第1話 森の魔法使い
あの日から、数か月が過ぎた。
季節は巡り、森は夏の深い緑を脱ぎ捨て、少しずつ秋の色をまとい始めていた。
朝夕の風はひんやりと頬を撫で、樫の木から落ちた木の実が乾いた音を立てて転がっていく。
変わらず季節は巡る。
けれど、その景色の中にはもう、あの白い猫はいなかった。
◇
今日も森は静かだった。 まだ陽が昇る前、薄暗い森の中は静まり返っていた。
夜明けの冷気が草花を揺らしている。
何も変わらない。
それなのに、どこか物足りなかった。
大きな樫の木の前で足を止める。
ここは、ソルと初めて出会った場所。
追いかけっこをした場所。
本を読んだ木陰。
一緒に昼寝をした場所。
花冠を作った思い出。
そして──青い髪飾りを預けた場所。
アイリスは樫の木へそっと手を添える。
冷たい樹皮の感触が掌へ伝わった。
森はあの頃のままだ。
風も。
草木も。
あの日と同じだった。
変わってしまったのは、その景色の中にソルがいないことだけだった。
胸の奥がきゅっと締め付けられる。
ぽっかり空いた穴は、今も埋まってはいない。
「元気かな。」
返事はない。
「ちゃんと、ご飯食べてるかな。」
風だけが葉を揺らした。
アイリスは空を見上げ、小さく笑う。
「……幸せなら、いいな。」
今でも会いたい。
話したい。
一緒に笑いたい。
けれど、それ以上に願うことがある。
ソルが、どこかで元気に暮らしていること。
その願いだけは、あの日から変わらなかった。
しばらく樫の木にもたれながら空を眺める。
静かな時間が流れていく。
ソルがいなくなっても、この森へ来る理由はなくならなかった。
樫の木の下へ座ると、不思議と心が落ち着く。
気付けば今日も、白い毛並みを探してしまう。
もう会えないと分かっている。
それでも、この場所へ来ると、ほんの少しだけ前を向ける気がした。
アイリスは静かに立ち上がる。
「また来るね。」
誰に聞かせるでもない小さな声は、秋風へ溶けていった。
◇
孤児院へ戻る頃には、東の空がわずかに白み始めていた。
まだ子どもたちは眠っている。
アイリスは音を立てないよう扉を開けると、一人ひとりへ毛布を掛け直して歩いた。
寝相の悪い子は肩まで毛布を引き上げ、寒そうに丸くなっている子にはそっと手を添える。
小さな寝息を聞くたび、自然と頬が緩んだ。
そのまま台所へ向かい、大鍋へ水を張る。
薪へ火を入れ、朝食の準備を始める。
湯気が立ち上る頃には、外も少しずつ明るくなっていた。
「みんな、朝ですよ。」
部屋を回りながら優しく声を掛ける。
眠そうに目をこする子。
布団へ潜り直そうとする子。
元気よく飛び起きる子。
それぞれの反応が可笑しくて、口元を和ませる。
「ほら、着替えよう。」
幼い女の子の服を整え、ボタンを留めてあげる。
「ありがとう、お姉ちゃん。」
「どういたしまして。」
頭を撫でると、女の子は嬉しそうに笑った。
以前なら、自分のことで精一杯だった。
けれど今は、こうして誰かの笑顔を見る時間が好きになっていた。
◇
朝食を終え、子どもたちがそれぞれの仕事へ向かう。
アイリスは裏庭へ出ると、斧を手に取った。
薪を一本立てる。
深く息を吸い、勢いよく振り下ろす。
乾いた音が朝の空気へ響いた。
「今日も朝が早いのね。」
聞き慣れた優しい声に振り返る。
マリアが微笑みながら立っていた。
「おはようございます。」
「おはよう、アイリス。」
積み上がった薪を見つめ、マリアは少しだけ目を細める。
「また無理をしていない?」
アイリスは首を横へ振った。
「大丈夫です。」
短い返事。
けれど、その表情は以前より穏やかだった。
マリアも安心したように頷く。
「そう。無理だけはしないでね。」
「はい。」
朝日が山の向こうから顔を出し、孤児院を優しく照らし始める。
新しい一日が始まった。
◇
仕事が一段落すると、マリアが薬草籠を持ってやって来た。
「アイリス。」
「はい。」
「今日も薬草をお願いできるかしら。」
「もちろんです。」
籠を受け取り、肩へ布袋を掛ける。
「急がなくていいからね。」
「分かりました。」
薬草採りは、今でもアイリスの大切な役目だった。
孤児院の門をくぐる。
自然と足は森へ向かっていた。
森へ入る直前、思わず足を止める。
「今日も来ちゃった。」
困ったように笑う。
もう会えないことくらい、分かっている。
それでも。
気付けば毎日のように、この森へ来てしまう。
自分でも理由はよく分からなかった。
ただ、この場所へ来ると心が少しだけ軽くなる。
アイリスはゆっくりと森の中へ歩き出した。
その胸には、薬草籠と一緒に、一冊の古びたノートが抱えられていた。
◇
森の奥へ進むにつれ、人の気配は少しずつ遠ざかっていく。
聞こえるのは、木々を揺らす風の音と、小鳥たちのさえずりだけ。
アイリスはいつもの広場へ辿り着くと、薬草籠を木陰へ置いた。
その隣へ、使い込まれたノートと数冊の魔法書を並べる。
表紙は擦り切れ、角は丸くなっていた。
何度も開き、何度も書き込みを重ねた証だった。
アイリスはノートを開き、前のページへ目を落とす。
『火属性第三術式』
『水属性第二術式追加』
『魔力循環率 四二%』
『結果──暴発』
その下には、小さな文字でいくつもの修正案が書き込まれている。
「ここを変えたら、どうかな……。」
羽根ペンを走らせ、新たな術式を書き加える。
しばらく考え込んだあと、小さく頷いた。
「よし。」
ノートを閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
魔法陣が淡く光を帯びる。
火属性の魔力を流し込む。
続けて、水。
さらに風。
魔法陣は複雑に形を変え始めた。
「あと少し……。」
アイリスは魔法陣を見つめながら、指先で術式を書き換えていく。
既に展開している魔法陣へ、新しい式を書き足していく。
普通なら完成しているはずの魔法を、発動したまま作り変えていた。
光が揺れる。
魔力が震える。
「違う……ここじゃない。」
術式の一部を書き直す。
さらに土属性を組み込む。
光属性の流れを調整する。
最後に闇と無属性を加える。
七つの魔力が一つの魔法陣の中で複雑に絡み合っていく。
「お願い……!」
次の瞬間。
眩い閃光が森を包み込んだ。
轟音が響く。
突風が木々を大きく揺らし、落ち葉が空高く舞い上がる。
魔法陣は耐え切れず、音を立てて崩壊した。
「きゃっ!」
爆風に尻もちをつく。
服には煤が付き、前髪の先が少しだけ焦げていた。
しばらく咳き込んだあと、アイリスは小さく肩を落とす。
「また駄目だった……。」
期待した結果には届かなかった。
それでも悔しそうな顔をするだけで、諦める様子はない。
再びノートを開き、失敗した理由を書き込んでいく。
『既存術式では魔力干渉が発生』
『術式改変中に暴発』
『新しい術式の構成が必要』
「あと少しなんだけどなぁ……。」
独り言を漏らしながら、また新しい魔法陣を描き始める。
誰に見せるためでもない。
褒めてもらうためでもない。
もっと人を助けられる魔法を生み出せるようになりたい。
そのために、既存の術式を何度も改良し続けていた
◇
その頃。
森の反対側では、一人の男が足を止めていた。
肩まで伸びた赤い髪。
日に焼けた肌。
腰には一本の剣。
突然森を駆け抜けた膨大な魔力を感じ取り、ゆっくりと眉をひそめた。
「……なんだ、今の。」
これほど複雑な魔力は滅多に感じない。
しかも、どこか歪だった。
ゼノスは迷うことなく魔力の痕跡を追い始める。
森を抜け、やがて爆発の跡へ辿り着いた。
焼け焦げた地面。
砕け散った魔法陣。
空気には、まだ濃い魔力が残っている。
「……全部の属性が混ざってやがる。」
しゃがみ込み、地面へ手を触れる。
目を閉じ、残留魔力を探る。
「……七属性全部だと?」
思わず目を見開く。
一つ一つの魔力は決して珍しくない。
だが、その組み合わせ方が異常だった。
魔法陣には、何度も書き換えられた跡が残っている。
「……術式を書き換えてる?」
完成した魔法ではない。
試行錯誤の途中で暴発した痕跡だった。
ゼノスはしばらく黙って魔法痕を見つめる。
「こんな馬鹿げた真似をする奴がいるのか……。」
数秒の沈黙。
やがて、その口元がゆっくりと吊り上がった。
「……面白ぇ。」
久しく感じていなかった高揚感が胸を満たしていく。
この魔法を使った人物に会ってみたい。
そんな衝動のまま、ゼノスは残された魔力を辿って歩き出した。
◇
木々の隙間から、小さな広場が見えてくる。
一人の少女が地面へ座り込み、ノートを広げていた。
「ここを少し変えて……。」
ぶつぶつと呟きながら術式を書き換える。
考え込んでは消し、また書き直す。
その横には、焦げ跡の付いた魔法陣が幾つも残されていた。
ゼノスは木の陰へ身を隠し、その様子を黙って見つめる。
(……この子か。)
少女はまだ幼い。
十歳にも満たないようにも見える。
だが、その手は迷わない。
新しい魔法陣を描き終えると、何の躊躇もなく魔力を流し込む。
発動。
修正。
また発動。
さらに修正。
普通なら、一度発動した術式へ手を加えるなど考えもしない。
それを、この少女は呼吸をするように繰り返していた。
(本物だ。)
ゼノスは確信する。
目の前にいるのは、ただ魔力が多いだけの子どもではない。
未知の可能性へ、自分一人で手を伸ばしている。
そんな存在だった。
思わず笑みがこぼれる。
こんな逸材を見逃す理由など、一つもない。
ゼノスは木陰から姿を現した。
「おい。」
突然聞こえた低い声に、アイリスはびくりと肩を震わせる。
慌てて振り返ると、見知らぬ大柄な男が立っていた。
「えっ……?」
赤い髪の男は豪快に笑う。
まるで昔から知り合いに話しかけるような気軽さで言った。
「嬢ちゃん。」
アイリスは目をぱちぱちと瞬かせる。
「……はい?」
ゼノスは満面の笑みを浮かべる。
「俺の弟子になれ。」




