第7話 また明日
あれから季節はゆっくりと巡り、すっかり夏を迎えていた。ソルと過ごす毎日は、もうアイリスにとって当たり前になっていた。
樫の木の葉は青々と茂り、その大きな枝葉は以前よりも深い木陰を作っている。森を吹き抜ける風はどこか涼しく、木々の葉がさらさらと優しい音を立てて揺れていた。
色鮮やかな小鳥たちが枝から枝へ飛び移り、そのさえずりが静かな森へ心地よく響いている。
変わらない景色。
変わらない森。
けれど。
アイリスの毎日は、少しだけ変わっていた。
◇
今日も夜明け前に目を覚ます。
薪を割り。
洗濯を干し。
マリアに頼まれた仕事を手伝う。
朝食を食べる。
黒パンを半分だけ残し、小さな布で丁寧に包む。それを布袋へしまうところまで、もう毎日同じだった。
やることは何一つ変わらない。
以前と同じ毎日。
それなのに。
仕事を終えたアイリスの足は、自然と森へ向かっていた。
森が好きだから。
静かな場所だから。
それも理由の一つだった。
でも、それだけではない。
森へ向かえば。
あの白銀の猫が待っている。
そのことを思うだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。歩く足も自然と軽くなっていた。
アイリス自身は、その変化にまだ気付いていない。
◇
森へ続く小道を歩く。朝露をまとった草花が風に合わせて揺れ、木漏れ日が丸い光の模様を地面へ映していた。鳥たちが枝から枝へ飛び交い、夏の森は今日も穏やかだった。
「今日は気持ちいいね。」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
その時。
道端に咲く、小さな白い花が目に入った。
しゃがみ込み、そっと眺める。朝露をまとった花びらが、陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
「きれい……。」
思わず微笑む。
摘もうかと指先を伸ばす。
けれど、その手は途中で止まった。
「ソルにも見せたいな。」
小さく呟く。
摘んでしまえば、この花はここで咲いていられない。
だから、そのままにしておこう。
一緒に見られれば、それで十分だった。
アイリスは立ち上がり、再び歩き始める。頬には穏やかな笑みが浮かんでいた。
◇
やがて、大きな樫の木が見えてくる。
その根元には、一匹の白銀の猫が静かに座っていた。
「ソル。」
名前を呼ぶと、白い耳がぴくりと動く。
ソルはゆっくりと立ち上がり、アイリスの方へ歩いてきた。
初めて会った日のような警戒は、もうどこにもない。
それが当たり前のように。
それが毎日のことのように。
二人は自然と近付いていく。
「待っててくれたんだね。」
しゃがみ込み、優しく頭を撫でる。さらり、と白銀の毛並みが指先を滑った。
ソルは気持ちよさそうに目を細める。
そして。
ふわり、と軽やかに跳び上がった。
「わっ。」
アイリスの膝へ、いつものように着地する。そのまま丸くなり、小さく喉を鳴らし始めた。
ごろ、ごろ。
聞き慣れた音だった。
アイリスは嬉しそうに笑う。
「ふふ。」
「今日も一番乗りだね。」
ソルは返事の代わりに、ゆっくりと尻尾を揺らした。
アイリスは布袋を開き、朝食で残してきた黒パンを取り出す。慣れた手つきで半分に割ると、一つをソルの前へ差し出した。
「はい。」
もう遠慮はいらない。
二人にとって、それは当たり前になった朝の時間だった。
◇
ソルは差し出された黒パンへ顔を近付ける。
一口。
また一口。
慌てることもなく、ゆっくりと味わうように食べていく。
アイリスも自分の分を口にした。
二人で食べる黒パンは、初めて会った日のように固いはずなのに、不思議と美味しく感じられた。
「最初は全然食べてくれなかったのにね。」
懐かしそうに笑う。
「今では、ちゃんと一緒に食べてくれる。」
ソルは小さく喉を鳴らした。
ごろ、ごろ。
「ふふ。」
「返事してくれた。」
食べ終えると、ソルは口元をぺろりと舐める。その仕草は、初めて出会った日と何も変わらない。
アイリスは自然と笑みを浮かべた。
「美味しかった?」
ソルは答えない。
代わりに、アイリスの手へそっと頭を擦り寄せる。
「もう。」
「甘えん坊なんだから。」
愛おしそうに撫でると、白銀の毛並みは陽の光を受けて静かに輝いた。
◇
二人は樫の木の根元へ並んで座る。吹き抜ける風が心地よい。葉擦れの音だけが、穏やかに耳へ届く。
誰も話さない。
それでも、不思議と退屈ではなかった。
ソルはアイリスの膝で丸くなり、静かに目を閉じている。
アイリスはその背中を、ゆっくりと撫で続けた。さらり、と柔らかな毛並みが指先を滑る。
「ねぇ。」
ぽつりと呟く。
「最近ね。」
少し照れくさそうに笑う。
「朝になるのが楽しみなの。」
白い耳がぴくりと動いた。
「前はね。」
「森へ来ると、一人になれるから好きだった。」
木漏れ日を見上げる。
「誰にも気を使わなくていいし。」
「何も考えなくていいし。」
「ここにいると、ほっとできたから。」
少しだけ間を置く。
そして、ゆっくりとソルへ視線を向けた。
「でも、今は違う。」
優しく微笑む。
「君に会えるから。」
その言葉は、とても自然だった。
飾ることもなく。
照れ隠しをすることもなく。
胸の中にある気持ちを、そのまま口にしただけだった。
ソルは静かに少女を見つめる。
何も言わない。
けれど、その青い瞳は穏やかに細められていた。
まるで、その言葉を大切に受け止めるように。
アイリスは少し照れくさそうに笑う。
「こんなこと。」
「君にしか言えないな。」
白い頭を優しく撫でる。
ソルは安心したように、ごろ、ごろと喉を鳴らした。その音は、森の静けさへ溶け込むように優しく響いていた。
◇
やがて、木漏れ日は少しずつ傾き始める。樫の木の影がゆっくりと長く伸び、夏の風が二人の間を静かに吹き抜けていった。
アイリスは樹にもたれ、小さく息を吐く。
「気持ちいいね。」
ソルも身体を寄せるように隣へ移動する。
一人と一匹は、そのまま何も話さず空を見上げた。
白い雲がゆっくりと流れていく。
それを眺めているだけで、心が満たされるような時間だった。
言葉はなくてもいい。
一緒にいるだけで、それだけで十分だった。
どれくらい、そうしていただろう。
やがて、アイリスはゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ帰らないと。」
孤児院では夕食の支度が始まる頃だ。遅くなれば、マリアが心配してしまう。
アイリスはしゃがみ込み、ソルと目を合わせる。
「また明日ね。」
ソルは少女を見上げた。
そして、小さく一度だけ鳴く。
「にゃあ。」
その返事が嬉しくて、アイリスは柔らかく笑った。
「約束だよ。」
ソルは静かに尻尾を揺らす。
それが二人だけの「また明日」の返事だった。
アイリスは何度も振り返りながら、森をあとにする。
樫の木の下には、白銀の猫が静かに座っていた。
明日も。
きっと同じように会える。
アイリスは、そう信じて疑わなかった。
◇
翌朝。
アイリスはいつものように夜明け前に目を覚ました。
薪を割り。
洗濯を干し。
マリアに頼まれた仕事を終え。
朝食を食べる。
黒パンを半分だけ残し、いつものように布へ包んだ。その動きは、もうすっかり日課になっていた。
「今日は何して遊ぼうかな。」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
鬼ごっこをしようか。
小川へ行こうか。
それとも、また本を読もうか。
そんなことを考えるだけで、自然と頬が緩んだ。
◇
夏の森は今日も穏やかだった。木漏れ日が揺れ、小鳥たちが楽しそうにさえずっている。
樫の木が見えてくる。
アイリスは自然と笑顔になった。
「ソル。」
呼びかける。
返事はない。
「あれ?」
樫の木の根元には、誰もいなかった。
アイリスは辺りを見回す。
「まだ来てないのかな。」
そう呟き、いつもの場所へ腰を下ろした。
布袋を開く。
黒パンを取り出し、半分に割る。
自分の隣へ、もう半分をそっと置いた。
「今日は寝坊かな。」
くすりと笑う。
まだ心配はしていなかった。
風が静かに吹き抜ける。
葉擦れの音だけが聞こえていた。
◇
しばらく待つ。
パンはそのまま。
アイリスは何度も森の奥へ視線を向けた。
「ソル。」
小さく呼ぶ。
返事はない。
「もう少し待ってみよう。」
そう言って空を見上げた。
白い雲がゆっくりと流れていく。太陽は少しずつ高く昇り、木漏れ日は昼の明るさへ変わっていった。
それでも。
ソルは来なかった。
◇
アイリスはゆっくりと立ち上がる。
胸の奥が、少しだけざわついていた。
「ソル?」
今度は少しだけ大きな声で呼ぶ。
森は静かなままだった。
返事はない。
「どこ?」
樫の木の周りを歩く。
姿は見えない。
木の上も見上げる。
いつも飛び降りてきた枝にも、白い姿はなかった。
「……かくれんぼ?」
そう言って笑ってみる。
けれど。
返事はない。
◇
アイリスは小川へ向かった。
二人で遊んだ場所。
ソルが魚を捕まえようとして、びしょ濡れになった場所。
「ソル!」
澄んだ水面へ声が響く。
魚たちは驚いて泳ぎ去る。
けれど。
白い猫は現れなかった。
花が咲く場所も探した。
追いかけっこをした道も歩いた。
本を読んだ樫の木の裏側も見て回る。
「ソル。」
「どこ?」
歩いて。
立ち止まって。
また歩く。
何度呼んでも、返事はなかった。
◇
気が付けば、太陽は西へ傾き始めていた。
アイリスは樫の木へ戻る。
朝、自分が置いた黒パンは、そのまま残っていた。誰にも食べられていない。
アイリスはしゃがみ込み、そのパンを静かに布へ包み直した。
「今日は会えなかったね。」
寂しそうに笑う。
少しだけ樫の木を見上げる。
「また明日ね。」
その声は、森へ静かに溶けていった。
返事はない。
風だけが樫の木の葉を揺らしている。
アイリスはもう一度だけ森を振り返る。
「明日は……会えるよね。」
そう呟くと、小さく微笑み、孤児院への道を歩き始めた。
樫の木の下には、誰もいない。
夏の森は昨日と何一つ変わらず穏やかなのに。
そこにいるはずの一匹だけが、いなかった。




