第8話 果たせなかった約束
白銀の猫は、森を駆けていた。
夏草を揺らし、木々の間を縫うように走る。胸の奥が、妙にざわついていた。
昨日から続く、嫌な予感。
それを振り払うように速度を上げる。
樫の木が見えた。
その根元には――。
誰もいない。
少女の姿はなかった。
朝露だけが静かに草を濡らしている。
白銀の猫は辺りを見回した。
まだ来ていないだけか。
そう思った、その時だった。
「殿下!」
鋭い声が森へ響く。
猫の耳がぴくりと動く。
木々の向こうから数人の男たちが姿を現した。
濃紺の軍服。
腰には剣。
胸には王家の紋章。
王国近衛騎士団だった。
先頭に立つ男は膝をつき、深く頭を下げる。
「ようやく見つけました。」
猫は静かに後ずさる。
「国王陛下がお待ちです。」
その言葉だけで理解した。
終わった。
おそらくもうここへ来ることはできないだろうと。
◇
男たちは猫へ近付く。
逃げようと思えば逃げられる。森は自分の庭だった。誰も追いつけない。
けれど。
逃げれば。
父は森中を捜索させるだろう。
この森へ。
騎士たちが入り続ける。
アイリスまで巻き込んでしまうかもしれない。
それだけは駄目だった。
猫は静かに目を閉じる。
そして。
淡い白銀の光が身体を包み込んだ。光はゆっくりと大きくなり、猫の輪郭を飲み込んでいく。
やがて光が消えた時。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。
透き通るような銀髪。
深い蒼の瞳。
年は十三歳ほど。
白い礼服にも似た衣装は、森の中ではあまりにも場違いだった。
その首元には。
青い髪飾りが、革紐で大切に結ばれている。
騎士たちは一斉に頭を垂れた。
「レイヴァルト殿下。」
少年は静かに頷くだけだった。
その表情には年相応の幼さはなく、諦めにも似た静けさだけがあった。
◇
王城は、森から遠く離れた山の上に建っていた。
巨大な白亜の城。
高くそびえる塔。
幾重にも張り巡らされた城壁。
豪華な場所だった。
だが。
レイヴァルトにとっては、最も息苦しい場所でもあった。
長い廊下を歩く。
使用人たちは一斉に道を開け、深く頭を下げる。
「レイヴァルト殿下。」
「お帰りなさいませ。」
誰も笑わない。
誰も気軽には話しかけない。
王子だから。
ただ、それだけだった。
◇
重厚な扉が開く。
王座の間。
玉座には、一人の男が座っていた。
現国王。
オズヴァルト・アルディシア。
威厳に満ちた藍色の瞳が、まっすぐ息子を見下ろしている。
「戻ったか。」
「……はい。」
短い返事。
王は立ち上がらない。
ただ静かに見つめていた。
「報告は受けている。」
「ここのところ毎日のように森へ通っていたそうだな。」
レイヴァルトは黙っていた。
「白猫へ姿を変え。」
「王族であることを隠し。」
「一人の民と交流を続けていた。」
静かな声だった。
だからこそ重かった。
「言い訳はあるか。」
「ありません。」
「……そうか。」
短い沈黙。
「レイヴァルト。」
「はい。」
「お前は王となる者だ。」
「一人の感情で生きてよい立場ではない。」
王はゆっくり続ける。
「我が国を取り巻く情勢は変わった。」
「隣国との緊張も高まっている。」
「もはや猶予はない。」
王の視線が鋭くなる。
「本来五年かけて行う王太子教育を。」
「それを二年で終えなさい。」
レイヴァルトは顔を上げた。
「二年……。」
「明日からすぐ始める。」
政治。
歴史。
軍略。
剣術。
魔法。
王として必要な全てを、二年間で叩き込む。
「教育期間中。」
王は静かに告げた。
「公務以外で城外へ出ることを禁ずる。」
その一言だけだった。
それだけで。
森へは、もう行けない。
レイヴァルトは何も言わなかった。
言える立場ではないことを知っていた。
◇
その夜。
自室へ戻る。
広すぎる部屋。
大きな窓。
豪華な調度品。
何一つ欲しいものではなかった。
レイヴァルトは首元へ手を伸ばす。
革紐を外す。
掌へ落ちた小さな青い髪飾り。
木漏れ日を浴びていた時と同じように、静かに光を返していた。
――約束だよ。
少女の声が蘇る。
――私が大丈夫って思える日まで。
――預かっていて。
レイヴァルトは髪飾りを強く握り締めた。
「……すまない。」
初めて漏れた弱い声だった。
「約束を。」
「守れそうにない。」
胸が痛んだ。
今頃。
アイリスは樫の木で待っているのだろうか。
黒パンを半分に割って。
「今日は寝坊かな。」
そんなふうに笑っているのだろうか。
やがて。
待ち続けて。
日が暮れて。
寂しそうに帰っていくのだろう。
想像するだけで胸が締め付けられた。
「必ず。」
青い石を見つめる。
「返す。」
それだけは。
どんなことがあっても。
王族としてではない。
一人のレイヴァルトとして決めた約束だった。
◇
二年間は、あまりにも長かった。
夜明け前に起床。
剣術。
朝食。
政治学。
歴史。
法律。
昼食。
外交。
軍略。
経済。
魔法理論。
礼儀作法。
夕食。
その後も深夜まで書物を読み続ける。
眠れるのは数時間。
失敗すれば叱責。
妥協は許されない。
誰も王太子を甘やかさない。
そうして、一日が終わる。
また翌日も。
その翌日も。
同じ日々が続いた。
◇
ただ一つ。
毎晩欠かさなかったことがある。
机の引き出しを開く。
布へ包まれた青い髪飾りを取り出す。
静かに掌へ乗せる。
木漏れ日。
樫の木。
鬼ごっこ。
花冠。
小川。
笑い声。
黒パン。
そして。
「君だから、一緒にいたいって思うよ。」
その言葉だけが。
どれほど苦しい一日でも、レイヴァルトの心を支え続けた。
◇
そして。
二年後。
全課程を修了した日。
レイヴァルトは誰よりも早く城を飛び出した。
馬を走らせる。
森へ。
ただ、その場所だけを目指して。
樫の木が見えた。
胸が高鳴る。
「アイリス!」
初めて。
少女の名を口にした。
返事はない。
樫の木の下には、誰もいなかった。
草だけが風に揺れている。
レイヴァルトは森中を探した。
小川。
花畑。
追いかけっこをした道。
本を読んだ樫の木。
どこにもいない。
◇
夕暮れ。
レイヴァルトは孤児院の門を叩いた。
しばらくして、マリアが姿を現す。
「どちら様でしょうか。」
穏やかな声だった。
レイヴァルトは一瞬だけ言葉を迷う。
王太子であることは明かせない。
「……白い猫の飼い主です。」
その言葉に、マリアは小さく目を見開いた。
「ああ……。」
すぐに思い当たったように頷く。
「あの白い猫の。」
「はい。」
レイヴァルトは静かに頭を下げた。
「アイリスという少女に会いたいのです。」
その名を聞いた瞬間、マリアの表情が少しだけ曇る。
「……そうでしたか。」
寂しそうに微笑む。
「アイリスは、もうここにはいません。」
胸が大きく脈打つ。
「どこへ。」
「賢者ゼノス様の弟子として。」
「一年半……いえ、二年近く前でしょうか。この孤児院を旅立ちました。」
二年前。
ちょうど。
自分が城へ戻された、その頃だった。
レイヴァルトは静かに目を閉じる。
すれ違ってしまった。
あと一日。
いや、あと数時間でも早ければ。
もう一度だけ。
会えたのかもしれない。
首元から革紐を外す。
掌の上で、小さな青い石が夕日に照らされていた。
「アイリス。」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「必ず。」
髪飾りを静かに握り締める。
「必ず返す。」
それは。
二年前に交わした約束。
そして。
未来の再会を誓う、新たな約束でもあった。
夕焼けに染まる空を、一羽の白い鳥が静かに横切っていく。




