灰爪と銀牙(6)
観衆と兵士が瞬きするより早く、その獣は兵士の手から子どもを奪い取った。
次いで、目にも止まらぬ速さで父親の鎖を断ち切る。
突然のことに、闘技場は静まり返った。
子どもを抱えなおし、獣――レアンが笑う。
「遅いぞ。待ちくたびれた」
その声で、呪縛が解けたように人々が騒ぎ始めた。兵士は呆然とし、互いに顔を見合わせている。レアンは父親に子どもを抱かせてやると、自分が蹴破ってきた扉を指さした。
「さあ、交代だ。治療はないが、休んでくれ」
「あぁ、あ、ありがとうございます……!!」
大粒の涙を流しながら、二人が頭を下げた。扉に向け、二人で走り去る。観衆は非難の声を浴びせた。拡張されたアナウンスが響く。
『貴様……!!なんのつもりだ!!今すぐ立ち去れ!!』
「なんのつもりだ、とは?試合があるからと言われたのに、いつまでも待たせてきたのはそっちだろう。さっさとそこの木偶達と戦わせろ」
鋭い爪が、兵士を差す。ここにきてようやく、兵士達の顔に羞恥と怒りが浮かび始めた。剣を持ち直し、レアンを囲む。レアンはその秀麗な顔に残忍な笑みを描いた。
「一対一では勝機がない、と……賢明な判断だ」
「黙れッ!!」
レアン目がけて剣が振り下ろされる。が、レアンの姿は掻き消えていた。
「なに……!?」
「どこを見ている?」
兵士が吹っ飛んだ。
兵士の背に叩き込んだ足を振り、レアンが残る三人にむかって耳をピクピク動かせてみせる。
「先ほどの威勢はどうした?臆病者ども」
兵士が吠え、一斉に斬りかかった。
「……完全に楽しんでるね、あれ」
ライゼが溜息混じりに呟いた。エーデルが肩を竦める。
「兵士も周りの奴らもかなりの興奮状態にある。挑発には乗せやすいだろうな……自分に一気に注目を集めて、このまま最終戦まで突っ走る気か」
「乱入してきたことで、むこうも倒さんと躍起になってるだろうしね」
「ああ。そうなれば、あとは更に強いやつを用意するしかなくなる。面目潰されたなら猶更だ」
「魔道士が出てくるのも、時間の問題ってわけか」
「つくづく小賢しいやつだぜ」
エーデルが鼻を鳴らす。ライゼが「すごいねぇ」と苦笑した。
チドリは、レアンの姿に目が釘付けだった。
炎に照らされ、銀色の毛並みが美しく光る。理性を失くしたように襲い掛かる兵士と違い、レアンの動きはまるで踊っているかのように洗練されていた。白い足が、砂の上で滑る。爪が、闇を裂く。牙を見せる笑みは、戦慄するほど美しい。それでいて、金色の瞳の奥に滾るのは紛れもない怒り。
有無を言わせない迫力が、そこにあった。
「……お前、こんな時にボケーッと見惚れてんじゃねえよ」
「へ!?」
「いやぁでもしょうがないんじゃない?いつも紳士的な恋人の男らしい一面っていうかさあ」
「え、いや、あの、私は……!!」
「そういうもんか?俺にはわかんねーな」
「いつもと違う表情を見せられると、女の子はドキッとするもんなんだよ」
「や、やめてください……!!」
赤い顔を覆ったチドリを見て、ライゼが大笑いする。
「でもわかるよ。確かにかっこいいよね、あれは」
「……まあな。悔しいけど」
「男なら憧れるねぇ。あんな風に、単身でさ、蔓延する靄を切り払うっていうのは」
「……正義とか悪とか量れねえけど、人間として許せねえからな、こういうの」
「そうそう。そういうものをさ、ああやって……自分の身に溢れる怒りで打ち砕こうとしてるわけでしょ、レアンは」
「もうちょい上手く言えよ」
「あはは!無理だよ」
二人の言葉に、チドリは得心がいったように小さく頷く。
「……理不尽の中で、自分の怒りで戦えるのが、かっこいいのかもしれません」
「あーそうそう!そういうこと!」
「ったく……」
会話の間に、場内に新たな兵士が続々と現れた。人数などお構いなしに、十数人がレアンを囲む。それぞれの顔に、はっきりと恐怖が滲み始めていた。
「どうした?魔道士とやらはまだか」
「くッ……怯むな!かかれ!!」
斬りかかってきた兵士の手を掴み、無造作に放った。味方の上に落ち、数名が下敷きになる。飛び上がって次の兵士の後頭部に蹴りを放ち、流れるように反対の兵士を蹴り飛ばす。レアンに触れた兵士は、突風に吹かれた木の葉のように吹き飛んだ。
兵士が減るごとに、残された兵士が怯えを露わにしていく。
「お、おい!麻痺も目も効いてねえじゃねえかッ!!」
「鉄枷はどうした!!なぜ何もつけていない!?」
相手にしていた兵士を地面に叩き伏せ、レアンが余裕たっぷりに微笑む。
「毒など効かん。枷は邪魔だったから、砕いた」
「な……」
「どうした?もう終わりか?」
「くそぉおおッ!!」
激昂にまかせて走り寄った兵士の鳩尾に蹴りを入れ、レアンは片手でその頭を掴んだ。ミシリと、嫌な音がする。
「あ……が……っ!」
「……このまま、砕いてやろうか」
兵士の目が恐怖で張り裂けそうになる。
だらしなく開いた口から、掠れた声が出た。
「た、助けて、くれ……たす、け」
「……命乞いとは。お前達は、今まで一体何度その言葉を聞いてきたのだ?そのたびに、お前たちがそいつを助けてやったことがあるのか?」
「ヒッ……!!」
「勝手だな」
吐き捨て、レアンが兵士を放る。兵士は泡を吹いて気絶していた。
「雑魚の相手はもう飽きた……おい、さっさと魔道士を連れて来い」
金の狼眼が兵士を射抜く。
兵士達が後退りし始めた時、扉に一番近い観客席から何者かが飛び出した。
レアンの前に立つその人物は、長い黒髪に同色の瞳をぎらつかせた、痩せぎすの男だった。口元が、ニンマリと品の無い笑みを描く。
「……天狼殿が、この私に何か御用かな?」
男から流れる魔力を感じ取り、レアンの瞳が怒りに染まった。
「なるほど、そういうことか…………まさか、魔族が魔道士を名乗っているとはな」




