そう思いたかった。
一行は、山を登っていく。
静かに。
ただ、静かに。
風が、木々を揺らす。
ザッ、ザッ、ザッ……
足音が重なる。
祐一は無意識に、その音を数えていた。
一、二、三……
四、五、六……
七、八、九……
十……
……十一。
祐一の足が、一瞬止まる。
だが――
気のせいだ。
そう、自分に言い聞かせる。
前を向く。
だが。
祐一は、もう一度だけ首に触れた。
痕は薄い。
熱もない。
だが――
心臓の鼓動が聞こえる。
一つ。
二つ。
三つ。
……四つ。
多い。
祐一は、静かに手を下ろした。
山は、何も語らない。
ただ、彼らを――
見送っていた。
いや。
違う。
山は――
彼らを、飲み込んでいた。
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