ACTion 28 『撒いた種、咲く花』
声を上げ跳ね起きていた。
闇雲に振り回した腕が何かを倒す。
神経質な音が床で弾け、かまうことなくアルトは両目を見開く。掃きためられたような生活備品は、そこに山と積み上げられていた。取り囲んで使い込んだ分、黄ばんだように見えるベージュ色の壁は立ち塞がっている。作り付けのロッカーとほぼ同じ外見のバスブースが並び、離れてポツンと貧相な丸テーブルが平衡感覚も危げに固定されていた。そんなテーブルと向かい合うように据えられた調理台には、日々の酷使を訴え焦げがこびりついている。
それ以外、誰の姿もない。
ただ寝息がごとく空調は穏やかに作動し、そのかすかな音でもってして周囲の静けさを強調していた。
間違いなく停泊中の船の中、アルトは後付された居住モジュールにいた。当然といえば当然だろう。そのハッチに腰掛け、ライオンの放つメッセージを聞いていたハズなのである。よもや地面へ吸い込まれるなどと、体が闇に溶け入るなどと、現実に起きるハズがなかった。
幻だ。
永らく忘れ去っていた興奮剤の幻覚。
だが幻を見た、ことだけは幻でなく現実だった。証拠に葬り去ったはずの記憶は思い出すなどという言葉ではあまりにも生ぬるい勢いで、アルトの中へ怒涛のごとくまき散らされている。
確かに記憶を管理しているのは脳そのものだろう。だが管理されている記憶とは、そこに隷属する肉体の受けた刺激によって構成された概念の総体である。ライオンの運んだ声をきっかけに、それら肉体に書き込まれた感覚の記憶を体験しなおした様子だった。しかも耐えうる限り最大、かつ最速で。伴う激しい感情のアップダウンが証明している。それらは以降、積み上げてきた記憶と噛み合うことなく、なおさらアルトの中でせめぎ合っていた。
怒り。
希望。
憎しみ。
疑念。
決意。
自信。
恐れ。
不安に満ちた迷いと、ささやかな愛情。
そして芽生えたばかりの我。
詰め込み膨張した頭をアルトは両手で抱え込む。
苦虫を噛み潰すかのようにギリリ、こめかみを窪ませた。
刹那、ありったけの声を吐き出す。自分でも驚くほどの大声だった。忘れ去っていたアルトでありアルトでない世界の記憶と感覚、感情の全てを咆哮で切り離す。
叫び終えた喉がひりひりと痛んだ。
痛みが今、ここに在る己が誰かをより確かなものへ変えてゆく。
途方もなく疲れたときのように脳の芯が痺れていた。紛らせ、抱えていた両手でアルトは何度も乱暴に顔を拭う。強張ったままの肩を掴み、揉みほぐして大きく一息、吸い込んだ。
ようやく上げた顔で正面をとらえる。
慣れ親しんだ部屋は、それこそが心遣いだといわんばかり、すまし顔でたたずんでいた。あまりの肩透かしに呆けて見回せば、寝かされていたマットレスへ投げ出していた足が他人のもののように視界に映りこんでくる。
おそらく、ここへ担ぎ込んだのはライオンだろう。
靴すら履いたきりの足を自分のものにすべく、アルトは重い体を捻って床へと足を下ろしてみた。違和感は、靴底からそのとき伝わってくる。
何か踏みつけたようだ。
自然、視線は落ちていた。確かめゆっくり靴先をねじってみる。ままに床の上を滑らると流れ星のごとく尾を引いて、『アーツェ』独特の細かい砂塵は現れていた。跳ね起きた拍子に倒した物はコレだったらしい。傍らに砂塵の入ったガラス瓶は転がると、またひとつ後片付けが増えたと手を伸ばしていた。
拾い上げようとして動きを止める。
瓶の中だ。砂塵に埋もれ何かは見えていた。
それは雑然としたこの部屋に似つかわしくないほど艶やかな色味をしている。
瓶を拾い上げるより先、アルトはそれをつまみ出していた。目の高さへ持ち上げたなら、覚めてすぐ目にするにはあまりにビビッドな赤とオレンジは飛び込んでくる。人工的なまでに発色鮮やかな、それは『アーツェ』の花だった。
よもやこんな所にあるハズもない花に不意をつかれて、至極単純に美しい、と心の中で呟いてみる。そして誰が一体こんなところへ、と自らに投げかけ、よもやあのライオンがと想像して今度はまさか、と削げた頬で一人、笑った。そんな少女趣味ならそうなる予定に胸躍らせているデミの方が至極妥当だろう。
かき消し、存在はとたん脳裏へ浮かび上がってくる。
弾かれたかのごとくマットレスから立ち上がっていた。
浮かんだ姿を追いかけ、居住モジュールの薄いドアを体当たりでスライドさせる。
通路を船首へ向かえば、さなか聞こえてきたのはあの柔らかな音階だ。
これもまた記憶の続きなのか。
手繰り寄せ、簡素なスチール階段へ通路を折れた。
踏み外しそうになりつつ駆け降りる。
正面突き当たり、狭い踊り場を挟んだハッチは開け放たれたままで、うっすら積もった砂塵越し、ドックの天窓から降り注ぐアメ色の光が差し込んでいた。柔らかい音色は光の向こうから聞こえてくる。
それは自らが蒔いた種だ。
辿りつき、目を細め、アルトはハッチの縁へ手を掛けた。
膨張する光を突き破り、一思いに船から身を踊らせる。
停められた三輪ジープの位置は最後に見た時と変わらない。
しかしながらその荷台に何者かの影は揺れていた。
同じ背中だ。
背中はすぐさま視線を、いや、船から飛び降りたアルトに驚き、振り返る。ネオンの目がアルトをとらえていた。
ただそれだけだ。
ただそれだけのために、全ては目に見えぬほど鈍磨なスピードで回転を続けていたらしい。
「な、なに? そんなに勢いよく飛び出してきて。顔、怖いし」
荷台から立ち上がったネオンが言っていた。
「でもその様子じゃもう、大丈夫みたい」
肩をすくめて笑いかける。
「って、わたしの話、聞いてる?」
アルトの焦点を探ると手を振った。言われてようやく目をしばたたかせたなら、反応が返ってきたことにネオンはひとまず安心してみせる。
「デミと町から帰ったら、ライオンがメッセージの再生を始めたとたんにあなたがひっくり返ったって大騒ぎ。で、ビオモービルでデミにサスを呼びに戻ってもらったのに、サスは今、あなたを病院に運ぶのはマズいって言い出して。それからまる一日かしら。あなた、眠り続けてた。って、ちょっと、聞いてる?」
眉をひそめ、渋い顔を今度は突き出した。
「あ、ああ……。さっきの音は、お前なのか?」
あやふやに答えてアルトは確かめる。
「そうよ。別にタダ聞きだ、なんて言いませんから」
憎たらしげと表情を反転させた。
「それよりも安心して。靴代を返せるメドは立ったわ。デミが案内してくれたレストランで明日の夜、演奏させてもらえることになったの。さっきのはその準備。ラッキーよねあたし。ケースはフェイオンにおいてきちゃったし、楽器につけてたリードは振り回し過ぎてもう使い物にならにくらいボロボロだったけど、一枚だけ予備のリード、ポケットに入れてたのよね。船賃も合わせて利子つけて返してあげるわ」
反らす胸の上で、青い瞳がきらきら輝いていた。
「他はどうしている?」
目もくれず、アルトはたたみかける。
「ライオンは予定していたドックじゃ船が納まりきらないらしくって、新しいドックを探しに出てる。デミは明日の打ち合わせとPR活動中。サスは仕事が忙しいみたい、あれから連絡もないわ。だからわたしがお留守番ってワケ」
せっかくの朗報をすかされたことが不満らしい。唇を尖らせひとまず返したネオンの視線は、そのときアルトの手元へ落ちる。
「あー、ちょっと、花、もいできちゃってるじゃないっ。記念にもらってきたところなのに」
言われて初めてアルトは握ったままのソレに気づかされていた。
「起きた、時に倒した」
どうにも弁解の余地はない。ならばむげに責められないと諦めたか、ネオンはこう問いかけていた。
「何か、食べられそう? まだフラついてるようだから作ってあげる。っていっても、そっち持ちのミールパックを温めなおすだけだけれどね」
笑いはここでも悪戯げだ。断る理由もないなら、連れ立ち居住モジュールに戻った。
最中、ネオンは丸一日、眠り込んだアルトの原因を探してあれやこれやと質問を投げかける。くどさにかまうな、と言いかけアルトは大丈夫だ、と言葉を選びなおした。ただぶっきらぼうな響きだけは拭えず、むしろその響きに誰より自分が驚きもする。
「あのさ、勘違いしないでよね」
浴びせられたネオンこそ知る術はない。
「あなたを心配して言ってるんじゃないの。いい? また倒れられちゃったら、あたしはお手上げなの。あなたは時の運だと思ってるかもしれないけれど、あたしはこのチャンスを逃したくないの」
スチール階段を登りながら憤慨していた。そうか、と聞いていてアルトは登り切ったところで踵を返す。
「ちょっとっ、モジュールはこっちでしょ」
呼び止められようとも理由はあった。
「先にすませたい用がある」
通路の突き当たり、コクピットへ続く階段に足を掛ける。
「ミールパック、何番がご希望っ?」
登り始めた体が見えなくなる前にと、ネオンの張り上げる声は大きい。だがアルトには今、吟味できるほど興味はなかった。
「お前の食べたいヤツにすればいい」
「なによ、ソレ」
見送るネオンが、ぷうと頬を膨らませる。




