番外編 淡い熱の中で
時系列的にはちょっと前の話になります~
夏の気配がまだ遠かったある日のこと。
いつものようにチドリの隣で目覚めたステラは、起き上がって伸びをした。次いで、小さく欠伸を零す。
「ふぁぁ……ふ。チドリ……?おはよう……」
まだ横になっていたチドリに向け声を掛ける。が、チドリはピクリとも動かなかった。普段なら、どちらかの「おはよう」の声でもう片方も目を覚ましていたのに。
ステラはふと不安になり、そっとチドリの肩を揺すった。
「チドリ?チドリ?」
ようやくチドリが身じろぎをし、顔が覗いた。
ステラがハッと息を呑む。
「チ、チドリ……!?」
廊下を疾走していたレアンは、勢いよく部屋のドアを開けた。
「チドリ様ッ!!ご無事ですか!?」
息を切らしたレアンに、ステラがムッと眉を寄せる。
「ちょっとお兄様!静かに!」
「ご心配には及びません。少し重い風邪でしょうな」
医師の声に、レアンは大きく息を吐いた。
「そ、そうか……よかった……」
「心配し過ぎよ、お兄様」
「ふふふ。ステラ様も今朝方血相を変えて私の所に走って来られましたがな」
「ちょっ言わないでよ!!」
レアンは足早に、ベッドに横たわるチドリに歩み寄った。
頬を赤くし、僅かに息を荒げたチドリが薄ら目を開く。
「レ……アン、さん……?」
「チドリ様……!お加減はどうですか?辛くはありませんか?」
「大丈夫、です。ちょっと、頭が、痛いくらい、で」
「熱もかなり高いようです。寒気もあるようですし、必ずしも大丈夫ではないでしょうな」
「うっ……」
「チドリ様!辛いなら辛いと言って下さい!」
「す、すみませ……ッゲホ!コホッ」
「咳も出ますか。喉も痛めておられるのですな」
「す、すみま……ふえっくしょん!!」
「寒気からクシャミも出るのですね。後で薬を調合しましょう」
冷静に分析する医師の横で、レアンとステラは顔を青くしていた。
「大変だわ……!チドリ、そんなに具合が悪いの!?」
「食欲は!?食欲はありますかチドリ様!?」
「そ、そういえば今日はまだ朝食を食べてないわ……!食いしん坊のチドリがこんな時間まで何も食べないなんてよっぽどよ!!」
「お、お腹……空いてなくて……」
「そんな……!」
「ふむ。食欲もないのですか……これは本当に、重いようですな」
レアンは真っ青な顔でチドリの手を取った。
「チドリ様、いつでも傍にいますから、お辛い時は何でもお申し付け下さいね」
「お兄様!今日はサウジェ地区に視察の予定でしょ!」
「うっ……!い、いや、しかしチドリ様が……」
「私が一緒にいてあげる!何でも言ってねチドリ!」
「お前こそ今日は店の者達と大事な会議があるはずだろう!」
「ハッ……!で、でもチドリが……」
苦渋を滲ませる二人の間で、チドリが力なく笑った。
「ふふ。二人とも、心配し過ぎですよ……私は大丈夫だから、お仕事、行ってきて下さい」
「し、しかし、チドリ様をお一人になど出来ません!こんなに熱が高いのに……」
「寝てれば、治ります。私……体は丈夫な方、ですから。大抵、寝れば治りますよ」
「はい。チドリ様のことは私共にお任せ下さい。しっかり看病いたしますので」
医師の言葉に、二人は渋々首を縦に振った。
「では、私は薬を調合してきます。ついでに、何か食べやすい物を厨房で貰ってきましょう」
「……私も、会議に出る準備をするわ。チドリ、なるべく早く帰るからね。絶対に安静にしてなきゃ駄目よ」
ステラと医師が出ていき、チドリの隣にはレアンが残った。
熱で火照ったチドリの手を握り、レアンが顔を歪める。
「レアン、さん……視察、は……」
「多少の遅れくらい構いません。それより今は貴方の方が大事です」
「ぅ……」
「……すみません。俺も、早く帰って来ます。こんな時に貴方の傍にいられないのは、不甲斐ないことですが……」
「お、お仕事ですから、仕方ないですよ」
「俺が許せないんです。大事な時に貴方の傍にいられないのが」
レアンは握ったチドリの手の甲に、そっと口づけた。自分の唇よりも熱いチドリの肌に、心臓が鈍く痛む。
チドリは照れ笑いを浮かべた。
「……ふふ。私は本当に、大丈夫ですよ。ご飯食べて、薬を飲んで寝ればきっと治りますから……あ、でも……」
「でも?」
「あ、い、いえ……何でもないです」
赤い頬をさらに赤くして、チドリはふいと目を逸らした。レアンがその頬を両手で挟み、目を合わせる。
「チドリ様。こんな時にまで遠慮はされないで下さい。何か御所望のものが?」
「い、いえ!ほ、ほんとに何でもな」
「チードーリーさーまー!」
「ひぇあっすみません!」
チドリは首まで赤くなり数秒言い淀んだ後、おずおずと両腕を伸ばした。
「……?」
意味を測りかねたレアンに、チドリがか細く呟く。
「あ、あの…………さ、寂しくなるかな、と思ったので、その……えっと……あの、ぎゅーって……して、くれません、か」
言い終わるやいなや、チドリの目の前にレアンのシャツがいっぱいに広がった。
ヒュッと息を呑み、チドリが耳を赤くする。
首筋にいくらか冷たいレアンの手が触れ、ビクリと体を震わせた。
「……本当に、視察などやめてしまいたくなります」
「へぁ、え?」
「熱のせいなのでしょうかね……チドリ様がいつもより甘えん坊さんな気がします」
「あ、あまえんぼうさん……」
「視察などに行くより、このままここで貴方をベタベタに甘やかして差し上げたいのですが……」
「ううぅ……!?わ、私は今ので充分ですから……!お仕事はしなきゃ駄目です……!」
「はぁ……そう、ですね。俺も、こんな貴方を前にして抑えがきくとも思えませんし」
「おさ、え?」
「今の貴方に無理をさせてしまうかもしれない、ということですよ」
意味がわからずに熱で潤んだ瞳のまま見上げてくるチドリを見て、レアンは駆け上がる背徳感を必死で堪える羽目になった。咳払いで誤魔化し、チドリをそっと離す。
「……名残惜しくはありますが、俺もそろそろ視察に行く準備にかかります。遅くても夕暮れまでには帰りますから、どうか安静にして、決して無理はしないで下さいね」
「は、はい」
チドリの額にやや長めに口づけてから、レアンは捨てられた子犬のような顔をして部屋を出て行った。
一人になったチドリは、鈍い頭痛と高熱で朦朧とする中、いつしか意識を沈ませていった。
かすかに物音がした気がして、チドリは目を覚ました。視界に見知った顔が覗く。
「おお、悪いのうチドリ。起こしてしもうたか」
「よぉ。風邪引いたんだってな?具合はどうだ」
シャイルとエーデルがいた。チドリの額にシャイルが触れ、眉を下げる。
「まだ熱が高いのう。どうだ、水は飲めるか?見舞いにと思って妾が作った果実水を持ってきたのだが……」
「お水……はい、丁度、喉が、乾いて……」
「俺はこれな。即席で作ったやつだから出来はいまいちだが」
エーデルが取り出したのは、三角錐の形をした透明な魔法水晶だった。チドリの手に乗ると、天辺から光が伸び、空中に映像のようなものを映し出す。映像の中では、可愛らしい絵で描かれた魔物達が動いていた。どうやら、物語を映し出す魔法水晶のようだ。
「わぁ……!すごい……!」
「本当はもっとたくさんの本を入れ込みたかったんだがな。時間がなくて二百くらいしか入れられてねえんだ」
「に、二百!?」
「寝てるだけじゃ退屈だろうと思ってな。長時間見ても目が疲れないように光魔法で調整してある。どの体勢で見ても正面から見られるようになってるから、仰向けでも横向きでも大丈夫だぜ」
「ふふ。随分凝った物を作ったのう。ほれチドリ、少し起き上がれるか?」
「は、はい」
シャイルに支えられ、チドリは何とか上半身を起こした。シャイルが淡い桃色の液体を注いだ小さなグラスを差し出す。乾いた唇をつけ、チドリは一口飲んだ。
「わ……!美味しい、です」
「そうか?それはよかった。珠桜の花びらを妾考案の酒と薬草と漬けてな、その後、先代のイリオルス魔道士が植えたとされる桃と純水を加えて絞るのじゃ。それがこの妾特製果実水よ」
「お前だって凝ったもん作ってんじゃねえか」
「他ならぬチドリのためじゃ。これには体調を整える作用もあるのでな、チドリに丁度良かろう?」
「二人とも、ありがとうございます……」
「いいってことよ」
「構わんさ。さ、起こして悪かったのう。妾達はもう退散するゆえ、ゆっくり休むと良い」
「はい、ありがとうございます」
チドリがベッドに潜り込んだのを確認して、二人は部屋を出て行った。
エーデルがくれた魔法水晶の映像を眺めていると、部屋のドアが遠慮がちに開かれた。こちらを覗いた顔を見て、チドリが驚きの声を上げる。
「ラ、ライゼさん!ベスティアさん!」
「ありゃ、起こしちゃったかな?」
「す、すまない。もう少し静かに入るべきであったな」
「い、いえ、丁度起きてたところで……」
二人がベッドに歩み寄り、まずベスティアが背に隠していた物を差し出した。
「エーデル殿からチドリ殿が体調を崩されたと聞いてな。見舞いの品をと思ったのだが考えつかず……陳腐な物ですまないが、受け取ってくれ」
「ありがとうございます……!お花ですね!」
「谷合にあった花畑で摘んできた。花を見れば、心も休まるであろうと思って」
ベスティアは色とりどりの美しい花で出来た花束を持ってきていた。ライゼが近くにあった空の花瓶に花束を入れる。
「おお、いい感じじゃない?ベスティアいい趣味してるじゃん~」
「そ、そうだろうか。気に入ってもらえたらいいのだが……」
「凄く素敵です……!ベスティアさん、ありがとうございます」
「いや、俺もそう言って貰えて嬉しい」
「はいはーい。じゃあ次は俺からのお見舞いね」
ライゼはどこに隠し持っていたのか、大きな包装箱を取り出した。リボンまで巻かれたそれに、ベスティアが怪訝そうな顔をする。
「おぬし、まともな物を持ってきたのだろうな……?」
「ひでぇなあ~ちゃんとした店でちゃんとしたもん買ったって!ほれチドリ!これ!」
ライゼが開けた箱から出てきたのは、モフモフとした巨大な熊のぬいぐるみだった。つぶらな瞳と短めの手足が、何とも可愛らしい。
「クマだぁ……!可愛いですね!」
「一人で寝てばっかりも寂しいと思ってな。そいつが横にいれば安心だろ?」
「む……凄いな。かなり柔らかな手触りをしておるぞこの熊」
ぬいぐるみを抱きしめたままチドリが二人としばらく過ごしていると、控えめにドアがノックされた。応えると、トレイを持った侍女が入ってくる。
「失礼します。チドリ様にお食事とお薬をお持ちしました」
「おお、そう言えばもう昼だったな」
「長居をすると悪い。俺達はもう出るとしよう」
「そうだな。チドリ、ちゃんと休むんだぞ」
「温かくして、しっかり養生されよ」
「はい。お二人とも、ありがとうございました」
部屋を出て行った二人と入れ替わるように、侍女がチドリベッドの傍にあった机にトレイを乗せた。
「シャイル様から教えて頂きまして、オカユという物を作ってみましたわ。お口に合えばよろしいのですが」
「お粥!ありがとうございます……!」
「それからこちらはお薬です。お食事が済んだ後、飲んで下さいね」
「はい」
「あ、チドリ様、汗をかいておられますわ。何か体を拭くものを持って参りましょう。着替えも用意いたしますね。他に何か欲しい物はありませんか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「では、私は少し出ますね。お食事は無理のないよう召し上がって下さいませ」
チドリは温かい粥をしっかり食べて薬を飲み、侍女に体を拭いて貰ってから新しい着替えに袖を通した。
しばらく横になっていると、薬と満腹が効いてきたのか、自然と瞼が重くなっていった。
まだ下がり切っていない熱のせいか、チドリはフワフワした夢を見ている感覚だった。
体がだるく、動くことが億劫だ。仰向けのまま、古びた記憶が通り過ぎていく。
元いた世界で風邪を引いた時、薄い布団の上で震えていた自分のことだ。
あの時はただ体が重く、頭が痛く、寒気も止まらないままだった。弱っているのに一人きりだったため、込み上げる寂しさに目を覚ますたび泣いていた。
だが、今は違う。
エーデルもシャイルもライゼもベスティアも来てくれた。ステラとレアンも自分の身を案じてくれた。医師も侍女も、優しく声をかけてくれた。
(嬉しかったな。私、大切にして貰ってるんだ……)
以前とは違う、暖かな涙が零れた。
心地良い冷たさの指が、それを優しく拭う。
曖昧な意識の中、微笑むレアンを見上げた気がした。
(レアン、さん……?あ、そっか……私きっと、夢、見てるんだ……)
夢の中ならと、チドリはレアンの手に頬を摺り寄せた。一瞬驚いた顔をしたレアンが、すぐさま嬉しそうに笑う。額をコツンと合わせ、レアンが切れ長の目を細めた。
高熱によって若干大胆になっていたチドリは、レアンに自分の腕を回した。ぎゅうっと抱きつき、それに満足して笑う。
(ふふふ。あったかいなぁ……レアンさんの匂いがする)
レアンが目を見開き、何か言う。どうやら「休まれないと駄目です」といったようなことを言っているようだった。が、チドリは首を振る。
(せっかく良い夢を見れたんだから、せめてもうちょっとだけ……)
一方、視察から帰ってきていたレアンは、自分に抱きついたチドリに困惑しながらも嬉しさを隠せないでいた。普段ならまずありえないようなチドリの甘えように、震えそうなほど喜んでいる。だが、視察が大幅に時間を取ったため、時刻は既に夜だった。せめてチドリの容体だけでも見てから部屋に帰ろうと思っていたところで、チドリが眠ったまま泣いているのに気づき、思わず触れてしまった。すると、どうやら寝惚けているらしいチドリが頬を摺り寄せてきたというわけだ。
「チドリ様、もう夜です。今日は休まれませんと……」
「んーん……」
体を起こしても、チドリは同じように上体を起こして着いてくる。頭を撫でると、蕩けた笑顔を浮かべた。そして、そのまま倒れこむようにレアンに抱きついてくる。
「チ、チドリ様……!?」
「んへへ……レアン、さん~……」
「ああもう貴方は……!」
耐えきれず、レアンはチドリを抱きしめた。まだかすかに熱のあるチドリが、猫のように「んー」と零しながら甘えてくる。
「……こんな時でないと素直に甘えて下さらないのですから……全くもう……」
「んー……?」
「何でもありませんよ。ほら、もうそろそろ横になって下さい。せっかく熱が下がりかけているのですから」
「や」
「…………や、って何ですか、もう、ホントに」
「やー」
「可愛いからやめて下さい……」
チドリは駄々を捏ねるように首を振り、レアンの首に頬を寄せた。微かに浅い息に、レアンは眉を下げる。
「チドリ様、無理は駄目です。俺と約束したではありませんか」
「んぅ~……」
体を離すと、チドリは泣きそうに唇を歪めた。熱のせいで泣きやすくなっているのか、目に涙が張り始める。
「あ、あの……!泣かないで下さい!」
「ぅ……ん~……!」
「わ、わかりました!俺はどこにも行きませんから!だからどうか……!」
袖で涙を拭ってやると、チドリはホッとしたように微笑んだ。その笑みに、レアンは胸が痛むような感覚を覚える。
大人しく横になったチドリの隣に潜り込むと、チドリが胸元に頭を寄せてきた。抱きかかえて撫でると、腕を回して抱きついてくる。
発熱したせいで、チドリがいつもより甘えてくるのは大変嬉しいことだった。だが、このように「一人」を恐れていることがレアンの心に引っ掛かっていた。
(もしかするとこれも、元いた世界でのことが関係しているのかもしれないな……)
チドリを抱きかかえるようにして、レアンは目を閉じた。




