直情猫騒動(5)
ベッドに俯せた状態で、チドリは脱力していた。耳は垂れ、尻尾はいまだにレアンの手の中にある。体を動かしたわけではないのだが、ドキドキし続けたことによる精神的疲労が最高潮に達していた。レアンは、動かなくなったチドリを面白そうに撫でている。
「あの……それで、何か……情報は取れたんですか……?」
「そうですね。心なしか、だんだん本物の猫に近づいているような気がします」
「ええぇ!?」
悲鳴を上げ、チドリは跳ね起きた。
「ほ、本物って……!?このままだと猫になっちゃうってことですか!?」
「いえ、そこまではわかりませんが……あくまで俺の意見ですので、本当にそうかはわかりませんよ」
「で、でも、もし本当に猫に近づいてたら……!?人間に戻れなくなったりしたらどうしよう……!!」
青ざめた頬を押さえたチドリを、レアンは微笑んで見つめた。
「猫になってもいいのではないですか?存分に撫でて差し上げられますし」
「い、嫌ですよ!人間のままがいいです!っていうか……に、人間でも、な、撫でるじゃないですか……!」
「それもそうですね」
応えて、レアンがまた尻尾を撫でる。「ふぎー!」と抗議の声を上げ、チドリが身を捩った。咄嗟に、レアンが尻尾の先を掴んでしまう。
「にゃっ!……ね、猫になっちゃったらギューもチューも出来なくなっちゃうにゃぁ!ふぎゃあぁぁ!!」
「…………」
羞恥のあまり、チドリはベッドから転げ落ちた。絨毯の上で、尚ももがく。
「う、ううぅ……もうやだ……もうやだ……」
「……チドリ様」
ベッドの上から顔を覗かせ、レアンが覗き込んできた。チドリは赤い顔を手で覆い、指の隙間からおずおずとレアンの方を窺う。
レアンは、真顔でチドリを見つめていた。
「……やはり、猫になってしまわれるのは嫌です」
「う……うー……?」
「仰る通り、抱きしめることも口づけすることも出来なくなるのは、耐え難いですからね」
「ヴッ」
レアンが手を差し出し、チドリをヒョイと引っ張り上げた。ベッドの上に戻ったチドリは、そのままレアンの膝の上に向き合う形で座らされる。レアンは両腕でチドリの背を支えた。体が密着し、チドリが尻尾の毛を逆立てる。
「……きっと、エーデルが治してくれますから。安心して下さい」
「う……はい」
背中に回っていたレアンの手が、チドリの頭を撫でた。それが心地よくて、思わず目を細めてしまう。レアンが頬を緩めた時――ふいに、窓を叩く音がした。
「おや……雨が降ってきたようですね」
「雨、ですか?」
「ええ。かなり強いようです……夕立でしょうか」
レアンが呟いたと同時に、窓の外で白光が弾けた。
「……ッッ!!」
続いて、空気を震わせるような轟音。
「チ、チドリ様?」
チドリは、レアンに必死の形相でしがみついていた。耳も尻尾も、ピンと立っている。
もう一度、雷が鳴った。
「……ッ!!」
「チドリ様……雷が苦手なのですか?」
問われて、チドリは声も無く無茶苦茶に頷いた。ふと、レアンはその体が震えていることに気づく。背中を擦ると、チドリはますます強い力でしがみついてきた。
「す、すみ、ません。わ、わた、私、か、雷は、ちょっと、に、苦手、で」
「いえ、構いませんが……大丈夫ですか?」
「あ、は、はい、だい、じょうぶ、で……――」
窓の外が光り、チドリは短く悲鳴を上げた。
脳裏に蘇るのは、薄れかけていた元いた世界での記憶だ。
ただでさえ狭い部屋で、一人きり、何度も雷をやり過ごそうとした夜。塾や学校からの帰り道に、冷たい雨と共に体を打ちつけた轟音。家で一人だった時に停電になり、右も左も分からなかったこともあった。とにかく、雷には悪い思い出しかない。雷で怯えるなど子どもっぽいと、行雄の息子に散々からかわれたため、なんとか克服しようと思っていたのだが、どうしても恐怖に打ち勝てない。
情けなくて、涙が滲んだ。
「……すみません。雷が怖いなんて、私……」
「なぜ謝るのです?」
レアンがポンポンと背中を叩いた。
「誰にだって怖いものの一つや二つはあります。恥ずかしがることなどありませんよ」
「でも……」
「そんなに怯えるのは、何か理由があるのですか?」
尻尾を押され、チドリの口が言葉を滑らせた。
「雷は怖いのにゃ。家に一人でいる時に何回も我慢したのにゃ。でも、レアンさんみたいに傍にいてくれる人もいなかったのにゃ……っあ」
口元を押さえ、体を離す。レアンの目は、驚きに満ちていた。しまった、という思いがチドリの胸を掠める。
「あ、あの、し、尻尾、離して、下さ……」
「……貴方から、元の世界の話を聞くのは初めてですね」
「え……?あっ!」
止める間もなく、レアンの指は尻尾を押した。堪えようとしても、言葉は止まらない。
「向こうにいた時、は、ずっとずっとずっと辛かった、のにゃ……っい、居場所も、なくて、生きてる、意味も、わかんなくて……っこの、世界に来て、はじ、めて……必要と、して、もらえて……っすごく、嬉しかった、にゃ」
首を振って拒んでも、レアンは聞き入れてくれなかった。
「叔父さん、は……私を、嫌ってたにゃ。私、が、出来の悪い子、だったから……っ自分が嫌いな、弟の娘、だから……!叔母さんだって、子どもの晴香と健だって……私の事、嫌ってた、にゃ……っ」
「…………」
「い、いらないなら捨ててくれればよかったのにゃ!っ……居場所の無い所に、なんて……生きていたくなんか、なかったにゃ……!寂しかったにゃ!悲しかったにゃ!でも、あそこしか、いられ、なくて……死ぬのも、怖くて、出来なかったにゃ」
濁流のように、蓋をしていた思いが溢れ出た。慟哭に近いチドリの言葉を、レアンは黙って聞いている。
「それに、それ、に……私、私、ホント、は……」
せり上がる言葉を、チドリは必死で止めようとした。レアンが、指先に力を込める。
「ホント、は……お、男の人が……ちょっとだけ……こ、怖かった、にゃ」
「え?」
ここにきて初めて発したレアンの声は、微かに震えていた。
「……健の友達に、からかわれてたことが、あった、にゃ。帰り道で、偶然会ったり、した時に……っか、囲まれ、て、ちょっと……だけ……」
「…………何を、されたんです」
「た、大したことじゃ、ないのにゃ。つ、突き飛ばされたり、ちょっと、さ、さ、触られたりした、だけ、にゃ……か、帰り道は人通りが多かったし、向こうも、そんなに、本気じゃ、なかった、のにゃ……」
チドリの目から涙が零れた。レアンがハッと我に返り、慌てて尻尾を離す。
「も、申し訳、ありません……!!」
「い、いえ……っレアンさんは、悪く、ないです」
笑おうとするが、上手くいかなかった。レアンが恐る恐る手を伸ばし、目元を拭う。
「……本当に、すみません。こんなこと、お話しさせるべきでは……」
「いいえ。ずっと、話さずにいた私が悪いんです」
レアンの手に自分の手を重ね、チドリは力なく笑った。
「……ダメですね。こんな状態じゃないと、話せなかった、なんて」
「っそんなことは……!!」
抱き寄せたレアンの力は、先ほどより弱かった。どことなく、チドリに触れることを躊躇っているように思える。
「俺が、悪いんです。こんな……っ辛いことまで、強制して、話をさせるなんて……」
「い、いえ!私も、その、話して、ちょっとはスッキリしたというか……まあ、そりゃ、辛かったです、けど」
「……本当に、すみません」
「そ、そんなに謝らないで下さい」
「俺が……貴方の事を、無理に聞き出そうとしたせいで」
「……レアンさんが、興味本位で尻尾に触ったわけじゃないって、わかってます。私の事、知りたいと思ってくれたんですよね」
「ですが……」
「隠してたわけじゃないんです。でも、私自身の話なんてつまらないですし、何より、楽しいばっかりじゃありませんでしたから……話してもいいか、わかんなくて。でも、やっぱり聞いてもらえてよかったのかもしれません」
「こんな形でも、ですか……?」
「こんな形でもないと、話すことはなかったと思います……それに、レアンさんが、本気で知りたいと思っていなかったら、こんなことしないでしょう?」
目を合わせて笑うと、レアンの顔がクシャリと歪んだ。叱られて泣きそうな子どものようだ。
「確かに、俺は本気でチドリ様のことを知りたいと思っています。でも……貴方に辛い思いをさせてまで、知りたいなんて……」
「わかってますよ。私も、まさかあんな事まで思い出すとは思ってなかったもんですから」
「…………男性が苦手だとは知らずに、俺は……」
「あ、アイツらとレアンさんを一緒にしちゃダメですよ!?レアンさんだけじゃなく、こっちの人達は皆良い人です!だから、レアンさんが気にすることなんてないんです!」
レアンが手を伸ばし、そっと頬に触れた。チドリの口から「ふへ」と変な声が出る。
「…………そんなに辛い思いをされたのに、忘れたいとは思われないのですか」
「え?」
「エーデルならば、記憶を消す魔法や魔法薬くらい知っているでしょう。チドリ様がお辛いのなら……」
「わ、忘れたいとは思ってません」
レアンが微かに目を見開く。チドリは、頬に触れていない方のレアンの手を取った。
「確かに、向こうにいた頃は辛い事や悲しい事ばっかりでした。でも、その思い出があるからこそ、私にとっては今が最高に幸せなんです!友達もできたし、必要としてくれる人にも出会えたし、な、何より、その……自分を好きだって言ってくれる人にも出会えましたし!」
「チドリ様……」
「向こうでの思い出を忘れてしまったら、今あるものを大事にできないと思うんです。それは、絶対に嫌なんです」
チドリの瞳に宿る力強い光を見つめ、レアンは温かく微笑んだ。手を引き寄せ、チドリの指先に恭しく口づける。
「……チドリ様」
「は、ひゃいっ!」
耳を赤くしたチドリに、レアンは確かな気持ちを込めて唇を開いた。
「元の世界で辛い思いをされた分……いえ、それ以上に貴方を幸せにすると…………約束します」
息がつまり、チドリの目から新たな涙が零れた。
長くなってしまいました(-_-;)




