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白銀の猫と創生の魔女  作者: 金林明莉
第一章 白銀の猫
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7/14

第7話 また明日

 あれから季節はゆっくりと巡り、すっかり夏を迎えていた。ソルと過ごす毎日は、もうアイリスにとって当たり前になっていた。

 樫の木の葉は青々と茂り、その大きな枝葉は以前よりも深い木陰を作っている。森を吹き抜ける風はどこか涼しく、木々の葉がさらさらと優しい音を立てて揺れていた。

 色鮮やかな小鳥たちが枝から枝へ飛び移り、そのさえずりが静かな森へ心地よく響いている。

 変わらない景色。

 変わらない森。

 けれど。

 アイリスの毎日は、少しだけ変わっていた。

     ◇

 今日も夜明け前に目を覚ます。

 薪を割り。

 洗濯を干し。

 マリアに頼まれた仕事を手伝う。

 朝食を食べる。

 黒パンを半分だけ残し、小さな布で丁寧に包む。それを布袋へしまうところまで、もう毎日同じだった。

 やることは何一つ変わらない。

 以前と同じ毎日。

 それなのに。

 仕事を終えたアイリスの足は、自然と森へ向かっていた。

 森が好きだから。

 静かな場所だから。

 それも理由の一つだった。

 でも、それだけではない。

 森へ向かえば。

 あの白銀の猫が待っている。

 そのことを思うだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。歩く足も自然と軽くなっていた。

 アイリス自身は、その変化にまだ気付いていない。

     ◇

 森へ続く小道を歩く。朝露をまとった草花が風に合わせて揺れ、木漏れ日が丸い光の模様を地面へ映していた。鳥たちが枝から枝へ飛び交い、夏の森は今日も穏やかだった。

「今日は気持ちいいね。」

 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

 その時。

 道端に咲く、小さな白い花が目に入った。

 しゃがみ込み、そっと眺める。朝露をまとった花びらが、陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。

「きれい……。」

 思わず微笑む。

 摘もうかと指先を伸ばす。

 けれど、その手は途中で止まった。

「ソルにも見せたいな。」

 小さく呟く。

 摘んでしまえば、この花はここで咲いていられない。

 だから、そのままにしておこう。

 一緒に見られれば、それで十分だった。

 アイリスは立ち上がり、再び歩き始める。頬には穏やかな笑みが浮かんでいた。

     ◇

 やがて、大きな樫の木が見えてくる。

 その根元には、一匹の白銀の猫が静かに座っていた。

「ソル。」

 名前を呼ぶと、白い耳がぴくりと動く。

 ソルはゆっくりと立ち上がり、アイリスの方へ歩いてきた。

 初めて会った日のような警戒は、もうどこにもない。

 それが当たり前のように。

 それが毎日のことのように。

 二人は自然と近付いていく。

「待っててくれたんだね。」

 しゃがみ込み、優しく頭を撫でる。さらり、と白銀の毛並みが指先を滑った。

 ソルは気持ちよさそうに目を細める。

 そして。

 ふわり、と軽やかに跳び上がった。

「わっ。」

 アイリスの膝へ、いつものように着地する。そのまま丸くなり、小さく喉を鳴らし始めた。

 ごろ、ごろ。

 聞き慣れた音だった。

 アイリスは嬉しそうに笑う。

「ふふ。」

「今日も一番乗りだね。」

 ソルは返事の代わりに、ゆっくりと尻尾を揺らした。

 アイリスは布袋を開き、朝食で残してきた黒パンを取り出す。慣れた手つきで半分に割ると、一つをソルの前へ差し出した。

「はい。」

 もう遠慮はいらない。

 二人にとって、それは当たり前になった朝の時間だった。

     ◇ 

 ソルは差し出された黒パンへ顔を近付ける。

 一口。

 また一口。

 慌てることもなく、ゆっくりと味わうように食べていく。

 アイリスも自分の分を口にした。

 二人で食べる黒パンは、初めて会った日のように固いはずなのに、不思議と美味しく感じられた。

「最初は全然食べてくれなかったのにね。」

 懐かしそうに笑う。

「今では、ちゃんと一緒に食べてくれる。」

 ソルは小さく喉を鳴らした。

 ごろ、ごろ。

「ふふ。」

「返事してくれた。」

 食べ終えると、ソルは口元をぺろりと舐める。その仕草は、初めて出会った日と何も変わらない。

 アイリスは自然と笑みを浮かべた。

「美味しかった?」

 ソルは答えない。

 代わりに、アイリスの手へそっと頭を擦り寄せる。

「もう。」

「甘えん坊なんだから。」

 愛おしそうに撫でると、白銀の毛並みは陽の光を受けて静かに輝いた。

     ◇

 二人は樫の木の根元へ並んで座る。吹き抜ける風が心地よい。葉擦れの音だけが、穏やかに耳へ届く。

 誰も話さない。

 それでも、不思議と退屈ではなかった。

 ソルはアイリスの膝で丸くなり、静かに目を閉じている。

 アイリスはその背中を、ゆっくりと撫で続けた。さらり、と柔らかな毛並みが指先を滑る。

「ねぇ。」

 ぽつりと呟く。

「最近ね。」

 少し照れくさそうに笑う。

「朝になるのが楽しみなの。」

 白い耳がぴくりと動いた。

「前はね。」

「森へ来ると、一人になれるから好きだった。」

 木漏れ日を見上げる。

「誰にも気を使わなくていいし。」

「何も考えなくていいし。」

「ここにいると、ほっとできたから。」

 少しだけ間を置く。

 そして、ゆっくりとソルへ視線を向けた。

「でも、今は違う。」

 優しく微笑む。


「君に会えるから。」


 その言葉は、とても自然だった。

 飾ることもなく。

 照れ隠しをすることもなく。

 胸の中にある気持ちを、そのまま口にしただけだった。

 ソルは静かに少女を見つめる。

 何も言わない。

 けれど、その青い瞳は穏やかに細められていた。

 まるで、その言葉を大切に受け止めるように。

 アイリスは少し照れくさそうに笑う。

「こんなこと。」

「君にしか言えないな。」

 白い頭を優しく撫でる。

 ソルは安心したように、ごろ、ごろと喉を鳴らした。その音は、森の静けさへ溶け込むように優しく響いていた。

     ◇

 やがて、木漏れ日は少しずつ傾き始める。樫の木の影がゆっくりと長く伸び、夏の風が二人の間を静かに吹き抜けていった。

 アイリスは樹にもたれ、小さく息を吐く。

「気持ちいいね。」

 ソルも身体を寄せるように隣へ移動する。

 一人と一匹は、そのまま何も話さず空を見上げた。

 白い雲がゆっくりと流れていく。

 それを眺めているだけで、心が満たされるような時間だった。

 言葉はなくてもいい。

 一緒にいるだけで、それだけで十分だった。

 どれくらい、そうしていただろう。

 やがて、アイリスはゆっくりと立ち上がる。

「そろそろ帰らないと。」

 孤児院では夕食の支度が始まる頃だ。遅くなれば、マリアが心配してしまう。

 アイリスはしゃがみ込み、ソルと目を合わせる。


「また明日ね。」


 ソルは少女を見上げた。

 そして、小さく一度だけ鳴く。

「にゃあ。」

 その返事が嬉しくて、アイリスは柔らかく笑った。

「約束だよ。」

 ソルは静かに尻尾を揺らす。

 それが二人だけの「また明日」の返事だった。

 アイリスは何度も振り返りながら、森をあとにする。

 樫の木の下には、白銀の猫が静かに座っていた。

 明日も。

 きっと同じように会える。

 アイリスは、そう信じて疑わなかった。

     ◇ 

 翌朝。

 アイリスはいつものように夜明け前に目を覚ました。

 薪を割り。

 洗濯を干し。

 マリアに頼まれた仕事を終え。

 朝食を食べる。

 黒パンを半分だけ残し、いつものように布へ包んだ。その動きは、もうすっかり日課になっていた。

「今日は何して遊ぼうかな。」

 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

 鬼ごっこをしようか。

 小川へ行こうか。

 それとも、また本を読もうか。

 そんなことを考えるだけで、自然と頬が緩んだ。

     ◇

 夏の森は今日も穏やかだった。木漏れ日が揺れ、小鳥たちが楽しそうにさえずっている。

 樫の木が見えてくる。

 アイリスは自然と笑顔になった。

「ソル。」

 呼びかける。

 返事はない。

「あれ?」

 樫の木の根元には、誰もいなかった。

 アイリスは辺りを見回す。

「まだ来てないのかな。」

 そう呟き、いつもの場所へ腰を下ろした。

 布袋を開く。

 黒パンを取り出し、半分に割る。

 自分の隣へ、もう半分をそっと置いた。

「今日は寝坊かな。」

 くすりと笑う。

 まだ心配はしていなかった。

 風が静かに吹き抜ける。

 葉擦れの音だけが聞こえていた。

     ◇

 しばらく待つ。

 パンはそのまま。

 アイリスは何度も森の奥へ視線を向けた。

「ソル。」

 小さく呼ぶ。

 返事はない。

「もう少し待ってみよう。」

 そう言って空を見上げた。

 白い雲がゆっくりと流れていく。太陽は少しずつ高く昇り、木漏れ日は昼の明るさへ変わっていった。

 それでも。

 ソルは来なかった。

     ◇

 アイリスはゆっくりと立ち上がる。

 胸の奥が、少しだけざわついていた。

「ソル?」

 今度は少しだけ大きな声で呼ぶ。

 森は静かなままだった。

 返事はない。

「どこ?」

 樫の木の周りを歩く。

 姿は見えない。

 木の上も見上げる。

 いつも飛び降りてきた枝にも、白い姿はなかった。

「……かくれんぼ?」

 そう言って笑ってみる。

 けれど。

 返事はない。

     ◇

 アイリスは小川へ向かった。

 二人で遊んだ場所。

 ソルが魚を捕まえようとして、びしょ濡れになった場所。

「ソル!」

 澄んだ水面へ声が響く。

 魚たちは驚いて泳ぎ去る。

 けれど。

 白い猫は現れなかった。

 花が咲く場所も探した。

 追いかけっこをした道も歩いた。

 本を読んだ樫の木の裏側も見て回る。

「ソル。」

「どこ?」

 歩いて。

 立ち止まって。

 また歩く。

 何度呼んでも、返事はなかった。

     ◇

 気が付けば、太陽は西へ傾き始めていた。

 アイリスは樫の木へ戻る。

 朝、自分が置いた黒パンは、そのまま残っていた。誰にも食べられていない。

 アイリスはしゃがみ込み、そのパンを静かに布へ包み直した。

「今日は会えなかったね。」

 寂しそうに笑う。

 少しだけ樫の木を見上げる。

「また明日ね。」

 その声は、森へ静かに溶けていった。

 返事はない。

 風だけが樫の木の葉を揺らしている。

 アイリスはもう一度だけ森を振り返る。


「明日は……会えるよね。」


 そう呟くと、小さく微笑み、孤児院への道を歩き始めた。

 樫の木の下には、誰もいない。

 夏の森は昨日と何一つ変わらず穏やかなのに。

 そこにいるはずの一匹だけが、いなかった。

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