紫黒の夜・二
北新地の、あるホストクラブで合法ハーブが流行っている。キャストの中で広まったそれは、出入りする客にも広まり始めている。
そう語った女の子が、悲しげな顔をする。
「めっちゃいい店やねんけど、そうゆうのに巻き込まれるのはちょっとね」
「通ってたら、なんかやっちゃいそうだもんね、うちらも」
合法ハーブは、大阪の夜の街で流行っているし、どこで遊んでいても聞く言葉だが、自分たちはそれに手を出すつもりはないのだと、彼女達は語った。
「合法ハーブって?」
首を傾げたのは千歳だ。それには、昴が答えた。
「あー……なんつーの? 乾燥させた草に、薬剤染み込ませたドラッグみたいなやつ」
「そんなのあるんだ」
合法ハーブが流行り出したのは最近の話ではない。だが、それはあくまでも個人単位での話で、店全体での事となると、話は別だ。
「店でお香焚いててさ、それが、ハーブらしいってわかってから、うちらも行きにくくなったんだよね」
ハーブは、煙草のように直接摂取する方法と、アロマとして焚いて摂取する方法がある。彼女らの馴染みの店では、後者の方法で店単位で使っているらしい。
合法と銘打っていても、ドラッグはドラッグだ。その効能からか、店の中は異様な雰囲気なのだという。
「そーゆーのする店じゃなかったんやけどね……」
「あたしの口座の、紫燕が始めたって聞いて、ほんまショックやってんー」
がたり、と音を立てて、千歳が腰を浮かした。鋭い目で、女の子を見ている。
「え? 千歳くん?」
「紫燕……って……鶯色の目の?」
千歳は、怒りを湛えた目で、女の子に詰め寄る。少し怯えながら、女の子が頷いた。
「そうそう。綺麗な緑の目なんだー。カラコンじゃなくて、自前だって言ってたから、ハーフなのかもね」
千歳くん、知り合いなの?
そう尋ねられて、彼は曖昧に笑った。
*
女の子達が帰ったのは、店が閉まる時間になってからだった。合法ハーブの話の後、昴が明るい話題を提供して盛り上がったので、何度も延長してくれた。
会計はかなりの金額になっていたが、彼女らは気にせずに千歳の分まで払って帰って行った。本当にお嬢様だったらしい。
「よっしゃ!」
昴はガッツポーズをして、千歳を見た。
しっかり連絡先まで交換して、また来ると言ってくれたので、彼女達は今度から昴と庇牙を指名してくれるだろう。なかなかの上客を捕まえられたのは、この少年のお陰だ。
「ありがとうな、千歳くん……」
言いかけた昴の目の前で、店長が千歳とハイタッチしている。どういう事かと思っていると、あっさりと千歳がネタばらしをしてくれた。
「兄貴じゃ、ホストなんか無理だろ? 俺は年齢的に働けないし……サクラとして手伝えって店長に言われてたの」
まさかの発言に、昴は慄いた。
初めからそのつもりで、タイミングを計って顔を出したのだろう。それにまんまと乗せられた女の子達も可哀想だが、知らずに喜んでいた自分も不甲斐ない。
「えー、でも、昴さんちゃんとゲットしてんじゃん」
女の子の一人は、昴とすっかり意気投合して、いたく気に入ってくれていた。
「でもさー……もう……自信なくすわ」
「あはは。気にしない気にしない」
千歳が明るく笑うのを、庇牙が幸せそうに眺めている。
変わった兄弟だと思う。普通ではない。
昴は何故かそう思った。
「ねぇ、昴さん」
ふと、弟の方が少し首を傾げた。
「お姉さん達が言ってた店、わかる?」
その目に、怒りの色が見えて、昴はますますこの少年が普通ではないのではという思いを大きくさせる。
「ああ、たぶん……」
「紫燕ってホスト、有名なの?」
「なんか、最近出てきた奴だけど、今はその店で番張ってるって話だけど」
そう。千歳は考え込むように俯いた。
この少年と紫燕の間に、何があったのかはわからないが、関わり合いになるのだけはよそう。昴はそう思った。
「ねぇ、昴さん」
「ん?」
「その店の場所、教えてくれない?」
関わり合いになるのはよそう。理性はそう囁くのに、本能が抗う事はよくある事だ。この時も、昴の本能はギラギラと牙を見せていた。
気になる、と。
昴は言葉無く頷くと、次の休みに千歳を件の店に連れて行く約束をして別れた。
*
どうして、こうなったのかわからない。
彼女はそう思いながらも、今日も足が勝手にあの場所へと動くのを止められずにいた。
きっかけはよく思い出せないが、友人に誘われたのだったと思う。初めて訪れた其処は、彼女に幸福をもたらした。この世の者とは思えない、綺麗な男に傅かれて、彼女は幸せを感じた。
小さな会社勤めの、ただのOLでしかない自分を、流麗な物腰の男がもてなしてくれる。とても優しく愛を囁いて。
それが、彼の仕事だと分かっていても、彼女は通う事を辞められずにいた。麻薬のように、彼の言葉は彼女を蝕んでいる。それも分かっている。
最近、あの店は不思議な香りのするお香を焚き始めた。噂では、それが脱法ドラッグの一種ではないかという話で、もともと自分を誘ったはずの友人に、行くのをやめるべきだと諫言された。
もうやめようと思った。
それなのに、夜になると、勝手に足が動く。会社からまっすぐ家に帰って、布団に潜り込んでも、気づけば起き出して、店の前に立っている。
これは、なんだ。
これではまるで……悪夢のようではないか。
*
「あ、千歳くーん」
昴からの呼び出しで、千歳が兄の働く店に行くと、二人の女の子が既に昴と庇牙と共にいた。昴が、席から手を上げた。
一人は、昴を気に入っていた女の子だが、今日の相方は違う女の子らしい。少し俯いて、疲れたように溜息をつく、暗い女の子だ。
「えーと、美咲さん、久しぶり」
「やだー、一昨日会ったばっかでしょ?」
美咲は、あれから殆ど毎日店に現れているらしい。昴の出勤日は、彼女の隣店日でもある、と言われる程に。昴目当ての古参客とブッキングしても、美咲は庇牙と飲んでくれているとも、千歳は昴から聞き及んでいた。
「今日はどうしたの? なんで俺、呼ばれたの?」
一昨日は、美咲が初めてこの店に来た時に一緒にいた女の子がいたので、千歳も呼ばれたのだが、今日は様子が違うらしい。
「なんか、千歳くんって紫燕と知り合いらしいじゃない? この子……あたしもあの店で知り合った子なんだけど、紫燕を口座にしてる子で、悩んでるみたいだったから」
「……初めまして」
美咲の隣に座る女の子が、やっと顔を上げた。ひっ、と微かな悲鳴をあげるので、千歳は首を傾げる。
「ご、ごめんなさい。あんまり綺麗な顔、してるから。なんか……綺麗な人、怖くて」
「怖いって、幽霊でもあるまいし」
千歳が困ったように笑うと、美咲が、本当に困ってるのよ、と言った。
「この前、ハーブの話したやろ? この子、抜け出せなくなったみたいやねん」
美咲は、周りの目を阻むように、声を潜めた。千歳も、ようやくソファに腰を降ろして、話を聞く体勢になる。
「最初は、本当に楽しくて、あの店に通ってたの」
夢のような時間が流れるその店に、彼女は嵌っていった。それが最近、夢遊病のように、毎夜気づけば店前に立っている自分に気がついた時、彼女は戦慄した。どれだけ仕事で疲れていても、深く眠っていても、夜更けに起き出して、店に向かっているのだ。
「行きたくないって思ってても、体が勝手に動いてるの。病院にも行ったのよ、本当に夢遊病なんじゃないかって……でも、薬を飲んで眠っても、わたし、店の前にいるのよ」
それだけではない。店の前にいる記憶はあるが、店の中での記憶はないのだ。
「朝になって、店の外に出た所で、意識がはっきりしてくるの。わたし……おかしいのよ、財布も持たずに、街に出てるのよ?」
彼女の住まいから、店のある場所までは、電車に乗って行くような距離らしい。それを、夜更けに歩いて向かっているのだという。
「夢なんじゃないかって思うけど、でも、確かに現実なの。わたし……どうしちゃったのかな」
「ねぇ、千歳くん、紫燕が使ってるハーブがなにか知らない? 絶対こんなのおかしいもん。変な物勝手に使って、人を中毒にするなんて、普通じゃないし」
美咲が、怒りで唇を噛む。
「知り合いって言うか、一度しか会った事ないし……」
千歳がそう言うと、昴が手を挙げた。
「んじゃ、今から行きますか。もともと、連れてくって約束してたんだし?」
「え? いや、昴さん仕事は?」
千歳が、慌てたように彼を見る。
「大丈夫! 美咲ちゃんが、俺ら連れて中抜けするってことにすればいいんだよ」
「あ、なるほどー。昴かしこーい」
美咲が昴の頭を撫でるのを見て、千歳は深く息を吐いた。それから、ゆっくりと顔をあげる。その目が、照明のせいか、一瞬金色に煌めいた。
「……何人だろうな」
「ん?」
千歳の小さな呟きを聞き漏らして、昴が聞き返す。
「いや……なんでもないよ。じゃあ、行こうか」
昴は、にこやかに笑う千歳に、少し違和感を覚えたが、気にせず立ち上がった。
気になるのなら、自分の目で見ればいいのだ、と思う。そう、何が起こるのかは、自分で見ればいいのだ。




