飛花の夜会(5)
レアンは、貴族や公爵の対応に追われていた。
挨拶を終えるそばから、次の者が湧いてくる。記憶の中から顔と名前を一致させるのも機械的になってきて、内心疲れていた。
加えて、チドリと話せていない。
あの時――会場に入ってきたチドリと目が合ってから、一度も言葉を交わせていないのだ。
桜色のドレスを着たチドリは息を呑むほど美しく、可愛らしかった。緊張して強張った横顔に、かける言葉を失ったことを思い出す。せめて一言、ドレスが似合っていることだけでも伝えようと思ったのに、自分を囲む男達が邪魔で、到底探せない。
愛想笑いもいい加減飽きてきた。下らない世辞を口にするより、チドリを探しに行きたい。早く、その声を聞きたかった。砂漠で水を求めるかのような渇望に、胸が焦がれる。
「殿下!こちらは私の娘でして……ほれミネル、殿下にご挨拶しろ」
「初めまして、殿下……ミネル・ペディエラと申します」
「初めまして」
上辺だけの挨拶を返しながら、内心で溜息をついていた。
(……チドリ様以外、皆同じに見える)
名前と顔を覚えるために頭を使うのも億劫だった。覚えて何になるというのだろう。
ふと目線をやると、料理のあるテーブルで、チドリが嬉しそうに食事する姿があった。隣のステラが呆れ顔をしている。
チドリの笑顔に、自然と胸が温かくなる。
会場の明かりの下で、薄紅のドレスが一際鮮やかに映った。
「殿下?どうかいたしましたか?」
「……ああ、いや……なんでもない」
目の前の男に対して膨れ上がった苛立ちを抑え、レアンは何とか笑顔を返した。
しばらくすると、またチドリの姿が見えなくなっていた。
広い会場を見渡すが、派手なドレスが邪魔で見つけられない。舌打ちしたい気分だった。
焦燥ばかり募るレアンに、鈴を転がすような声がかかる。
「殿下、ご機嫌麗しゅう」
「……これは、イディア嬢。楽しんでいらっしゃいますか」
記憶の底から顔と名前を引っ張り出す。イディアはニッコリ微笑んだ。
「もちろんですわ。殿下は?誰かをお探しなの?」
「いえ、お気になさらず……」
「もしかして、あの魔道士様かしら」
踏み出しかけていた足を止める。近づいたイディアの体から、甘ったるい匂いがした。チドリ様のものとは違う、と、そんなことが頭に浮かぶ。今は、あの香りが懐かしく感じさえした。
「……どこにいらっしゃるか、ご存知ですか?」
「ええ。先ほどまで一緒にいたのですけれど……ああ、あちらに」
イディアが目を向けた方を見て――思わず「え」と呟く。
壁際に立つチドリの隣に、見知らぬ男がいた。親しげにチドリに話しかけ、笑いかけている。チドリの方は、浮かない表情ではあったが、嫌々話しているわけではなさそうだった。
二人の間に割って入りたい衝動に駆られる。
「まあ、魔道士様……慣れない夜会で困っていらっしゃったようですけれど、楽しそうで安心しましたわ」
イディアの言葉も、耳に入らなかった。
ただ、次第に解けていくチドリの表情に、心臓が鋭く痛む。
男がチドリの手を取った。そのまま二人が中央に進み出て、互いの手を取り合う。
一緒に練習したあの晩を思い出した。
あの時自分に見せたような表情を、あの男にも見せるのだろうか。
そう考えると、堪らなかった。今すぐ天狼の姿になって、あの男の喉を裂いてやりたいとすら思う。
チドリが男の足を踏んでしまい、真っ赤になる。男が苦笑する。
踊っている間も、二人は何か話しているようだった。
自分がいつのまにかキツく拳を握りしめていたことに気づき、レアンは我に返った。
「殿下?どうかなさいました?」
「……いえ、なんでもありません」
イディアに向ける作り笑いが、自分でもぎこちなくなっていることがわかる。イディアは気づかず、また何か話し出した。
適当に相槌を打っている間中、二人の姿が瞼の裏にチラついていた。
一通り挨拶を終え、ステラに声をかけた。
「ステラ、チドリ様を見なかったか」
「あ、私も探してるとこなの。さっきはぐれちゃって……どこにいるのかしら」
苛立ちが抑えられなくなった時、控えていた侍女が声をかけてきた。
「チドリ様ならさきほど、どなたかと会場を出られましたが……」
考えるより先に、足が動いた。
人混みを掻き分け、乱暴に扉を開いた。執事の声に構わず、階段を降りる。
侍女は、どなたかと、と言っていた。先ほどの男とチドリが二人きりでいるかもしれないと思うと、どす黒い感情が膨れ上がってくる。
階段を駆け下りていくと、前方の踊り場から楽しげな笑い声がした。
チドリとあの男が、和やかに話していた。
信じられないような思いで、呆然と呟く。
「チドリ様……?」
二人が振り返る。チドリの目が張り裂けんばかりに見開かれた。
「……レア、さ」
か細い声に、冷やかな声が重なる。
「こんばんは、レアン王子」
顔を背けたチドリの肩に、男が手を置いた。
(触るな)
激情を抑え、男の名前を記憶から弾きだす。
「……テシュアール公爵家の長男か。ここで何をしている?」
「別に何も?チドリさんとお話していただけですが。殿下こそ何の用で?」
「俺は……」
聞き返され、言葉に詰まった。理由などよりも、男、ロークがチドリの名前を呼んだのが癪に障って仕方がない。
青ざめたチドリの横顔を見つめていると、突然その目から大粒の涙が零れた。
「あ……」
「チドリ様!?」
驚いて声を上げる。チドリの細い肩を、ロークが抱き寄せた。
「……チドリさん、具合が悪いみたいです。休ませてあげたらどうですか?」
「っ……そんなこと、言われなくても……!」
チドリの肩に触れるその手を切り落としてやりたい。
彼女に易々と触れるロークが許せなかった。
湧き上がる感情は黒く、熱く、全身を巡る。
ああ、そうか、これは――。
(……俺は、嫉妬しているのか)
気づくのと同時に、チドリがロークを押して駆けだした。
階段を駆け上がり自分の隣を通り過ぎようとするチドリの手を、咄嗟に掴む。
「やっ……!」
短い悲鳴を上げ、チドリが手を振りほどいた。
呆然とその顔を見つめる。
涙でいっぱいの瞳が、一瞬だけ、苦しそうにレアンを映す。
それを最後に、チドリは走り去って行った。
「チドリ様……!!」
悲痛な声を上げても、彼女が振り返ることはなかった。
立ち尽くすレアンに、ロークの声がかかる。
「……あらら。行っちゃった」
「お前……!チドリ様に何を……!」
「人聞きが悪いなあ。俺のせいじゃないですよ。むしろ慰めてあげてたのに」
「何だと!?」
「あの人が何であんなに辛そうだったか、わかりますか?」
レアンは口を噤んだ。ロークの視線が刺さる。
「チドリさんが泣いてたの、殿下のせいですよ」
「な……」
「詳しく教えてやるほど、俺は親切じゃないんで……言いませんけど。ちょっと勝手ですよね。チドリさんのこと傷つけておいて、姿を見せるなんて」
「……傷つけた、って……」
あれだけ熱かった血が、今度は凍るように冷たく感じられた。
一番傷ついてほしくないと思っていた人を、自分が傷つけた。
その言葉が、心に深く食い込む。
「……王子としてじゃなく、一人の男として見て、言わせて貰いますけど……アンタ、最低ですよ」
唇を噛んだ。反論したいと思うのに、指先からジワジワと感覚がなくなっていくばかりだ。
「じゃあ、俺はこれで……失礼します」
声もなく佇むレアンの横を、ロークが荒々しく歩いて行った。
残されたレアンは、探しにきた執事に声を掛けられるまでその場を動けなかった。