第6話 魔法は人を幸せに
初夏を迎えた森は、すっかり緑に包まれていた。若葉は鮮やかな深緑へと色を変え、小川の水は陽の光を受けてきらきらと輝いている。吹き抜ける風もどこか涼しく、木々の葉を心地よく揺らしていた。
「今日は暑いね。」
アイリスはそう言いながら靴を脱ぎ、小川へ足を浸す。
「つめた……。」
水がひんやりと包み込み、思わず頬が緩んだ。
その様子を見ていたソルも、小川の縁まで歩いてくる。水面を覗き込む青い瞳。耳がぴくり、と動いた。
「どうしたの?」
アイリスも身を乗り出して水面を覗く。
透き通った川底を、小さな銀色の魚が群れになって泳いでいた。
「あっ。」
「お魚。」
ソルは静かに腰を落とす。尻尾がゆっくり左右へ揺れ始めた。獲物を狙う猫そのものの姿だった。
「頑張れ。」
アイリスは楽しそうに見守る。
ソルは魚の動きに合わせ、じりじりと距離を詰めていく。
そして。
勢いよく飛び込んだ。
――ばしゃん!
大きな水しぶきが上がる。
「きゃっ!」
アイリスの顔にも冷たい水滴が飛んできた。
一瞬だけ静まり返る森。
やがて水面から顔を出したソルは、魚どころか全身ずぶ濡れだった。白銀だった毛並みはぺたんと身体へ張り付き、耳からもしずくがぽたぽたと落ちている。
アイリスは目を丸くした。ソルも、何が起きたのか分からないような顔で立ち尽くしている。
その姿があまりにも可笑しくて。
「あははっ!」
堪えきれず吹き出した。
「もう!」
「なにしてるの!」
お腹を抱えて身をよじる。涙が滲むほど笑ったのは、いつ以来だろう。
ソルは少しだけ耳を伏せ、不満そうにこちらを見る。
「ご、ごめん。」
「でも……。」
「あははっ!」
笑いが止まらない。
そんなアイリスを見て、ソルは小さく鼻を鳴らした。少しだけ拗ねたように、小川からゆっくりと上がってくる。
「怒った?」
しゃがみ込み、申し訳なさそうに微笑む。
「ごめんね。」
布袋から小さな布を取り出した。
「風邪ひいちゃうよ。」
濡れた頭をそっと包む。耳を優しく拭き。背中を撫でるように水気を取っていく。
ソルは最初だけ少し落ち着かない様子だったが、やがて観念したように目を閉じた。
「いい子。」
アイリスは嬉しそうに微笑む。
「もう大丈夫。」
白銀の毛並みは少しずつ元のふわふわした姿へ戻っていった。
その時だった。
ソルが身体を大きく震わせる。
ぶるぶるっ。
細かな水滴が勢いよく飛び散った。
「きゃっ!」
今度はアイリスの服まで濡れてしまう。
一瞬だけ二人は顔を見合わせた。
そして。
「……お返し?」
アイリスが笑う。
ソルもどこか得意そうに目を細めた。
「ふふ。」
「一本取られちゃった。」
穏やかな笑い声が、小川のせせらぎへ溶けていく。
◇
二人は樫の木の下へ戻った。心地よい風が吹き抜ける。
アイリスは柔らかな草の上へ寝転び、大きく空を見上げた。ソルもその隣へ丸くなる。
流れていく白い雲を眺めながら。
二人はしばらく何も話さなかった。
◇
遠くから小鳥たちのさえずりがこだましている。
アイリスは空を見上げたまま、小さく呟いた。
「ねぇ、ソル。」
白い耳がぴくりと動く。
「私ね。」
少しだけ照れくさそうに笑う。
「魔法って、綺麗だと思う。」
木漏れ日が指先へ降り注ぐ。
「火も、水も、風も、土も、光も、闇も、無も。」
「全部。」
「すごく綺麗。」
ソルは静かに少女を見つめていた。
「みんなは怖いって言うけど。」
「私はそう思わない。」
少しだけ目を細める。
「怖いものじゃないと思う。」
風が二人の間を吹き抜ける。
アイリスは空へ手を伸ばした。
「魔法ってね。」
「誰かを傷付けるためだけのものじゃないと思う。」
「困っている人を助けたり。」
「泣いている人を笑顔にしたり。」
「そんなことも、きっとできる。」
静かな声だった。けれど、その言葉には幼いながらも揺るがない想いが込められていた。
「だから。」
「私は。」
「魔法は、人を幸せにするものだと思う。」
ソルは瞬きもせず、真っ直ぐにアイリスを見つめていた。
「いつか。」
「みんなにも、そう思ってもらえたらいいな。」
ソルは何も言わなかった。ただ静かに少女の隣へ寄り添う。
アイリスは嬉しそうに微笑み、その白銀の毛並みを優しく撫でた。
森を吹き抜ける風は、どこまでも穏やかだった。




