第2話 豪快な第一賢者
樫の木の下を、柔らかな風が吹き抜ける。
幾重にも浮かんでいた魔法陣は、淡い光の粒となって空へ溶けていった。
その光景を見つめながら、赤髪の男は口元を大きく吊り上げる。
「おい、嬢ちゃん。」
突然掛けられた声に、アイリスは弾かれたように振り返った。
そこには、一人の男が立っていた。
肩まで伸びた赤い髪。
日に焼けた肌。
腰には使い込まれた一本の剣。
旅人にも見えるその男は、まっすぐアイリスを見つめると、迷いなく口を開いた。
「俺の弟子になれ。」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……えっと。」
思わず一歩だけ後ろへ下がる。
胸に抱えたノートへ、ぎゅっと力が入った。
「急にそんなことを言われても……。」
困ったように視線を泳がせ、小さく首を横へ振る。
「知らない人について行くわけにはいきません。」
男は目をぱちりと瞬かせた。
まさかそこまで警戒されるとは思っていなかったのだろう。
しかし次の瞬間。
「はっはっは!」
森中へ響くような笑い声が上がった。
「そりゃそうだ!」
「初めて会った奴について行く方がおかしいよな!」
腹を抱えて笑っている。
断られたことを気にする様子はまるでない。
その豪快さに、アイリスは戸惑う。
(……怒らない。)
断れば怒鳴られるかもしれない。
呆れられるかもしれない。
そう思っていた。
けれど、この人は違った。
心底おかしそうに笑っている。
「面白ぇ嬢ちゃんだ。」
目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、男は満足そうに笑った。
アイリスは返す言葉が見つからず、小さく俯くしかなかった。
◇
「理由くらい聞いてもいいか?」
男は近くの木の根へ腰を下ろした。
声に威圧感はない。
責めるような響きもなかった。
ただ、純粋に知りたい。
そんな口調だった。
アイリスは少しだけ肩の力を抜く。
「私は……孤児院のみんなと暮らしています。」
ゆっくりと言葉を選びながら続ける。
「急に孤児院を離れることはできません。」
「みんなを置いて行けないんです。」
男は黙って耳を傾けていた。
相づちも打たない。
途中で口を挟むこともない。
最後まで聞き終えてから、小さく頷く。
その姿を見て、アイリスは恐る恐る尋ねた。
「どうして……私なんですか?」
男は腕を組み、少しだけ空を見上げる。
「まだ一日しか会ってねぇ。」
そう言って笑った。
「そんな話は、お互いをもう少し知ってからだ。」
アイリスは目を丸くする。
もっと強引な人だと思っていた。
理由を押し付けられると思っていた。
けれど、この人は違う。
答えを急がない。
自分の考えを押し付けもしない。
(……本当に、不思議な人。)
そんな印象が胸の中で少しずつ形になっていく。
◇
アイリスは薬草籠を持ち直した。
まだ今日の仕事は終わっていない。
話を続けているわけにはいかなかった。
足元へ目を向ける。
木陰に群生する薬草を一株摘み取り、丁寧に籠へ入れる。
男は引き止めようとしなかった。
代わりに、当然のような顔で隣を歩き始める。
「その葉っぱ。」
「何に使う?」
突然の質問に、アイリスは少し肩を震わせた。
「……薬草です。」
「熱を下げる薬になります。」
「へぇ。」
男はしゃがみ込み、薬草を興味深そうに眺める。
「これが?」
「はい。」
「乾燥させて煎じると、熱や咳に効くんです。」
「なるほどな。」
感心したように頷く。
命令するわけでもない。
弟子の話へ戻そうとするわけでもない。
ただ隣を歩き、気になったことを聞いてくるだけだった。
(……変な人。)
そう思う。
けれど。
(悪い人じゃ、ないのかもしれない。)
まだ信用したわけではない。
それでも、追い返したいとは思わなかった。
アイリスは薬草を摘み続ける。
男もまた、その歩幅に合わせるように歩いていた。
◇
森の奥へ進むにつれ、足元に生える植物の種類も増えていく。
男は興味津々といった様子で辺りを見回した。
「これは?」
「毒草と何が違う?」
「いつ採るのが一番いい?」
次々と飛んでくる質問に、アイリスは立ち止まりながら答えていく。
「葉脈の形が違います。」
「これは春先が一番薬効が強くなります。」
「こちらは葉だけじゃなく、根も使えます。」
一つ説明するたび、男は素直に感心していた。
「よく知ってるな。」
「全部、本で覚えたのか?」
「はい。」
アイリスは頷く。
「あと……。」
「自分でも試しました。」
男の動きがぴたりと止まる。
「自分で?」
「はい。」
「効き目も。」
「量も。」
「飲み合わせも。」
「全部、記録しています。」
森が静まり返る。
次の瞬間――。
「はっはっは!」
また豪快な笑い声が響いた。
「面白ぇ!」
アイリスは思わず瞬きを繰り返す。
普通なら危ないと叱られる。
無茶だと止められる。
そう思っていた。
なのに、この人は笑う。
しかも、楽しそうに。
(本当に……変な人。)
そう思いながらも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、その笑い声につられそうになる自分がいて、アイリスは慌てて表情を引き締めるのだった。
◇
薬草を摘みながら歩いていると、いつしか二人の間に流れていた沈黙も心地よいものへと変わっていた。
しばらくして、男が思い出したように声を上げる。
「そういや。」
「名前聞いてなかったな。」
アイリスは顔を上げる。
「私はアイリスです。」
「アイリスか。」
男は一度その名を口の中で転がすように呟き、満足そうに頷いた。
「俺はゼノス。」
それだけだった。
自分が何者なのか。
どこから来たのか。
何をしている人なのか。
余計なことは何も語らない。
「よろしくな。」
そう言って差し出されたのは、日に焼けた大きな手だった。
アイリスは少し迷う。
けれど、その手からは不思議と威圧感を感じなかった。
そっと手を重ねる。
「……よろしくお願いします。」
ゼノスは満足そうに笑い、軽く手を離した。
◇
再び森を歩き始める。
木々の間を吹き抜ける風が葉を揺らし、小鳥のさえずりが静かに響いていた。
ゼノスが何気なく口を開く。
「昨日の魔法。」
「誰に教わった?」
アイリスは首を横へ振る。
「誰にも。」
「本を読んで、自分で考えました。」
その瞬間、ゼノスの足が止まった。
(やっぱり。)
昨日見た魔法痕を思い出す。
七つの属性が複雑に絡み合い、幾度も術式を書き換えた痕跡。
普通の魔法使いなら、発想すらしない。
まして独学など。
(とんでもねぇな。)
心の中で苦笑しながら、再び歩き出す。
「じゃあ。」
「なんであんな術式を試してる?」
アイリスは歩みを止めた。
目の前には、大きな樫の木。
いつものように魔法陣を描き、何度も失敗を繰り返してきた場所。
ソルとの思い出も、アイリスの夢も、この樫の木の下に積み重なっていた。
樹皮へそっと視線を向ける。
「もっと……。」
静かな声が漏れる。
「困っている人を助けたいからです。」
ゼノスは何も言わない。
アイリスはゆっくり続ける。
「橋が壊れて困っている人も。」
「家を失った人も。」
「病気で苦しんでいる人も。」
「魔法で助けられたらいいなって……。」
そう言って、少しだけ照れくさそうに笑う。
「だから、いろいろ試しています。」
その笑顔は、自分の才能を誇るものではなかった。
誰かの役に立ちたい。
ただ、その一心。
ゼノスは静かに空を見上げる。
(力のためじゃねぇ。)
(人を助けるため、か。)
気付けば、口元が自然と緩んでいた。
◇
森を抜ける頃には、西日が木々を朱色へ染め始めていた。
ゼノスが何気ない調子で尋ねる。
「院長さんとは長いのか?」
アイリスは少しだけ考える。
「物心ついた頃から、ずっとです。」
「私には家族がいないので……。」
ゼノスは黙って頷いた。
余計な慰めは言わない。
可哀想だとも言わない。
ただ、その事実を受け止めるように。
「そうか。」
それだけで十分だった。
しばらく歩いてから、ゼノスは笑う。
「なら。」
「院長さんに話をしねぇとな。」
アイリスは足を止めた。
「……え?」
「お前を弟子にしたい。」
「育ててくれた人に筋を通さねぇとな。」
思わずゼノスを見上げる。
弟子にしたいと言ったのは、この人だ。
それなのに、自分ではなくマリアのことを真っ先に考えている。
「本人だけで決めることじゃねぇ。」
「大事に育ててもらったんだろ?」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
最初は、変な人だと思った。
突然現れて、突然弟子になれと言う人。
けれど。
ちゃんと話を聞いてくれる。
押し付けない。
無理強いもしない。
そして、自分を育ててくれた人への礼儀を忘れない。
(……この人は。)
まだ弟子になるとは決められない。
でも。
もう少しだけ。
この人のことを知ってみたい。
その気持ちは、確かに心の中で芽生え始めていた。
アイリスは静かに頷く。
「……はい。」
◇
やがて木々の隙間から、見慣れた孤児院の屋根が姿を現した。
夕焼けに照らされた建物は、いつもより優しく見える。
ゼノスは両腕を上へ伸ばし、大きく背伸びをした。
「さて。」
「未来の弟子を迎えに行くか。」
アイリスは慌てて首を横へ振る。
「ま、まだ何も決めてません。」
「そうか?」
ゼノスはにやりと笑う。
「そのうち決める。」
「決めません。」
間髪入れず返ってきた答えに、ゼノスは腹を抱えて笑った。
「はっはっは!」
「そういうとこだ!」
笑い声が夕暮れの森へ響いていく。
アイリスは小さくため息をつく。
「もう……。」
呆れたように漏らしたその一言に、自分でも少し驚いた。
こんなふうに自然な言葉が出たのは、いつ以来だろう。
気付けば、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
ゼノスは先を歩いていく。
その背中を見つめながら、アイリスもゆっくりと歩き出す。
まだ何も決めてはいない。
それでも。
この出会いが、自分の未来を少しずつ変え始めている。
そんな予感だけは、不思議とはっきり感じていた。
二人は並んで、夕暮れの孤児院へ向かって歩いていくのだった。




