灰爪と銀牙(5)
闘技場と呼ばれたそこは、古代ローマのコロッセオに似ていた。重なり連なる観客席は、ほぼ満員だ。皆熱に浮かされたような表情で、中央に戦士が出てくるのを今か今かと待ち受けている。
「あーあ、趣味悪ぅ……男ならやっぱり、一対一で殴り合いだよねぇ」
「何わけのわかんないこと言ってんだよ。それだって同じだろ」
「わかってないなあ。武器も何も持たずに、正々堂々を踏みしめたみたいに戦うのがいいんじゃないか。毒だの枷だの魔物だの、悪法とか蔑視なしじゃなきゃ楽しくないんだよ。こんなのは、ただの弱い者虐め。嗜虐趣味。暴君」
「そういうもんか……?」
「坊やにはまだ早かったかぁ」
「やっかましい!!」
二人の会話の隣でボンヤリしていると、ふいに近くの男達の声が飛び込んできた。
「な、なあ……俺、やっぱり帰っていいか?こういうの、好きじゃないっていうか……」
「何言ってんだよ!!面白いじゃん!!見て行こうぜ!?」
「……いや、やっぱり帰るよ。おかしいだろ、こんなの」
驚いて、思わず声がした方を振り返った。若い男が、連れ立っているもう一人に向け、毅然と言い放っている。
「何がおかしいんだよ!?魔物が奴隷として戦ってるんだぜ!?最高の演目じゃねえか!!」
「……ごめん、俺はいいや」
尚も捲し立てる男に構わず、若い男は歩き去って行った。
チドリは、その背をしばし見つめてしまう。
「……どうやら、まともな人もちゃんといるみたいだね」
「そうみてーだな。見ろよ、結構同じような顔したやつらがいるぜ」
エーデルの言葉に辺りを見渡せば、確かに、先ほどの男と同じような顔をした者がチラホラ見られた。皆不安そうにし、席を立つ者も少なくない。
「……どう?エーデル」
「若いやつが多いな。二十前半までくらいのやつばっかりだ……そこそこの年齢のは、ほとんど居座ったままだな」
「何か、関係あるんでしょうか……」
「大有りだろうな。こりゃ益々、偽の魔道士とやらが怪しくなってきたぜ」
エーデルの瞳が鋭くなった時、場内に試合開始が告げられた。
人々の歓声を受け、重々しい扉が開く。中から現れたのは、重装備の兵士四人と、ふらついた魔物一人だった。魔物は歩くのも困難なようで、足を引き摺っている。体には、痛々しい怪我が残っていた。
「手当も何もないってわけかい。卑劣だねえ」
兵士たちが魔物を取り囲んで距離を取った。魔法で拡張された声が、兵士の名前を読み上げる。
最後の兵士が観客に手を振った直後、一人が魔物に斬りかかった。
何とか身をかわすも、別方向から他の兵士が斬りこんでくる。松明の炎を受け、剣先が冷酷に光った。魔物が呻き、鮮血が飛ぶ。観客が声を上げた。
兵士に続き、他の兵士達も剣を振るう。
四対一だ。しかも、魔物は手負いの状態である。明らかに分が悪かった。
「……チッ胸糞悪ぃ」
エーデルが吐き捨てる。チドリは目の前の光景を愕然と見つめていた。
おかしい。異様だ。こんな残酷なことを、人々は目の当たりにして何とも思わないのか。恐怖と憤怒が激しく渦を巻いた。
「おい。目ぇ逸らすなよ」
戦いに目を向けたまま、エーデルがチドリに言った。
「どんだけ非道だろうが見ていられなかろうが、これがこの国の現状なんだ。そこから逃げんじゃねえぞ。しっかり目に焼き付けとけ……んで、怒りをお前の中に溜めとけ。力にして、ぶつけてやれ」
「エーデルさん……?」
「チドリにそんなこと言うなんて珍しいね。俺はてっきり、軟弱者って怒鳴るのかと思ったけど」
「……ふん。犬がうるせえだけだ」
口を尖らせたエーデルに、チドリはしっかり頷いてみせた。
腕に滲み始めていた黒い亀裂を、そっと抑える。
(怒りに身を任せちゃダメだ。ちゃんと自分を制して……正面から、戦わなくちゃ)
爪を立てた時、魔物が崩れ落ちた。
そこから先も、三人は黙って試合を見守った。
毒のせいで目が見えなくなった者、何重にも巻かれた鎖のせいで身動きが取れない者、腕や足が麻痺した者――試合が過ぎる度に、チドリは呼吸を整えなければならなかった。腕にあった亀裂は、ほんの少しずつではあるが広がり始めている。隣にいたエーデルが、目聡くそれに気づいた。
「お前、それ……」
「大丈夫、です。あの時みたいには、なりません、から」
「チドリ、顔が真っ青だよ」
「……大丈夫です」
闘技場の中央には、魔物の流した血が広がっていた。
夜空の下、炎に照らされる赤。
チドリの腕から流れる物と、同じ色だ。
だからこそ、許せなかった。
奥歯を噛みしめる。次に場内に連れてこられたのは、二人の魔物だった。
大きい方は鎖に繋がれ、小さい方は兵士の手に捕まっている。
歓声を縫って、二人の悲痛な声が届いた。
「……ちゃん!父ちゃあぁん……!!」
「カルフ……!!待ってろ、今助けてやるからな!!」
兵士が二人を囲んで笑い声を上げる。
鋭い音がして、チドリの腕に激痛が走った。
ライゼとエーデルがこちらを見るが、反応できない。
チドリがくぐもった声を上げた。顔は白く、汗が浮いている。爪を立てた腕から、漆黒の亀裂が広がっていく。
「お前……!!」
「チドリ!どうした!?」
「……大丈、夫……」
濁流のような怒りが押し寄せる。体を押さえておくことすら難しい。神経が擦り切れそうだ。カルフと呼ばれた子どもの魔物が泣き声を上げる。父親らしき魔物がもがく。それを、観衆や兵士が嘲笑った。
視界が、黒く染まっていく。
頭の奥で、紫苑の声が聞こえた気がした。
(紫苑……私、もう……)
チドリが立ち上がろうとした時――戸を破り、銀色の獣が飛び出した。