それぞれの夜
窓から流れ込む風は、日中に比べて随分涼しげなものに変わっていた。銀鉤が優しく光を注ぐ部屋で、レアンは一人机に向かっている。机上には大量の書類。城は静かで、時折書類とペンが擦れる音以外、何も聞こえない。
明かりもつけず、青白い月明かりのみを手元に落としていたレアンが、ふと口元を緩めた。
「いつになったら声を掛ける気ですか?」
暗闇に向け問いかけると、部屋の隅で闇が揺らいだ。姿を現したのは、幾分かバツの悪そうな顔をしたエーデルである。
「い、いや、忍び込んだ形になって悪かった」
「構いませんよ。バレてますし」
「お、俺だって正面から入った方が良いってのは知ってんだ!で、でもその、話が話だからというか……」
「ひとまず座ったらどうです?生憎今は手が離せませんので、このまま聞きますよ」
「お、おう」
エーデルは椅子を引っ張って、机を挟んだ正面に座った。その顔はどこか焦っているようにも、落ち込んでいるようにも見える。
「それで?正面から入ってこれなかった程の話とは何なんですか?」
「…………」
「エーデル?」
「いや、話すよ!話すけど、その……やっぱり言いにくくてだな……」
「当てましょうか」
「へ?」
「ネフェロディス国のことでしょう?厳密には、月蝕会のことですか」
「しっ……知ってたのかよ!?」
「分かり易いんですよ貴方が。まあ、今そちらが最も問題視しているのはそれしかないでしょうしね」
書類に目を通しながら、レアンはチラリとエーデルを見た。エーデルは肩を落とし、大きく溜息をつく。
「……いや、まあ、知ってたなら話は早いか」
「それはそうですが、貴方は月蝕会の人間でしょう?何故貴方が月蝕会のことで俺を訪ねて来るんです?」
エーデルは口を噤み、ジッと自分の手を見つめた。紺色の目に、苦悶が滲む。
「……ネフェロディスが魔法の研究に力を注いでるのは、知ってるだろ?」
「もちろんです。諸国の中でもとりわけ熱心で、またその成果も著しい。月蝕会は、より優秀な魔法使いを育成するために国が立ち上げた機関だったはずですが?」
「そうだ。そして王宮は、月蝕会に力を注ぎ過ぎて、俺達と国民の間に大きな格差を生んでしまった」
「それはそうでしょうね。国民から巻き上げた税金も、その他生活物資でさえ、優先的に回されるのが月蝕会ですから」
「……耳が痛い話だな」
「何を今更。王宮との結びつきを強める為に、婚姻を結ぶ所まであるじゃないですか。そんなことをすれば、益々国民が離されていくだけですよ」
「問題は、その婚姻なんだ」
「と、言いますと?」
ここで初めて、レアンは手を止めてエーデルを見た。月明かりの中、エーデルの切迫した目が光る。
「……王宮の第三王女、エルローズ・デゼル・ネフェロディスを知ってるか」
「ええ。王宮内で唯一、格差に苦しむ国民を救おうと奮闘している方ですね。その方がどうかしましたか?」
「そいつは…………」
言いよどんだ挙句、エーデルは震える声で呟いた。
「俺の、幼馴染なんだ」
風が吹き、二人の間を通り過ぎた。ほんの少し、沈黙が降りる。
「……その、エルローズ王女が幼馴染であることが、何か問題なのですか?」
「っ……王宮に生まれた娘は、代々、十七の年に月蝕会の男と婚姻を結ぶしきたりだ。アイツは今年で十七になる。だから……っ」
「月蝕会と婚姻を結ぶことが、何か大きな問題になるんですね」
ここで、レアンの口元に意地の悪い笑みが浮かんだ。
「貴方の恋路が断たれること以外に、ですか?」
「なっ……!!はあ!?」
「見るからに動揺して……面白い事この上ないですよ」
「うっうるせえな!!ほっとけ!!」
顔を真っ赤にし、エーデルは吠えた。が、しばらくしてその顔も厳しい色に染まる。
「……アイツは、昔から、誰にでも優しくて……苦しむ国民を放っておけないって、いつも走り回ってた。王族に疎まれても、月蝕会に煙たがられても、ずっと、笑顔で……でも、それもアイツがまだ自由な立場にいたからできたことなんだ。正式に月蝕会と関係が出来てしまえば、アイツはそれに縛られることになる……もう、国民のために動いてやることが出来なくなるんだ」
「なるほど。婚約者、ひいては結婚を押しつけることで、目障りな王女の動きを封じてしまおうというわけですか」
「王宮と月蝕会の狙いは、そうだと思う。でも俺は……アイツが不幸になることなんて、望んでない」
「…………それで、俺に何を頼みたいんです?」
浮かべられたレアンの笑みはひどく愉快そうで、傍から見れば悪だくみをしているようにしか見えないだろう。だが、エーデルはその悪魔の笑みに乗った。
「王宮と月蝕会の企みを、潰したい。その為の協力が欲しい」
「いいでしょう。チドリ様には俺から話しておきます。他の魔道士の方にも、声を掛けておきますよ」
「わ、悪い……頼んだ」
「いえ。我々としても、そろそろ目につく頃だったので。チドリ様も、きっと喜んで協力してくれますよ」
「……」
「何です?」
「え、い、いや、お前、ホントにアイツのこと好きなんだなーと、思って……」
「今更ですね」
わずかに目尻を染めたエーデルが、部屋に置いてあるベッドをチラリと見やった。次いで、耳を赤くする。
「何です?まさか一緒に寝ているとお思いで?」
「へっ!?え、あ、いや、その……!!だ、だってあの公爵の家で、お前達……!!」
「小僧みたいな想像はやめてください。あの時も今までも、本当にただ隣で眠っただけですよ」
「え……そ、そうなのか」
「はい。俺、もともとあまり寝つきが良くなかったんですけどね。あの方に会ってから毎晩ちゃんと眠りにつけるようになりました」
「寝つきが…って、なんだ、眠りが浅かったとかか?」
「いえ、幼い頃はアロガンに命を狙われてばかりだったので、夜間でも安心できなくて。少しの音でも目が覚めてしまったり、ありもしない人の気配を感じて眠れなかったり、ですね。眠っても誰かに追われる夢を見るばかりで、正直あまり休めませんでしたし」
「そ、それ……結構重症じゃねえか?」
「そうですね。まあでも、今は夜も眠ることも怖くないですから」
ふっと、レアンの頬が緩んだ。エーデルがポツリと零す。
「……お前みたいに素直に気持ちを言えたら、楽だろうな」
「どういう事です?」」
「いや、お前ってさ、アイツに対する気持ち隠したりしないだろ。ダダ漏れっていうか」
「隠せるものでもありませんしね」
「そ、そういうもんか」
「何です?素直になれないとかそういうことですか」
「すっ……ま、まあ、そう、なのかな」
「素直に気持ちを、という意味では、俺もチドリ様には完全に素直になってはいないと思いますがね」
「お前が?」
「はい…………本音を言うと、あまり外に出て欲しくはなくて」
「…………は」
「魔道士という立場にあるなら仕方のないことかもしれまんせが、どうもあの方は危険を顧みずに行動してしまう所があります。俺は、安全な所にいて欲しいです」
「安全な、所」
「ええ。安全が確保された部屋で、何の危険もなく、何の心配もなく、何も気にせず、俺の事だけを考えていて下さればと思います」
エーデルの顔が引き攣った。レアンの唇が、妖しい笑みを描く。
「正直、俺は世界がどうなろうとどうでもいいのだと思います。チドリ様さえいて下されば、それで。あの方が存在するために必要だから、世界というものを守ろうとはするのでしょうがね」
「……お前、俺が思ってたよりもだいぶヤバい奴だったんだな」
「それほどでも。まあ、でも……」
レアンが苦笑した。
「俺がどれだけそう思おうと、あの方は変わらず他者のために動くのでしょう。変わらず誰かを救おうとし、傷つき、泣いて、それでも走り続ける……あの方が俺にして下さったように」
「……そうか」
「確かに、俺があの方の為を思ってどこかに連れ去ってしまうのは容易いことなのでしょう。ですが、魔道士であることを捨て、何の危険も心配もなくただ息をしているチドリ様は、きっとチドリ様ではなくなってしまう」
「でも、お前はそうしたいんじゃ……」
「いえ、確かに、二人だけの空間を築けたらどれだけ幸せかと思いますが……きっと、それはチドリ様にとっての幸せではないですから」
「アイツにとっての……?」
「矛盾するようですが、あの方の幸せが俺の幸せです。チドリ様がチドリ様であるために、俺は、自分の奥底にある本音を隠しているんです」
「辛くねーのか。それって」
「全く。チドリ様の傍にいられれば、いえ、チドリ様が幸せなら、それ以上は望みませんから」
レアンの言葉を受け、エーデルは何か考えているようだった。伏せられた睫毛を、青白い光が撫でていく。
やがて、「よしっ」と声を上げて立ち上がった。
「俺、帰るわ。遅くに来て悪かったな」
「いえ、お気になさらず」
数歩離れて、エーデルがこちらを振り向く。
「……ありがとな、レアン」
その言葉を最後に、エーデルの姿は闇に消えた。
レアンは一人、部屋の中で微笑んだ。




