銀朱の唄・一
一人称に挑戦。
新しく書生が入った。
前にいた書生は、米国への留学が決まって、去年の冬から実家に戻ってしまっていた。家の事をある程度任せていたので、僕自身、書生が欲しかったのだが、今回の書生はなかなか難しい。余計なお喋りはしないが、静か過ぎるのだ。
口数が少ないと言うよりは、喋らない。
独り住まいの僕と、喋らない書生。
家の中は、なかなかに寂しいものになっていた。
とは言え、昼間は手伝いに藤ノさんという年配の女性が来ているので、本当に誰かと話したくなれば、僕は彼女と話すのだが。
そんな折、書生を訪ねてきた者があったのは、彼が来てから一週間程経った頃だった。
「兄さんに、荷物を届けに来ました」
折り目正しく頭を下げた少年を、どうしてだろう、僕は一目で気に入って、小姓として雇う事にした。
彼が酷く美しい少年で、僕の創作意欲が掻き立てられたのもそうだが、彼もその兄も、快諾してくれたのも要因だったかもしれない。
兎に角、うちには今、僕を含めた三人の男が暮らしている。
独り身ではあるが、僕はまだ若く、大学を卒業したばかりで、住まいも地方の豪商である実家が、東京の大学に通うためにと用意してくれたものだった。小説家の真似事をしたり、帝劇の脚本を書く仕事をもらって、一応は自分でも収入を得てはいるが、本当に拙い時には、実家からの仕送りをもらっているような有様だ。
「先生、お電話が……」
ある朝、朝食も摂らずに部屋に篭って原稿を確かめていると、小姓の彼がやってきた。
彼は僕を先生と呼ぶ。以前、若輩者の自分は先生という器ではないよ、と言うと、彼は笑って、でも物書きの先生でしょうと言った。
「どこからだい?」
「ご実家からです。お母様が……」
「……そうか。わかった」
僕が腰を浮かすのを見て、小姓……千歳くんは、驚いたような顔をした。僕が今日まで、母親からの電話の取次ぎを拒んでいたからだろう。
「ああ、千歳くん。その原稿を、いつものところに届けるように、お兄さんに伝えてくれないか」
「わかりました」
部屋を出る時に、千歳くんに指示すると、彼は丁寧に原稿を封筒に入れて、まるで大切な物のように胸に抱えた。彼にとっては、主の荷物なので大切な物なのかもしれないが、僕には大層な事のように見えた。
廊下に置いた電話に出ると、受話口から甘い声が漏れ出した。母の声は、どこかねっとりとしていて、好きになれない。
『ああ、やっと出てくれたのね』
「用件はなんですか?」
『まあ、折角話せたのに、せっかちね』
「……母さん、用件は?」
『貴方、父さんの推薦した会社を三つも蹴ったらしいじゃないの。どうして、そんな事をするのかしら。大学まで出さしてもらっていて。果ては、帝劇の女なんかに入り込んでいるとか』
「……藤ノさんから聞いたんですか? 誤解も甚だしい」
『誤解? そうかしら……それに、大した収入もないのに、小姓やら書生やらを家に入れているとか。貴方、私がどんなに苦労をして、父さんと結婚したかわかっているのかしら?』
母の文句は止まりそうにない。僕は受話口を耳から離して、目を瞑った。
別に、頼んで生んでもらったわけではない。
寧ろ、貴女が自分の為に僕を生んだのだろう。
そんな言葉を飲み込むのに必死だった。
いっそ、この電話を切ってしまえたら。
ちん、と軽い音がして、驚いて目を開けると、千歳くんが電話を切っていた。
「申し訳ありません、躓いてしまって」
僕と目を合わせる事なく、彼は頭を下げた。
「いや……構わないよ」
不思議だ、と思った。彼には、僕の気持ちが解るのだろうか。母を拒む気持ちが。
「先生、お茶を淹れましょうか」
微笑んだ彼が、頼りになる男のように見えた。
居間で千歳くんの淹れたお茶を飲んでいると、書生の庇牙くんが僕の用事を済ませて帰ってきた。変わった名前だと、由来を尋ねた事があるが、彼は困ったような顔をしただけだった。
二人は、地方から出てきていた。御堂という家の、僕の家とは遠縁に当たる家らしく、兄の方は父から紹介されてここに来た。普段は絵を描いて過ごしている事が多く、大学に行く為に東京にやってきたというわけではないようだが、人畜無害な性格なので、そのままにしている。
僕だって、人の事を言えたものではないからだ。
「おかえり、どうだった?」
「……人が、たくさんいました」
「はあ」
庇牙くんは、要領を得ない答え方をする。
東京の人混みが苦手なのだろうが、僕が聞きたいのはそういった事ではなかった。
「違うだろ、先生は、原稿の手応えを聞いてるんだよ」
「……わかりません」
僕は可笑しくなって、吹き出してしまった。千歳くんの方が、よっぽど兄のようなのだ。
「先生、すみません」
「いや、いいんだ。手応えなんて、僕でもわからないからね」
実際、僕が脚本を持ち込んでも、手応えなんて解らない。手応えがない事は解るのに、不思議なものだ。
それに加えて、母からの電話を思い出すと、僕はいてもたってもいられなくなり、徐に立ち上がった。
「どちらへ?」
すかさず、千歳くんが首を傾げる。
「ちょっと、帝都新聞に。次の仕事をもらってこようかと……」
「帽子と上着をお持ちします」
本当に、よく出来た小姓だと思う。僕が思うよりも早く、彼は動くのだから。
帝都新聞社は、自宅近くから路面電車に三十分程乗った所にある。昼間の利用客少ないのか、車内は静かで、物思いに耽るのに最適だ。電車に揺られながら、僕はぼんやりと外を見つめていた。
始めて東京に出てきた頃は、街の全てに驚いたものだ。西洋風の建物や、煉瓦で舗装された道。ガス灯なんてものを見たのも、此方に来てからだった。夜が暗くないなんて、なんとも文化的ではないか。そんな感想を持ったのが、遥か昔の事のように思える。
帝都新聞社に着いてすぐ、僕は受付の女の子に、橋谷さんに取り付いで欲しいと頼んだ。橋谷さんは、僕の大学の先輩で、帝都新聞の三面の担当だ。時折、載せる物がなくなると、僕の小説を載せてくれる。
「お前の話は、一流ではないが、三流ではないからな」
酒の席で、よく橋谷さんはそう言って僕の小説を褒めてくれる。甘くはない世界で、唯一僕を認めてくれている人物だ。
待合で、革張りの椅子に座って、橋谷さんを待つ。ぴんと背筋を伸ばして、正面を見据えて、ただ待つ。
「おお、待たせたな」
橋谷さんは、煙草を咥えながら現れた。
急に尋ねたのが此方でも、彼はいつもすまなさそうに現れるのだ。少しくたびれたシャツには、昼食が蕎麦だったのか、跳ねた出汁の色が映っている。
「此方こそ、急にすみません」
「いや、いいよ。どうした、今日は」
少し体をずらしてやると、橋谷さんはどかりと椅子に腰掛けた。
「……何か、仕事をもらえないかと思いまして」
僕が言うと、橋谷さんは近くの灰皿に煙草を押し付けて、大きく息を吐いた。白煙が、すうっと吐き出される。
「お前の原稿は、結構預かってるからなぁ……」
「いえ、小説ではなくて……ただ、何かを書いていたいんです」
橋谷さんは何も聞かずに、そうか、とだけ答えた。
「……この時期にお前が来たのも、縁なのかもな。一つ、記者の真似事をしてみるか?」
「記者の?」
「ああ、丁度欠員が出てな、記事が足りなくなってるんだ」
「ご病気か何かですか?」
それとなく尋ねてみると、橋谷さんが首を振った。
「いや、死んだんだよ」
思いがけない答えに、言葉が出なかった。
「上には俺から伝えておくから、お前が良ければ、明日から来い」
橋谷さんに向き直って、大きく息を吸う。
「……橋谷さん」
「ん?」
深く頭を下げると、彼が息を飲む音が聞こえた。
「よろしくお願いします」
「いや、此方こそ、すまんな……」
「亡くなった方は、どうして?」
立ち上がりかけた橋谷さんに、僕は何気なく尋ねた。橋谷さんの様子が、嫌に気になったのだ。彼は、神妙な面持ちで、僕を見据えた。
「怪死事件を追っていたら、本人も死んじまったんだよ。お前に追って欲しいのも、その事件だ。だから、すまんな。悪く思うな」
嗚呼、成る程。
「よろしくお願いします」
僕は橋谷さんに、もう一度深く頭を下げた。
仕事の無い後輩に、仕事を用意してくれるのだから。感謝こそすれ、何も悪く思う事などないのだから。




